鉄道模型のある生活ブログ

鉄道模型にかぎらす、なんでも書いてしまいます。

ペンデルツーク

2025年01月21日 | レイアウト

私のレイアウトです。

なぜか、ペンデルツークを走らせたくなりました。 ペンデルツークとは機関車の推進運転です。

この電気機関車は客車を押して走っています。 後ろなんです。

 

前はこちら、電車ではありません。 客車に運転台がついている、制御車と呼ばれる客車です。 今はこちらが前。 終点に着くと反対側の電気機関車が前になって、こちらは後ろになります。

 

初めてドイツでペンデルツークを見た時には、驚きでした。 だって機関車が後ろから押している、それも入れ替えとかヤードではなく、普通の線路を高速で客車を押している。

 

模型でも推進運転は面白いです。 まあ、日本の模型なら必ず脱線するでしょうけれど、ヨーロッパ物でもスリルはあるけれど、脱線したことはない。 そのためにフランジが大きかったり、伸縮式の連結器がついているのですから。

 

駅に到着です。 昔の客車は懐かしいです。

 

ついでに、横に止まっていた蒸気機関車も走らせました。 

やはり家にレイアウトがあると手軽に走らせられます。 無理やり用地確保をしてよかった。

 

 

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行った模型店、などなど  その18  ホビスタと銀座パノラマ その2

2025年01月20日 | 鉄道模型全般

尼崎に大きな鉄道模型の店があった。 前回はホビダスのレイアウトを書いたが、

 

この大きなレイアウトがホビダスのレイアウトで、関西合運の時にある人と話していたら、これを作ったという。 多分、プロデュースをした人だとは思っているのだが、電気ドリルを持って下に潜ったとか。 

さて、この写真の左後ろに見えているのが、レイアウト製作のDDFの店舗で、レイアウト用品やレイアウトそのものも売っていた。 この手前にはタムタムという大きな模型店があり鉄道模型も置いてあった。

そして、銀座パノラマという喫茶店もあり、大きなNゲージのレイアウトがあった。

 

銀座パノラマです。この大きなレイアウトの周りにテーブルがあり、そこで喫茶やお酒が飲める。

 

雄大なレイアウトです。

 

ここはいつも列車が走っている。 見ていて気持ちが良い。

 

見入っているのは、我がHNモジュールの仲間だ。

 

私だって、カメラを片手にお茶を飲むどころではない。 あれっ? 黒いカメラが写っている。 ベッサRだ。 この頃はこんなフィルムカメラを持っていたんだ。 2007年頃です。

 

雪景色もあった。

 

良い感じの田舎の風景が作られていました。

 

ここで、買ってきたHOの機関車を眺めているのは、HNモジュール仲間のNさん、 タムタムで買ったのか、モデルバーンで買ってきたのか、尼崎は芦屋のモデルバーンに行った帰りに寄ることが多かったので、けっこう何度も行っていたのです。

 

私であります。 この日はコーヒーではないようです。

 

上の写真のつづきにこの写真があったので、載せておきましょう。

機関車と客車群です。 ほぼ全てドイツ型です。 これはたしかNさんの自宅だと思います。

 

さて、これは2013年の銀座パノラマです。 店は無くなっていました。 でもレイアウトは置いてありましたが、動いていないようです。 そして、ホビダスもタムタムも無くなっていて、はたして、今はどうなっているのでしょう?

2007年頃は、鉄道模型が全盛期のようだったのですね。 それは団塊の世代が定年になって、定年後に何か趣味をと、テレビでもレイアウトの作り方などやっていた時代でした。 その後、それも冷めて〜

 

行った模型店 つづく

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足利義昭

2025年01月19日 | 雑談

NHKの知恵いずで足利義昭をやっていました。 室町幕府最後の将軍ですが、なかなか面白かった。

歴史に弱い私は、鎌倉幕府から室町幕府にどう変わったのかを知らなくて、中世をすこし勉強したのですが、後醍醐天皇が鎌倉幕府を恨んでいて、足利尊氏や新田義貞に鎌倉幕府を打たせてその後、足利尊氏が後醍醐天皇と仲違い。 後醍醐天皇は吉野に逃れて南朝を作り、足利尊氏は京都で北朝をつくり、第1代の足利幕府=室町幕府を作った。 その後、3代の足利義満は南北朝を合体させたり金閣寺を作ったりで、室町時代が栄えていた。 その後、応仁の乱で無茶苦茶になり、13代将軍の足利義輝が三好長慶に殺され、義輝の弟の義昭は仏門に入っていたのですが、自分が将軍を継ごうと、家来数人と近江や越前に逃亡生活をしていた。

