ガンバレ、ニッポン

なんか、不安定なニッポンですね。

ベーシックインカムとは?

2020-01-17 12:22:07 | 国内
そーすから

概説
国民の最低限度の生活を保障するため、国民一人一人に現金を給付するという政策構想。生存権保証のための現金給付政策は、生活保護や失業保険の一部扶助、医療扶助、子育て養育給付などのかたちですでに多くの国で実施されているが、ベーシックインカムでは、これら個別対策的な保証を一元化して、包括的な国民生活の最低限度の収入(ベーシック・インカム)を補償することを目的とする。従来の「選択と集中」を廃止し、「公平無差別な定期給付」に変更するため、年金や雇用保険、生活保護などの個別対策的な社会保障政策は、大幅縮小または全廃することが前提となる。包括的な現金給付の場合は配給制度であり、国民全員に無償で現金を給付するイメージから社会主義的と批判されることがあるが、ベーシックインカムは自由主義・資本主義経済で行うことを前提にしている場合が多い。
ベーシックインカムの根底には、無知や怠惰といった社会悪の除去という目的がある。ダニエル・ラヴェントス(スペイン語版)は、その目的のために法律化されるベーシックインカムは、世帯にではなく個人に対して支給されること、他の収入源から所得は考慮しないこと、仕事の成果や就労意欲の有無は問わないこと、という三つの原則に従わなければならないと主張している。
新自由主義者からの積極的BI推進論には、ベーシック・インカムを導入するかわりに、生活保護・最低賃金・社会保障制度を消滅させ、福祉政策や労働法制を「廃止」しようという意図が根底に流れている。また、新自由主義者の平等観でBIを導入すると、富裕層に貧困層と同じ金額を支給するという悪平等も発生する。
一方で、この考え方・思想に対しては古代ローマにおけるパンとサーカスの連想から「国民精神の堕落」など倫理的な側面から批判されることがある。所得給付の額次第では給付総額は膨大なものになり、国庫収入と給付のアンバランスが論じられたり、税の不公平や企業の国際競争力の観点が論じられることもある。


貧困対策

ベーシックインカムの基本的な目標は一定の所得を無条件で保障することで、すべての国民が最低限以上の生活を送れるようにすることである。ワーキングプア問題への処方箋として期待する向きもある。ワーキングプアは、自己の年収が200万円を下回る貧困層の立場に置かれているものの、辛うじて生活保護を要するほど困窮した立場にはないとして、従来の社会保障制度では救済されない。ベーシックインカムを導入すれば、ワーキングプアにも社会保障を受ける機会を提供できるとされる。また生活保護のように、生活水準が著しく低下してから人々を救う「救貧」と異なり、「防貧」の側面がある。

少子化対策

ベーシックインカムは負の所得税と異なり、世帯ではなく個人を単位として給付される。子供を増やすことは世帯単位での所得増加に繋がるため、少子化対策となりうるという考えがある。

地方の活性化

ベーシックインカムの給付額は生活に必要な最低限といわれることが多い。全国一律であると仮定した場合、物価の安い地方に生活する動機付けになるという意見がある。

社会保障制度の簡素化

現在ある複数の年金制度、ハンディキャップを負った人のための保障など種々の社会保障制度のうち、失業保険、生活保護、および基礎的な年金などベーシックインカムで代替できるものは一本化し、他を補助的に導入することで簡素化されると予想される。これにより最近特に問題になっている生活保護の不正受給問題が解決できる

行政コストの削減

社会保障制度を簡素化できれば、それらの運用コストは簡素化に応じて削減される。これはベーシックインカムの導入目的の一つでもある。 さらにベーシックインカム実現への課題の一つである財源問題は、現行の社会保障政策を全廃しベーシックインカムに一本化を行えば、財源となる予算の付け替えだけで済むため、同時に解決可能との意見もある。また、現行の生活保護や雇用調整助成金では働かない状態を維持するため受給の条件に合わせる人がいる、負の動機付けや、交渉や制度の利用の得手、不得手から、適切な可否判断が難しいという意見がある。

