4月13日付朝日新聞朝刊の「3.11 記者有論」欄に載った記事「失われた言葉 想像し続ける力がほしい」に、同意できる内容がありました。
「圧倒的な喪失感を前にしたとき、人は言葉も一緒に失うのだ、と初めて知った」と書き出された記事。記者自身が宮城県石巻市出身で、実家が被災、幸い両親の無事は確認できたものの、そのことに後ろめたさを感じながら、記者として被災者の取材を続けています。後半をコピーします:
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被災しても住民は静かで、取り乱さなかった------。震災後に上がった称賛の声に、ずっと違和感がある。
「下を見たらきりがない」「誰もがつらいんだ」。避難所で何度も聞いた言葉だ。天災の残酷さを思う。本当は「なぜ自分が」という怒りや憤りでいっぱいだ。でも、現実を受け入れなければ前に進めない。「もとの生活に戻れたら」などと一度でも思ったら、生きていく気力が失われる。だからじっと黙って耐えている。私にはそう思える。
封じ込められた思いは、外からはわかりにくい。津波は一瞬にして人々の命や暮らしを奪ったが、これからはじりじりと感情を奪い取っていく。いま、そんな恐怖を感じている。
時間がたてば日常は戻り、記憶は薄れる。それでも被災地は「3.11」を生き抜かなければならない。被災地に寄り添い、失われた言葉を想像し続ける必要がある。それは、この喪失感を表現する言葉を見つけられずにいる、私自身の問題でもある。
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被災者の、東北地方の人たちの我慢強さが美徳として称賛されることに、この記者と同様、私もずっと違和感を持っていました。もちろん、確かに美徳であり、尊敬に値する気質だと思いますが、被災者のこれからの心のありようを考えるとき、必ずしもご本人たちのためにはならないと思うからです。
なんとなれば、私自身ががんの治療を通じて経験したからです。
「下を見たらきりがない」「誰もがつらいんだ」 人は苦しみや怒り等のマイナスエネルギーに耐えようとするとき、このようにそれを相対化して乗り越えようとします。私もそうでした。「私はがんを初期で発見、治療できた。もっと大変な患者がたくさんいる。この程度でへこたれてはならない」 そう思うことで、苦しみを乗り越えようとしたのです。
でも、厳然と絶対的に存在する苦しみは、相対化することでは乗り越えられないこと、その存在自体が排除されない限りは乗り越えられないことを、私は身をもって体験しました。主治医が最初に言った言葉、「初期の患者さんほど心のケアが必要とも言われています」の意味が、治療前には理解できませんでしたが、手術後の放射線治療とホルモン治療が進むにつれ、この言葉の意味を実感したのです。(詳しくはこのブログに掲載の闘病記に載せています。)
苦しみを一人で抱え、自己解決することは、確かに一見格好のよいことかもしれません。周りに心配や迷惑をかけたくない一心のときもあれば、自尊心に阻まれて弱みを見せたくない場合もあるでしょう。
でも、苦しみを抱えたままにしておくと、苦しみは心の深層へ、深層へと内包されていき、時間が経てば経つほど解放されにくくなります。そして、心はだんだん緊張で萎縮し、硬く、冷たくなってしまうのです。
今、被災者の心のケアに当たる人たちが、「我慢しないで」「甘えられるときは甘えて」と繰り返し伝えているのは、そういう理由によると思います。
そして、このことは、苦しみを抱える本人を不幸にするだけではなく、ときには周りの人をも不幸にしてしまいます。マイナスエネルギーを抱えていると、他の人にもその硬く冷えた心で接することになります。他の人が苦しみを訴えてきたとき、硬く冷たくなった心はこのように反応します。「みんな、人には言えない苦しみを抱え、懸命に生きている。苦しいのはあなただけじゃない。泣き言を言わないで、あなたも我慢しなさい」と。そのように接せられた人は、苦しみが癒されるどころか、逆に、自分も同じように心の中に閉じ込めようとしてしまいます。
このように、硬く冷えた心で他の人に接することは、他の人をも不幸にしてしまうのです。無自覚のうちに、負の連鎖が起こるのですね。こんなに残念なことはありません...。私の場合は、あろうことか、愛しい妹を犠牲にしてしまいました.........。