 

この辺りから、知恵いずの話が始まったのですが、足利義昭は上杉謙信や武田信玄、遠くは薩摩の島津にまで書簡を送って、自分を将軍にしろ、と上から目線で命令していた。 もともと足利将軍は自分で軍を持っていないので諸国の大名に命令文を出し将軍の権威で統治をしていたのであるが、落ちぶれて逃げ回りながら、全国に命令文を出していた。 今と違って郵便の仕組みがないので、だれかが手紙を持ってとんでもない国までいったのだろうが、少ない家来で旅費も無いのにどうやっていたのだろうと不思議だ。 その時の家来に明智光秀がいた。 

そして、織田信長が足利義昭の要請に応じて、都に上がり、足利義昭を代15代の将軍に押し上げたのだった。

しばらくは信長と良い関係だったのだが、相変わらずいろいろの手紙を信長の敵対国にも出していた。 

そこで、信長は怒り心頭で、義昭を京都から追放して、足利幕府が消滅したのである。

普通はここで話が終わりなのであるが、知恵いずでは、ここからが本格的な話だった。 それは目に鱗だったので、今日ここに書いているのですが、面白い話です。

足利義昭が堺に着いて、そこで、全国に信長を追放せよと命令文を出している。 京都を追放されたのに上から目線で命令している。 ここが義昭の性格で、自分の立場はあくまでも将軍であるとの目線である。 そしてさらに西国、毛利の地域まで行きかけているので、毛利も義昭に来られたら信長と本当に敵対することになってしまうので困る。 信長もこれ以上義昭にいろいろなことをされたら困る。

そこで、毛利からは安国寺恵瓊、信長からは羽柴秀吉が堺に行って、義昭と3人の話し合いで、義昭にもうおとなしくしていて欲しいと頼んだそうな。 ところが義昭は言うことを聞かずに話し合いは決裂。 秀吉も参ったとか。 面白いのが、信長も義昭を殺さずに、どうしようもないと放っておく事になったようです。 信長は案外世間体を気にする人だったようですね。

その後、義昭は毛利の土地である、鞆の浦に来た、広島県福山市ですね。

毛利も困ったのであるけれど、来てしまったものは仕方がない。 将軍の位は剥奪されていなかったので、無碍にするわけにはゆかない。ですから立派な屋敷を立てて義昭は鞆の浦で暮らしながら、相変わらず、諸国の大名に信長を倒してわしを京都に戻せと手紙を出していた。

 

鞆の浦です。 この建物が義昭がいたところかもしれない。

 

ここは、瀬戸内海の真ん中あたりで、海上交通の要所だった。だから、ここから全国に手紙を出すのには都合が良かったようだ。

ここに義昭がいる間に織田信長が本能寺で討たれた。そこで、自分の命令で光秀が信長を討ったと言うようなことを書いたかどうか知らないが、光秀はもともと義昭の家臣だったので、そんな趣旨のことを書いて自分を将軍にしろとまたまた手紙攻勢をしたようです。 柴田勝頼と手を握って秀吉を倒したかったようだが、秀吉が天下をとってしまった。

その後、義昭はどうしたかと言うと自分から将軍職を辞任して、秀吉から一万石の大名にしてもらったとのこと。

 

京都宇治の槙島城跡。 足利義昭が京都を追われた時に一時的に住んでいて信長軍に攻撃されて、河内の国に逃げたとある。

後日秀吉から貰った槙島城はこことは違うかもしれないが、足利ゆかりの場所だ。

 

そして秀吉に付いて朝鮮出兵のために肥後名護屋に行ったりしている。

秀吉が天下を取ってしまったので、他の大名にけし掛けても無理なので、諦めてその後の人生を送ったようである。

ということで、何があっても「上から目線で」生きてきた足利義昭の話でした。

 

エヴァンゲリオン。 鞆の浦に行った時に乗ったんだよ。

 

 

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衝動買い

2025年01月18日 | 模型車両

大阪の日本橋に孫のおもちゃを買いに行って、ボークスに寄ったら、こんなものがあったので衝動買いしてしまいました。

 