労働意欲の向上

現在の年金や生活保護の制度には所得制限があり、働いて収入を得ると年金や生活保護の減額や支給停止が行われ、収入が減少するため労働意欲の低下をまねくという説もある。さらに低賃金労働者よりも、生活保護家庭が収入が上回る逆転現象が発生する場合もある。
一方ベーシックインカムは所得制限がない。そのため、労働意欲が向上するという意見もある。

在日韓国・朝鮮人の事件年表

2020-01-17 08:49:40 | 外国人犯罪
そーすから

-1944年

1921年(大正10年)6月3日 - 東京市電運転手連続殺傷事件、東京市電の運転手だった朝鮮人が7人を殺害、10人を負傷させる
1923年(大正12年)9月1日 - 朴烈事件
1931年(昭和6年)1月18日 - 荏原警察署巡査殺害事件、秘密結社「赤色自衛団」が特高巡査を殺害
1932年(昭和7年)1月8日 - 桜田門事件、昭和天皇暗殺未遂事件。
1942年(昭和17年) - 多摩川流域軍需品窃盗団事件、軍需品工場を荒しまわる組織的窃盗団、窃盗338件、104人検挙

1945-1955年

1945年(昭和20年)

8月30日 名古屋少年匕首殺害事件、路上で少年3人が脅迫されて金銭を奪われ、匕首で切り付けられて1人死亡、1人負傷、犯人は拘置所から脱獄、韓国に逃亡
10月22日 大阿仁村事件、秋田県の栗林に侵入し村人と乱闘
12月
24日 生田警察署襲撃事件(第1回)拳銃強盗事件にからんで50名を超える朝鮮人の暴徒が襲撃、連合国軍が暴動を鎮圧
29日 直江津駅リンチ殺人事件、朝鮮人3人組が列車の窓ガラスを叩き割り無理やり乗車しようとし、それを阻んだ乗客にパイプやスコップ等で集団暴行し殺害、朝鮮人3人組は逮捕されたが程なく逃走
1946年(昭和21年)
1月
3日 - 富坂警察署襲撃事件、トラック2台に乗った朝鮮人約80人が署内に乱入、警官に暴行し、連続拳銃強盗事件の容疑者を連れ出し逃走
9日 - 生田警察署襲撃事件(第2回)30-40人の朝鮮人が、検挙された賭博団の奪還を目的に署内に侵入、進駐軍の協力を得て鎮圧
24日 - 七条警察署襲撃事件、ヤミ米捜査を巡って警察に押しかけ、さらに京都駅前で朝鮮人約700人が的屋・博徒と大乱闘
5月
4日 - 日光中宮祠事件、旅館の帳場に盗みに入ったところを旅館経営者の家族に発見され、包丁で一家6人を刺殺、現金と小切手などを奪い放火
13日 - 長崎警察署襲撃事件、闇市を取り締まった警察に対し朝鮮人や中国人など約200人が包囲・襲撃、警官1人死亡、10人重軽傷
6月9日 - 七条警察署巡査殺害事件、京都で職務質問をしようとした巡査を射殺、朝鮮人5人逮捕
7月23日 - 東条村強盗事件、長野県で4人組強盗団が捜査中の警官を拳銃で射殺
8月
中京私設警察事件、在日本朝鮮人連盟中京支部の「座敷牢」に男性を監禁、拷問した
5日 - 富山駅前派出所襲撃事件、闇米の取り締まりで朝鮮人と警察が大乱闘
29日 - 一勝地村農家6人殺害事件、熊本県で発生した強盗殺人放火事件
9月
22日 - 坂町事件、ヤミ米の取締を行っていた警官に集団暴行
29日 - 新潟日報社襲撃事件、坂町事件を報じたことに対し新聞社を襲撃
