昭和46年に亡くなった父方の祖母の40年祭があった。
身内の中でも祖母を覚えている人は少なくなった。
子も孫も欠けてしまった。
その頃の火葬場の待合場所はガラス戸の小屋のようなもので、炭火で震えながら骨を拾う順番を待っていたことを思い出した。
祖母は東北出身北海道育ちの人で、南国土佐の我々には味付けがなんでも濃かった。
若い頃は東京で声楽を教えていたそうだが、私が知っている祖母は割烹着を来て、屋地にある梅と植えたシソの葉で梅干を漬け、柿を晒して干し柿を作り、火鉢でもちを焼き、白黒テレビで大鵬と柏戸のお相撲を見ていた。
同い年の祖父は昭和60年に亡くなった。
その前後に私の子らが生まれた。
居た人はいなくなり、居なかった子が現れ、今あちこちに散らばっている。
祖母が健在の頃は若嫁だったわが母も80歳になる。
精進落の後、50年祭は誰がするだろうね、と話した。
身内の中でも祖母を覚えている人は少なくなった。
子も孫も欠けてしまった。
その頃の火葬場の待合場所はガラス戸の小屋のようなもので、炭火で震えながら骨を拾う順番を待っていたことを思い出した。
祖母は東北出身北海道育ちの人で、南国土佐の我々には味付けがなんでも濃かった。
若い頃は東京で声楽を教えていたそうだが、私が知っている祖母は割烹着を来て、屋地にある梅と植えたシソの葉で梅干を漬け、柿を晒して干し柿を作り、火鉢でもちを焼き、白黒テレビで大鵬と柏戸のお相撲を見ていた。
同い年の祖父は昭和60年に亡くなった。
その前後に私の子らが生まれた。
居た人はいなくなり、居なかった子が現れ、今あちこちに散らばっている。
祖母が健在の頃は若嫁だったわが母も80歳になる。
精進落の後、50年祭は誰がするだろうね、と話した。