ですから、人に優しくなるには...人の心に寄り添うためには...まず、自分が抱えている悩みや苦しみを開放し、自らを解放することによって、しなやかな、温かな心を持つことが大事だと、私は自分の体験から思います。非被災者が被災者の心に寄り添うためには、まずは自分自身が心身ともに健康でなければなりませんね。その意味でも、非被災者は被災者と共倒れするのではなく、日常を大切にしながら、通常の生活を送ることが大事なのかもしれません。自粛を続けると経済が落ち込むと、最近よく言われますが、最終的に社会を支えるのは人の心だと思います。
私の友の中にも、人知れず、心の奥深ーくに苦しみを閉じ込めている(少なくとも私にはそう見えます)人がいます。私にはそれが残念でなりません。彼女は私が尊敬し、敬愛する、とても素敵な女性であり、私の大事な友だからです。彼女が自分の苦しみを何らかの方法で開放し、彼女自身が解放されるとき、彼女はもっともっと素敵な女性になれると私は思っています。
ACで度々流される金子みすゞさんの詩は、心に響きますね。それに刺激されて詩にしてみました。あまりに拙いのですが、耳を傾けてみてください。
「苦しいよ...」 「苦しいだろうねぇ...」
「頭にくるよ...」 「頭にくるだろうねぇ...」
「でも、我慢してるよ」 「え?我慢してるの?」
「そう、我慢しなくちゃ...」 「いいや、我慢しなくていいんだよ」
「そうなの?」 「うん、そうだよ」
「な~んだ......」 「な~んだ......」
ぎゅうぎゅうに詰まったポケットを空っぽにしてみたら......別の新しいものがまた入れられるよ(#^.^#)
「圧倒的な喪失感を前にしたとき、人は言葉も一緒に失うのだ、と初めて知った」と書き出された記事。記者自身が宮城県石巻市出身で、実家が被災、幸い両親の無事は確認できたものの、そのことに後ろめたさを感じながら、記者として被災者の取材を続けています。後半をコピーします:
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被災しても住民は静かで、取り乱さなかった------。震災後に上がった称賛の声に、ずっと違和感がある。
「下を見たらきりがない」「誰もがつらいんだ」。避難所で何度も聞いた言葉だ。天災の残酷さを思う。本当は「なぜ自分が」という怒りや憤りでいっぱいだ。でも、現実を受け入れなければ前に進めない。「もとの生活に戻れたら」などと一度でも思ったら、生きていく気力が失われる。だからじっと黙って耐えている。私にはそう思える。
封じ込められた思いは、外からはわかりにくい。津波は一瞬にして人々の命や暮らしを奪ったが、これからはじりじりと感情を奪い取っていく。いま、そんな恐怖を感じている。
時間がたてば日常は戻り、記憶は薄れる。それでも被災地は「3.11」を生き抜かなければならない。被災地に寄り添い、失われた言葉を想像し続ける必要がある。それは、この喪失感を表現する言葉を見つけられずにいる、私自身の問題でもある。
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被災者の、東北地方の人たちの我慢強さが美徳として称賛されることに、この記者と同様、私もずっと違和感を持っていました。もちろん、確かに美徳であり、尊敬に値する気質だと思いますが、被災者のこれからの心のありようを考えるとき、必ずしもご本人たちのためにはならないと思うからです。
なんとなれば、私自身ががんの治療を通じて経験したからです。
「下を見たらきりがない」「誰もがつらいんだ」 人は苦しみや怒り等のマイナスエネルギーに耐えようとするとき、このようにそれを相対化して乗り越えようとします。私もそうでした。「私はがんを初期で発見、治療できた。もっと大変な患者がたくさんいる。この程度でへこたれてはならない」 そう思うことで、苦しみを乗り越えようとしたのです。
でも、厳然と絶対的に存在する苦しみは、相対化することでは乗り越えられないこと、その存在自体が排除されない限りは乗り越えられないことを、私は身をもって体験しました。主治医が最初に言った言葉、「初期の患者さんほど心のケアが必要とも言われています」の意味が、治療前には理解できませんでしたが、手術後の放射線治療とホルモン治療が進むにつれ、この言葉の意味を実感したのです。(詳しくはこのブログに掲載の闘病記に載せています。)