12月20日 首相官邸デモ事件、デモ隊が首相官邸に侵入、アメリカ軍憲兵隊が出動して解散させた
1947年(昭和22年)
3月15日 - 百田駐在所巡査殉職事件、山梨県で刑事を名乗る男が拳銃で巡査を射殺
6月23日 - 神奈川税務署員殉職事件、密造酒を取り締っていた税務署員を集団暴行殺人
9月10日 - 津別事件、北海道で朝鮮人が祭の露店を荒らし、的屋と対立、乱闘
10月20日 - 尾花沢派出所襲撃事件、山形県でヤミ米摘発に反発し派出所襲撃
11月4日 - 池袋診療所強盗殺人事件
1948年(昭和23年)
春 - 会津破蔵事件、朝鮮人窃盗団による連続窃盗事件
4月
浜松事件 (抗争事件)、闇市をめぐって朝鮮人、的屋、浜松市警が抗争、銃撃戦となりMPが出動
23-26日 - 阪神教育事件(朝鮮人学校事件)、朝鮮学校閉鎖令に反対して大阪府庁や兵庫県庁を暴力で占拠、アメリカ軍も出動、非常事態宣言
6月23日 - 五所川原抗争事件、小学校の運動会での喧嘩がもとになって、香具師と朝鮮人が乱闘
10月12日 - 評定河原事件、仙台で北朝鮮国旗を持った一団がデモ行進し、米軍憲兵隊が6人検挙
12月9日 - 宇部事件、逮捕された朝鮮人を奪還しようとして警察と衝突
末頃より - ワ号事件 (連続窃盗事件)、朝鮮人窃盗団約60人による連続窃盗事件
1949年(昭和24年)
1月25日 - 益田事件、密輸の摘発を巡って約200名が警察署に押しかけ、警察官と乱闘、48名検挙
4月
6-13日 - 枝川事件、窃盗犯を逮捕しようとした警察と衝突
7-11日 - 高田ドブロク事件、新潟県で密造酒の取締りで朝鮮人が警察と対立、12人検挙
6月
2日 - 本郷事件、福井県で朝鮮人地区の地図作成に抗議し朝鮮人70人が派出所を占拠し警官に暴行
30日 - 平事件、福島県平市の警察署に乱入し占拠、警官に暴行、231人を騒擾罪で検挙
7月 塩釜事件、朝連と民団の構想を巡って警察とも紛争
8月19-20日 - 下関事件 (騒乱)、朝連と民団が乱闘、構成員の自宅を襲撃、略奪
9月
13日 - 関東朝鮮人強盗団事件、強盗殺人1件、強盗45件、窃盗861件、260人検挙
20日 - 武生事件、福井県で裁判所と検察庁の支部が放火され全焼
1950年(昭和25年)
3月20日 - 台東会館事件、在日本朝鮮人連盟が「暴力主義的団体」として解散を命じられ、台東支部があった台東会館を接収しようとしたが、妨害を受け朝鮮人119人検挙
8月15日 - 連島町事件、岡山県で約700名の朝鮮人が集会を強行し警察と乱闘、警官15名負傷、8名検挙
9月9日 - 第一次朝鮮スパイ事件の工作員および国内の朝鮮人活動家が逮捕。翌年7月11日に全員有罪の判決[1]
11月20-27日 - 長田区役所襲撃事件、朝鮮人が税免除などを要求して区役所を襲撃、20日30人逮捕、24日26人逮捕、27日179人逮捕
12月1日 - 大津地方検察庁襲撃事件、勾留中の同志の釈放を要求し検察庁に突入、暴徒化、43人逮捕
1951年(昭和26年)
1月23日 - 四日市事件、朝連四日市支部接収の妨害、暴動、15名検挙
3月
7日 - 王子朝鮮人学校事件、警察の捜査を「不当弾圧」だとして衝突、警官28人が重軽傷