カトーのNゲージの近鉄10100系ビスタカーの3両編成です。

 

この顔が好きなんです。 そして、HOと違ってNは安価です。 これぐらいならと思わず衝動買いしてしまいました。

それにしても、大阪のボークスの鉄道模型売り場ですが、行くたびに狭くなっている。 フィギュアに場所を占領されて、どこに鉄道模型が置いてあるのかと探さなければならないほど。 それでも、HOのパーツなどある程度は置いてありました。

 

さて、家のレイアウトでの撮影

なかなか良い感じです。 でもね、このレイアウトはHOナローのレイアウトなので、建物などが大きい、

でもここは、建物がないので自然に見えます。

 

ヤードから本線に向かいます。

 

ユーロの本線に来ました。 快調に走っています。それにしても、スムーズによく走る。 最近のNはすごい。

 

石橋を渡って

 

情景がHOで大きいもへったくれもない。 走っていれば気持ちが良い。

 

農家の横を通って

 

駅を通過して、 あ〜 気持ちが良い。

 

衝動買いして良かった!

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下鴨神社

2025年01月17日 | 旅行、散歩

いつも大阪のことばかり書いているので、京都の住民としてはやはり京都も書かなければ!

朝の散歩に、下鴨神社にゆきました。

下鴨神社は京阪電車の終点、出町柳駅のそばにあり、歩いてすぐです。

 

境内には大きな森があり、糺の森と言いますが、糺が読みにくい、「ただす」です。

 

糺の森です。 ここにはカラスが多い。

 

そばに行っても逃げない。 街中でゴミを漁っているカラスとは違うようです。 でも森のすぐ外は普通の街なんですけれど、この境内は別格か。

 

この境内には綺麗な小川が2本あります。 とても綺麗な水です。

 

丸い球のようなものが飾ってある神社を見つけました。 ラグビーのボールのようで、ラグビーの選手がお参りに来るとか。

糺の森の中には小さな神社がたくさんあります。

 

下鴨神社の手洗いです。 本当の手洗所はこのすぐそばにあるのですが、多分正月用に増設した手洗いです。

 

いよいよ下鴨神社です。 出町柳駅からすぐと書きましたが、糺の森を抜けてここまで来るのには結構距離がありました。

 

こんなにロープがたくさん巻き付けてある木を見つけました。 この社は縁結びの神様だそうです。 なるほど。

 

門をくぐって下鴨神社の境内です。 

 

巳年の大きな絵馬がありました。 そうなんです、巳年で蛇なので、人によってベビは気持ちが悪いので早く今年が終わって欲しいと言っていました。

 

御手洗神社です。糺の森の小川はこの神社から流れ出しているのです。

 

修学旅行の生徒が御手洗池で手を洗っています。 ここでは夏に祭典があって有名な場所です。

ちなみに、「みたらし団子」は、この神社のすぐ外にある店が発祥地で、この池の名前をとって「みたらし団子」と名付けました。 

 

御手洗池の横では、巫女さんがおみくじの整理をしていました。

 

本殿前には、小さな社がたくさんあって、それぞれ干支を祀っています。 ここで、皆さん自分の干支の社の前でお参りします。

私は酉ですからこの右端の社でした。 もちろん本殿にもお参りして。

 

本殿の横には、小さいけれど格が高そうな社もありました。

 

こんなに、綺麗な木もあったりして、そろそろ疲れてきたので。

 

茶店で休憩。 この饅頭は申餅と言って何百年か前のものを再現したという貴重な饅頭ですと宣伝していた。

小豆餡で美味しかったです、

 

さざれ石を見ながら帰途について。

 

途中、河合神社にも寄って、ここはお化粧の神様だそうです。 丸い絵馬がたくさん飾ってあります。

 

この絵馬です。 自分で顔にお化粧をして奉納します。

 

広い下鴨神社を出て鴨川です。 この、ずーっと上流に上賀茂神社があります。 とても遠いです。

 

鴨川と高野川が合流する近くに、亀石があります。 誰か渡ってくれないかな? 近くまで来ても寒いので大人はなかなか渡らない。 子供ならあっという間に走って渡るんだけれど。

しばらく待って、やっと渡る人を見つけました。 やはり人が渡っているところを写さなければ写真にならない。

 

ということで、午前中の散歩、終わりです。

 

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