ゼラニュウムはややっこしい。という話をまとめてみた。まずはゼラニュウムの大昔の歴史からはじめよう。
ディオスコリデスが名づけた “ゼラニュウム”
ゼラニウムという名は、ギリシャ語で“鶴(つる)”を意味するゲラノス(geranos)からきている。
実がなったゼラニュウムの立ち姿は、まるで、鶴が長いくちばしをつきたてているようであり、これから鶴のくちばしに見立ててゲラノスと呼んだ。
英語ではこの草花を “クレーンズ・ビル”(cranes bill) といい、これもまたギリシャ語同様に“鶴のくちばし”を意味する。
現代的には、高層ビルの建築では、一番上にクレーン(起重機)があり、この姿も鶴のくちばしに似ている。
さて次の植物画は何に似ているだろう! そう、鶴に似てますね!!
(写真)鶴のくちばし
(資料)Charles Louis L'Héritier de Brutelle「ゼラニュウム論」(1787-1788)
この名前をつけたのが、ディオスコリデス(紀元40-90年頃)で、彼の薬物誌には次のように書かれている。
『ゲラニウムの葉は、アネモネに似ているが、鋸歯がありアネモネの葉よりは長い。根は丸みがあり食べると甘く1ドラム(約4.37グラム)をぶどう酒とともに服用すれば、子宮の炎症がおさまる。 これは、またアルテルム・ゲラニウム(Alterum geranium)「もう一つの(第二の)ゲラニウム」とも呼ばれる。細かくて短い茎には細かい毛がたくさんあり、長さは2スパン(約46㎝)である。葉はゼニアオイに似ている。枝の先には上を向いた一種の副次発生のものがつく。これは嘴のある鶴の頭あるいは犬の歯のような形をしているが薬用にならない。』
『ディオスコリデスの薬物誌第3巻131 GERANION Geranium tuberosum』
「ゼラニュウム」を『ペラゴニウム』に改名した男
1772年から南アフリカからイギリスのキューガーデンに大量のゼラニウムを送ったのは フランシス・マッソン(Francis Masson1741-1805)で、これが遠因で名前を変えることになった。
それまでは、ディオスコリデスが名付け、リンネが学名として採用した“鶴を意味するゲラノス(geranos)”を語源とする “ゼラニュウム”であったが、南アフリカから入ってくるゼラニュウムが膨大なので、新しい属名を作り ペラルゴニウム(Pelargonium)と名づけた。
この属名を変えたのが レリティエール・ド・ブリュテル(L'Héritier de Brutelle, Charles Louis 1746-1800 )で、フランスの裕福なアマチュア植物学者で判事だった。アマチュアとプロの線引きは、職業としなかっただけだと思うが業績は十分にある。
レリティエールは、1787-1788年に『ゼラニュウム論』を書き
それまでのゼラニュウムを3つに分けて
1.南アフリカから入ってきたゼラニュウムをペラルゴニュウムに変更
2.それ以外のクレーンズビル(cranes bill)をゼラニュウム(ギリシャ語のgeranos鶴を語源)とする
3.高山植物をエロディウム(ギリシャ語のerodiosサギを語源)
とした。
ペラルゴニウムという名は、ギリシャ語のペラルゴス(pelargos)からきたものでコウノトリを意味する。
ツル・コウノトリ・サギと名前のつけ方はいい加減のようではあるが、区別することが重要で、この区別が浸透していないというのも現実だ。特に、園芸品種が多いためさらにわかりにくくなっている。
ペラルゴニウムの花の特色は、 7本のおしべと上が2枚下が3枚の花びら で、上2枚には網脈のようなしみがついていて春だけの一季咲きとなる。
ゼラニュウムの場合は、10本のおしべを持った整斉花で大部分が北半球の耐寒性がある植物からなる。
レリティエールは、フランス革命後も治安判事を務めていたが1800年に暗殺された。
原因はわかっていないが、彼のそれまでの業績とかかわっていたのだろう。
トピックスとしては、レリティエールは、自分の著書の植物画を描く挿絵画家を探していて、王立植物園博物館で絵画技師をしていた若き画家を発見し、この人間を育てた。
1789年に、友人から預かった植物標本をフランス革命の破壊から守るために
イギリスにこれをもっていった。この時、若き画家も連れて行き銅版画技術を学ぶ機会を与えた。彼は、絵から輪郭線を取り除く技術を学び、これにより上品なグラデーションが可能となった。
この若き画家は、あの官能的な美しい 『バラ図譜』 などを描いたピエール・ジョセフ・ルドゥーテ(Pierre-Joseph Redoute 1759-1840)であった。
※ バラ図譜は米国議会図書館の“レアブックルーム”にある原本。左下コーナーでページを選び真ん中上及び右上で拡大で見る。
ボタニカルアートの頂点でもある彼の絵は、レリティエールと出会ったことにより科学的な植物解剖学の知識を教えられ、これを表現する技術をイギリスで学び、リアルを切り取る写真では表現できない官能的な美を生み出した。
しかし、レリティエールは、イギリスから帰国後投獄され釈放後に暗殺された。
友人の植物標本は、この採集に協力したスペインから権利を主張され返還請求があったが、これからも逃れるためにイギリスに持っていったことがかかわっていたのだろうか?
南アフリカからペラルゴニウムを大量に採取したプラントハンターのマッソンにしろ
暗殺されたレリティエールにしろ、 “Catch the roots”は、命がけだった時代があったのだ。
(写真) レモンローズゼラニュウムの花
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