21日 - 浅草米兵暴行事件、アメリカ軍兵士1人死亡、1人重傷、2人軽傷
6月13日 - 神奈川朝鮮人学校事件、朝鮮人学校の運動会をきっかけに横浜駅前で500人が暴動、28人検挙
7月20日 - 町田警察署乱入。容疑者の釈放を求めて約150人が町田署内へ乱入した。警察官7人が負傷[2]。
10月
18日 - 日野事件、滋賀県で違法デモ隊が警官隊に襲い掛かり拳銃を奪う、20人検挙
22日 - 下里村役場集団恐喝事件、兵庫県で朝鮮人約200名が村役場に押しかけ暴行脅迫恐喝、15名検挙
12月
1日 - 東成警察署襲撃事件、泥酔して保護された在日朝鮮人男性が死亡し、警官のリンチ殺人だとしてデモ行進を行っていた朝鮮人らが署内に突入を図り、3人逮捕
16日 - 親子爆弾事件、大阪で事故死した朝鮮人の慰霊祭をきっかけに、クラスター爆弾の工場を襲撃、集団暴行
1952年(昭和27年)
2月
21日-23日 - 木造地区警察署襲撃事件、青森県で傷害容疑で朝鮮人2名を逮捕した事に対し即時釈放を要求し警察署襲撃
3月
多奈川町事件、大阪で密造酒の取締りで朝鮮人が警察と対立、27名逮捕
5月
1日 - 血のメーデー事件、皇居外苑で警察部隊と衝突したデモ隊に一部朝鮮人が参加。
13日 - 広島地裁被疑者奪回事件、閉廷直前に傍聴席の朝鮮人約200人が被疑者と傍聴者を分ける柵を乗り越え、放火の被疑者朝鮮人4人を奪還
25-26日 - 高田事件 (法学)、名古屋各所で同時多発事件、派出所や米軍宿舎などに火炎瓶を投げ込む
25日-30日 - 桜井町事件、奈良県で暴行傷害で逮捕された朝鮮人の即時釈放を要求して警察と衝突
30日 - 大梶南事件、仙台で民団系と民戦系が抗争
31日 - 奈良警察官宅襲撃事件、巡査の自宅に約10名の朝鮮人が覆面姿で押しかけ、父親を暴行し意識不明の重体にして窓ガラスや障子を破壊して逃走
6月
5日 - 万来町事件、山口県で、派出所を襲撃、工場に乱入
10日 - 島津三条工場事件、京都で祖国防衛隊 (在日朝鮮人団体)約50人が工場に押しかけアジ演説、警察が逮捕して護送中にパトカーに火炎瓶を投げ込む
13日 - 醒井事件、滋賀県で民団系と民戦系の対立を巡って、被疑者の逮捕を妨害して大乱闘
24-25日 - 吹田事件、デモ隊が火炎瓶や石を投げて暴徒化、111人が騒擾罪で起訴
24-25日 - 枚方事件、工場を時限爆弾で爆破、人違いで火炎瓶で一般家屋に放火、98人検挙
7月
7日 - 大須事件、共産党と朝鮮人の祖国防衛隊が火炎瓶攻撃、騒乱罪
相馬ヶ原駐屯地事件、祖国防衛隊 (在日朝鮮人団体)の軍事工作班が警察予備隊駐屯地の爆破を計画
11月
11日 - 大村収容所事件、入国管理庁の入国者収容所で、韓国から送り返されてきた逆送還者の即時釈放を要求し暴動
19日 - 五所川原税務署襲撃事件、密造酒摘発に反発して税務署襲撃
21日 - 川辺村強盗殺人事件、長野県で薬用人参を盗もうとしていたところに通りがかった被害者を強盗殺人
1953年(昭和28年)
2月19日 - 別府市警察署事件、留置中に死亡した在日朝鮮人男性の死因を警察によるリンチによるものとして、在日朝鮮統一民主戦線の構成員らが抗議活動

