「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

米軍に「一矢」報いた先人達―サイパン・テニアンと日本人(『祖国と青年』平成18年2月号掲載)

2006-06-10 20:15:28 | 【連載】 日本の誇り復活 その戦ひと精神
「日本の誇り」復活
―その戦ひと精神(七)
米軍に「一矢」報いた先人達―サイパン・テニアンと日本人

 年頭に天皇皇后両陛下のサイパン行幸啓時の御製・御歌が発表された。その直後の一月三日から六日にかけて、日本会議熊本ではサイパン・テニアン戦跡慰霊巡拝を行なつた。現地の新聞でも連日、御製・御歌がサイパン行幸啓時のお写真と共に大きく報じられてゐた。一月五日夜に、サイパンの日本人協会幹部の方々や松海サイパン領事をお招きしての交流会に於ける挨拶で私は、「バンザイクリフに御製碑を建立したら如何でせうか。」との提案を行なつた。日本人協会の吉井信行会長は大変乗り気で、理事会で是非協議したいとのご返事を戴いた。実現に動けば全国の同志に協力を呼びかけたい。
 さて、サイパン戦に関しては前に紹介した事があるので今回は、訪問したテニアン島の戦ひを中心に記したいと思ふ。
 サイパン島の地勢は、西海岸に砂浜が南北に広がつてをり上陸がたやすい反面、一度島内に入るや最高峰のタッポーチョ山は標高476mもあり、玉砕後に山奥の密林の複雑な地形を利用してゲリラ戦が戦はれた事が納得される険しい地形である。一方、サイパン島の南西5kmに位置するテニアン島は、その多くが断崖絶壁に囲まれた南北約20km・東西約10kmの小さい島である。上陸ポイントは砂浜となる三ヶ所に限られてゐる。だが島の内部はなだらかな平坦地であり、最も高い所で187mしかない。テニアン侵攻に当つて米軍はサイパン侵略時の犠牲の多さ(米軍損害は戦死・行方不明3441人、負傷1万1465人)に恐怖して、上陸以前に『砲爆撃トライアングル』と呼ばれる徹底的な準備攻撃を行なつた。それは、航空機による空中からの爆撃、海軍支援艦隊による海上からの艦砲射撃、サイパン南部のアギガン岬に布陣した重砲兵軍団からの砲撃の三つである。空爆は上陸の43日前、艦砲が41日前、砲撃が33日前から始まつてゐる。サイパンでは徹底した空爆・艦砲射撃は上陸の4日前からである。更に、上陸時の出血を最小限に留める為に「陽動作戦」が考案された。米軍は南西部のテニアン湾への上陸を偽装し、日本軍守備隊を島の南部に引き寄せ、その隙を狙つて七月二十四日早朝、約三万人の上陸部隊の内の半数を北西部の狭い海岸から電撃的に上陸させた。島内に展開する日本軍は八一一一名、更に約三五〇〇名の居留民義勇兵が組織されてゐた。二十五日に日本軍は三方向から上陸部隊に対して夜襲を行なふが敗退、約二五〇〇人が戦死する。その後徐々に南部へと押され、三十一日には南部唯一の水源地マルポを占領される。八月二日深夜二十四時、緒方敬志連隊長は残存兵力を率いしろだすき白襷をかけて最後の攻撃を敢行し玉砕する。緒方大佐率ゐる歩兵第五十連隊(駐屯地 松本)は、日露戦争末期に編成された連隊であり、その誇りを日露戦争時の白襷隊になぞらへて表はしたのであつた。
 この様に圧倒的に劣勢であつたテニアンの戦ひにおいて、敵にいっし一矢報い、米軍戦史に記録される事となつたのが、南部のカロリナス台に設置された日本海軍の六インチ沿岸砲三門であつた。七月二十四日朝、アメリカの戦艦「コロラド」と駆逐艦「ノーマン・スコット」は陽動作戦の一環で日本軍陣地砲撃の為にテニアン湾に接近した。その刹那、テニアン町の南東に面したカロリナス台の砲台が火を吹いた。距離は5km位あつたといふ。砲撃は正確で初弾から命中し、「コロラド」は十五分間に22発を被弾、43人が戦死、176人が負傷し、射程距離外への離脱を余儀無くされる。「ノーマン・スコット」も6発を被弾し艦長を含む19人が戦死し47人が負傷した。その後も四日間この砲台は戦ひ続けた。
 テニアン島の戦ひで米軍は、後に日本本土の一般住民を焼殺する事となるナパーム弾(油脂焼夷弾・高炎熱を放射)34発を初めて使用してゐる。島を占領した米軍は北部にB29戦略爆撃機の巨大航空基地を整備した。そしてここから原爆を搭載したB29も出撃したのである。
 かつてのテニアン航空基地跡地には、B29部隊のナンバーを記した数多くの記念碑が建てられてゐる。更に原爆搭載地1号・2号の記念碑が立ち、広島に投下された「リトル・ボーイ」(ウラン型)、長崎に投下された「ファットマン」(プルトニウム型)の地下格納庫が往時のままの姿で見る事が出来る。その上をガラスで覆ひ当時の写真と解説が英語で掲示されてゐる。焼夷弾・原爆と如何に多くのむこ無辜の日本人が殺戮された事であらうか。終戦の詔書の「敵ハあらた新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテしきり頻ニむこ無辜ヲ殺傷シ」「おもひ想ヲ致セハごだい五内爲ニ裂ク」とのお言葉が思ひ起こされ胸を締めつける。サイパンやテニアンの日本軍守備隊の合言葉は「我太平洋の防波堤たらん」であつた。サイパンが陥落しテニアンが占領されるに及んで、悪魔の鳥はテニアンを基地として日本本土焼殺作戦を始めたのである。
 そのB29基地に一矢報いんとした話を紹介する。昭和二十年三月十日の東京大空襲の直後、陸軍は日本電気に「無人飛行機によるサイパン基地攻撃」の研究実施を依頼した。無線操縦による無人飛行機でサイパンを攻撃しやうとするもので、多摩河畔の武蔵高工講堂を研究基地として、戦地から呼び戻されて電波兵器の研究に当つてゐた多賀久生氏を研究主任として約五十名が開発に参画、「たち立十八研究班」と呼ばれた。米軍機がサイパンから富士山をめがけて飛来するのを逆手にとつて、千葉県の白浜と静岡県の御前崎に巨大な放送機を設置して電波を発進交叉させて富士山=サイパン間に電波レールを作り、その上に無人飛行機を飛ばしサイパン上空で作動をやめて敵基地に突入させるといふものだつた。不眠不休の努力は実り八月には完成する。陸軍は名刀になぞらへて「太刀十八」と命名し、第一号機の発進を八月十五日の午後と決めた。無念にも発進の時は遂に来なかつた。サイパンに無人機を飛ばして一矢報いんとした当時の研究者達の執念と努力には驚くと共に感動し誇りを覚える。
 ますらをの戦ひの果てこの島ゆ悪魔の鳥は日本襲ひ来
 原爆の搭載跡地にたたづ佇めば非道のわざ業に怒り込み上ぐ
 米軍に一矢報ゆと身をこ粉にし「太刀十八」を生みしますらを 

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