苦しみを一人で抱え、自己解決することは、確かに一見格好のよいことかもしれません。周りに心配や迷惑をかけたくない一心のときもあれば、自尊心に阻まれて弱みを見せたくない場合もあるでしょう。
でも、苦しみを抱えたままにしておくと、苦しみは心の深層へ、深層へと内包されていき、時間が経てば経つほど解放されにくくなります。そして、心はだんだん緊張で萎縮し、硬く、冷たくなってしまうのです。
今、被災者の心のケアに当たる人たちが、「我慢しないで」「甘えられるときは甘えて」と繰り返し伝えているのは、そういう理由によると思います。
そして、このことは、苦しみを抱える本人を不幸にするだけではなく、ときには周りの人をも不幸にしてしまいます。マイナスエネルギーを抱えていると、他の人にもその硬く冷えた心で接することになります。他の人が苦しみを訴えてきたとき、硬く冷たくなった心はこのように反応します。「みんな、人には言えない苦しみを抱え、懸命に生きている。苦しいのはあなただけじゃない。泣き言を言わないで、あなたも我慢しなさい」と。そのように接せられた人は、苦しみが癒されるどころか、逆に、自分も同じように心の中に閉じ込めようとしてしまいます。
このように、硬く冷えた心で他の人に接することは、他の人をも不幸にしてしまうのです。無自覚のうちに、負の連鎖が起こるのですね。こんなに残念なことはありません...。私の場合は、あろうことか、愛しい妹を犠牲にしてしまいました.........。
ですから、人に優しくなるには...人の心に寄り添うためには...まず、自分が抱えている悩みや苦しみを開放し、自らを解放することによって、しなやかな、温かな心を持つことが大事だと、私は自分の体験から思います。非被災者が被災者の心に寄り添うためには、まずは自分自身が心身ともに健康でなければなりませんね。その意味でも、非被災者は被災者と共倒れするのではなく、日常を大切にしながら、通常の生活を送ることが大事なのかもしれません。自粛を続けると経済が落ち込むと、最近よく言われますが、最終的に社会を支えるのは人の心だと思います。
私の友の中にも、人知れず、心の奥深ーくに苦しみを閉じ込めている(少なくとも私にはそう見えます)人がいます。私にはそれが残念でなりません。彼女は私が尊敬し、敬愛する、とても素敵な女性であり、私の大事な友だからです。彼女が自分の苦しみを何らかの方法で開放し、彼女自身が解放されるとき、彼女はもっともっと素敵な女性になれると私は思っています。
ACで度々流される金子みすゞさんの詩は、心に響きますね。それに刺激されて詩にしてみました。あまりに拙いのですが、耳を傾けてみてください。
「苦しいよ...」 「苦しいだろうねぇ...」
「頭にくるよ...」 「頭にくるだろうねぇ...」
「でも、我慢してるよ」 「え?我慢してるの?」
「そう、我慢しなくちゃ...」 「いいや、我慢しなくていいんだよ」
「そうなの?」 「うん、そうだよ」
「な~んだ......」 「な~んだ......」
ぎゅうぎゅうに詰まったポケットを空っぽにしてみたら......別の新しいものがまた入れられるよ(#^.^#)
で、自分で何とかしなくちゃって、結局自分の中に閉じ込めるか、でなければ宗教的な信仰に向かうか…
う~~~ん、難しい…
確かにそうなんですよね。「人の心に寄り添う」ことは本当にむずかしいことだと思います。私なんかついつい頭で考えてしまうので、よく失敗します。
誰かに癒されたいときは、聞き上手な人を探すといいかもしれませんね。
そう、だからこそ、心のよりどころとして宗教にすがるのでしょうね。日本人はいわゆる形としての宗教を嫌う?ので、傷を自分で抱え込んでしまうのかも...。
私の宗教は自然です(#^.^#) 里山に足が向くのは私の体の自然の摂理なんでしょうねぇ。
お、芝刈りなんかよいではないですか? スコアを気にせず、無心ですっこ~んと打つのはいかがかしらん??? 「どうせやるならホールインワンを狙う」? それは却ってストレスたまりますわ。
この考察、言われてみればそうかなと思います。ストレスが体の弱い部分、例えば私でしたら、右の股関節とか、左の腰とか、そんなふうに偏って出るような気がします。
声が洩れないようにマスクして歩きながら歌う? 笑いました。私がよく歩く里山なら、マスクなしでも歌えそうです(#^.^#)