1955年(昭和30年)

12月19日 - 上十条二丁目交番爆破事件、工事現場から盗んだダイナマイトを交番に投げ込み警官2人が重傷

1956年-
1958年(昭和33年)8月17日 - 小松川事件、朝鮮人の男子高校生が同じ高校の女子高校生と23歳の賄い婦を殺害。自ら新聞社や警察に連絡したり、小説に書いて懸賞に応募する劇場型犯罪。

1959年(昭和34年)12月4日 - 新潟日赤センター爆破未遂事件、韓国工作員による暗殺・爆破テロ未遂事件

1968年(昭和43年)2月 - 金嬉老事件、2人をライフルで射殺し、静岡県の旅館で13人を人質にして籠城

1980年(昭和55年)6月頃 - 辛光洙(シン・グァンス)事件、 北朝鮮工作員・辛光洙、朝鮮学校元校長・金吉旭らが原敕晁さんを北朝鮮に拉致

1981年(昭和56年)8月5日 - 男鹿脇本事件、北朝鮮のスパイ事件

1983年(昭和58年)10月9日 - ラングーン事件、北朝鮮からビルマまで北朝鮮工作員を運んだ貨物船は兵庫県の朝鮮総連所属の在日朝鮮人が日本国内で建造し北朝鮮に寄贈して金日成に直接名前を付けられた船だった。

1994年(平成6年)1月7日 - 解同高知市協「差別手紙」事件、高知市職員が人権条例を制定させるために差別文書を自作自演。

1995年(平成7年)4月23日- 村井秀夫刺殺事件、オウム真理教の幹部だった村井秀夫を、右翼を名乗る在日朝鮮人徐裕行が衆人環視の中刺殺した事件。オウム事件の捜査に深刻な影響を与えた。また犯人は朝鮮総連に出入りしており、辛光洙とも接点があった。

2004年(平成16年)11月18日 - 茨木市連続ひき逃げ事件、韓国籍の23歳男による犯行。5人が死傷。


2005年(平成17年)4月6日 - 聖神中央教会事件、在日韓国人の主管牧師が信者の少女7人に性的暴行。
2007年(平成19年)9月10日 - 函館市銃撃戦、韓国籍の52歳の住吉会系暴力団員の男が盗難車で走行中、警察官と銃撃戦となり男が死亡、警察官が負傷した。

2013年(平成25年)8月 - 韓国籍の男が、元京都弁護士会会長の彦惣弘立命館大学教授を、京都市の路上で刺傷し殺人未遂で逮捕された。

2016年(平成28年)

8月9日 - 韓国籍の講談社社員の朴〇〇が妻を殺害。

5月2日 -小金井ストーカー殺人未遂事件 韓国籍の男がアイドル活動していた女性に付き纏ったうえ、嘲られたと逆恨みしライブハウス前で女性を何度も刺傷し重い後遺症を与える。

12月11日 - 新今宮駅線路突き落とし事件、朝鮮籍の28歳の男がホームにいた女性2人を突き飛ばし、1人が線路に転落。

新潟日報社襲撃事件

2020-01-17 08:46:12 | 外国人犯罪
そーすから

事件の発端

1946年9月23日付の新潟日報夕刊は、「MPも出動、坂町で深夜の乱闘」と題して、朝鮮人や在日中国人が新潟県岩船郡保内村(現・村上市)内で起こした坂町事件の記事を掲載した。読売新聞も事件を報じた。

事件の概要

1946年9月26日、在日本朝鮮人連盟などの朝鮮人16人が新潟日報社を訪れ、新潟日報社と読売新聞社の両社に対して、「坂町事件の報道に誤りがあると認め、ラジオ放送を通じて新潟県民に誤報であったという声明を出せ」と要求した。両社は「即答はできない」として、29日まで猶予してもらうことになった。
その後読売新聞社は、9月28日になって譲歩し、誤報を認め謝罪記事を掲載することで話がついた。
9月29日、朝鮮人16人が再度新潟日報社を訪れ、新潟日報社側の返答をせまった。新潟日報社は「警察の調査結果をまって善処する」と答え、彼等の要求を拒んだため、朝鮮人側は憤慨し、茶碗を投げつけたのを合図に一斉に暴れだし、社内の備品を破壊した。
新潟警察署は、朝鮮人らを暴力行為等処罰ニ関スル法律違反で逮捕した。

その後の顛末

最終的に9人が起訴され、裁判の結果、暴力行為等処罰ニ関スル法律違反と業務妨害罪で有罪の判決が下った。

坂町事件

2020-01-17 08:44:03 | 外国人犯罪
そーすから

事件の発端

終戦直後より在日朝鮮人や在日中国人は、取締権限の不明確さに乗じて公然と日本の法律を無視し、食糧管理法に反するヤミ米の流通・販売などの経済統制違反を繰り返していた。
新潟県北部では、在日本朝鮮人連盟が新発田市に事務所を置き、羽越本線坂町駅を中継基地として、ヤミ米を関西方面に出荷していた。当時、1日あたり50俵が坂町駅を経由したといわれている。

事件の概要

1946年9月22日午前0時50分頃、村上警察署の署員8人が坂町駅に赴き、ヤミ米の取締に当たった。署員が現れるや、約50人の朝鮮人・中国人は一斉に姿をかくした。警察官がホーム上に置き去りにされたヤミ米を押収しようとすると、「殴れ!」「叩け!」の叫び声を合図に襲いかかって来た。警察官が応戦している最中に列車が到着し、列車内から朝鮮人20人が下車し加勢、警察官に暴行を加えた後、発車間際の列車に乗り込み逃走した。
この日の午後になり、「また、ヤミ米を運搬しようとしている」との情報が入った。警察官 10人が現場に向かい取り締まろうとしたところ、約50人の朝鮮人・中国人が襲い掛かり、殴る蹴るの暴行を加えた。
金屋村警防団は警察官の応援に駆けつけたが、逆に鳶口や木刀を取り上げられて、彼等の武器にされる始末であった。その後、撤退命令が出たので、警察官等は一旦引き上げた。
その後、進駐軍の新潟軍政部の係官が現地に到着し、朝鮮人・中国人に対して「日本に在住している限り、日本の法律に服さなければならないこと」、「警察官のヤミ米取締を拒むことは、連合国の指令に反するものであること」を言い渡した。
軍政部のお墨付きが出たことで、警察は断固とした取締りが可能になり、12人が検挙された。

その後の顛末

検挙された12人は新潟軍政部に移され、取り調べを受けたが、新潟県外への追放とヤミ米の買出しをしない旨の誓約書提出だけで全員釈放された。またこの事件を報じた報道機関が、朝鮮人に破壊活動を受ける新潟日報社襲撃事件へと発展した。

浜松事件 (抗争事件)

2020-01-17 08:39:49 | 外国人犯罪
そーすから

戦後、市内の国際マーケットは在日朝鮮人が押さえていたが、闇市は的屋の関東霊岸島桝屋一家分家(服部)が押さえていた。県議会議員となった服部治助の跡を継いでいたのが「小野組」小野近義であった。
在日朝鮮人らは、在日本朝鮮人連盟の威光を背景に、地元の自治体警察であった浜松市警察の介入を許さず、禁制品を公然と売り捌いていた。小野組の方は比較的合法な物品しか売っていなかったため、客足が奪われることになり、小野組は朝鮮人に反感をもっていた。
1948年3月には、浜松市警の巡査が賭博の現行犯で朝鮮人を逮捕しようとしたところ、返り討ちにあって負傷する事件が発生。小野組は、その巡査を救出して近くの病院に収容、病院周辺を警護して朝鮮人の来襲を阻止するなど、一触即発の事態を迎えつつあった。
事件の概要[編集]
4月4日夕方、朝鮮人が小野組組長宅を襲撃したことで、朝鮮人・小野組・浜松市警の三つ巴の抗争が勃発した。小野組は直ちに報復すべく会合を開いたが、朝鮮人はその会合場所を襲い銃撃した。浜松市警も抗争を鎮圧するために出動したが、朝鮮人は伝馬町交差点でこれを迎えうち、警察との間で銃撃戦となった。5日以降の数日間の戦闘で死者数人・負傷者約300人を出した。浜松市警は駐留軍岐阜軍政部に憲兵の出動を要請し、400人の兵士が浜松に派遣されたことで漸く沈静化した。
その後の顛末[編集]
この事件により、朝鮮人への評判は地に堕ち、逆に小野組は浜松市民有志から50万円(当時)の見舞金が送られた。同年8月4日、静岡地方裁判所浜松支部は17人に懲役6ヶ月~4年を言い渡した。