・「求同存異」と「大同団結」「滅私奉公」・・・
今年の正月、中国の胡錦涛主席がアメリカを訪問、ホワイトハウスでの歓迎行事でスピーチをした。その詳細は、日本ではあまり詳しく報道されなかったが、幾つかのキーワードが浮かび上がってきた。なかでも私の心を捉えたのは“求同存異”だった。懐かしい“ことば”でもあった。
“求同存異”
この“ことば”に、私が初めて出会ったのは1972年の9月。田中角栄首相らが、周恩来首相の招きで中国を訪問し、日中の国交が正常化した、その時だった。
北京で田中首相ら一行を迎えた周恩来氏は、日本と中国との国交を回復するに当たって、“求同存異”の精神で当たろうと呼びかけた。
周恩来氏のこの発言を、日本のマスコミは、いささか乱れ気味に受け取った。ある新聞は「小異を捨てて大同に・・・」と書き、ある新聞は「小異を残して大同に・・・」と書いた。
当時日本にはまだ、中国大使館はなく、代表部だったが、即日、代表部から各メディアにブリーフが配られた。
ブリーフの要旨は「周恩来首相が言ったのは、“求同存異”であって、その真意は『小異を捨てる』のではない。また、『小異を残す』というのも『取り残す』ことになり、首相の本意ではない。“求同存異”を日本語にすれば『小異をお互いに認め合い、共有しながら、一致出来る大きな道へ進むように話し合おう』という意味なのだ。どうぞ、誤解のないように・・・」
文章は、正確ではないが、凡そこのようなモノだったと記憶している。
当時、私はNHKの教育テレビで、本音で語り合える討論番組を育てようと腐心していた。私や仲間のディレクターたちにとって、この“求同存異”という“ことば”は、目からウロコというか、天雷の如くに響いた。
私たちは語り合った。
「そうだ。“大同”とは議論の目的であり果実なのだ」
「そして、“異”とは、横たわる課題のことだ」
「“異”を切り捨てては議論にならぬ」
「論じ合い、人間の叡智をかけて解決すべきものが“異”なのだ」
「それは、議論の果実を得るためにこそ論ずるべきだ」
「我らは、なぜか、つい目前の“異”に振り回され過ぎてしまうのか」
・・・
時代は、さらに遡る。
明治の終わり、帝国議会の開設に向けて、自由民権を唱える各会派に向けて、「小異を捨てて大同につくべし」と、後藤象二郎は呼びかけた。世に言う「大同団結運動」だ。
要は、個々バラバラに自説を唱えていたのでは、成果は得られない。この際、お互いの相違点には目をつぶって、大きな勢力となろうと言うことだった。
運動は、肝心の後藤が「一本釣り」されて大臣になり、運動も尻すぼみに消え去ることになる。“小異”を切り捨てたとき、事実上、この運動は死んだのだ。
だが、「小異を捨てて大同につけ」という言葉は残った。以降、私たちはこの言葉を「フレーズ」として、丸呑みしていた気配がある。
太平洋戦争の最中も、私たち国民は、「一億一心」「滅私奉公」「挙国一致」「欲しがりません勝つまでは」と、庶民のささやかな「異」を唱えることすらも、完全に禁じられて過ごしてきた。
戦後になっても、「一億総懺悔」の風が吹きまくり、経済復興一筋に走り出し、「エコノミックアニマル」と蔑まれながらも、猛烈社員と化して、“私を捨てて”、夢中で戦後を駆け抜けた。脇目もふらずに。
私は、60年代後半から巻き起こった学生運動の現場で、幾つもの現場で実況放送を担当していた。よど号、安田講堂の攻防、成田三里塚、妙義山事件、浅間山荘・・・目の前に展開する新しい波を見詰めていた。
東大医学部の封建的体質の改革を叫んで始まったこの学生運動すら、各派閥の間では「小異」の争いが繰り返され、やがて内ゲバ闘争が激化し、ついには殺し合いにまでなり果て、学生運動の火も、殆ど果実なしに消えた。
何故に私たちは、かくも「小異」にこだわり、大きな目的を見失ってしまう歴史をたどってきたのだろうか・・・。
「大同につく道を探すためにこそ、小異を存(のこ)して議論する」。そのことの大切さを、私はもう一度、しっかりと噛みしめたい。
いま、まさに国難とも言うべき大災害にあい、フクシマの悲劇はまだ続いているというのに、政治家は国会で、何を語り合っているのか。
何故に、彼らは「大同」について語ろうとしないのか。不思議でならない。国会とは、国の未來のために議論する場所である筈なのにねえ・・・
「どんなことがあっても、政権を自民に渡すな」
「今こそ、首相の首をとるチャンスだ」
「菅さん、あんたがいなけりゃ 話し合うだぜ・・」
・・・
冗談じゃあない!
これじゃあ、やくざの喧嘩と同じじゃないか。
ある人は、これは日本人特有の性向だというが、本当にそうなのだろうか。もし、そうだたとするならば、この国に“民主主義”が”育つことは無いだろうな。
だが、私はそうは思わないね。日本人も同じ血の流れる人間じゃあないか。
何かが間違っているのであって、日本人だけが特異なのではない。大なり小なり、どこの国でも同じような現象はある。
もう一度、民主主義の原点に立ち返れば、“求同存異”の精神が、我らの幸せな未來を予言してくれると信じている。
来週からは、少し自虐的に過ぎるかもしれないけれど、具体的に、この問題にメスを入れて行こうと思います。今月は「50音図の落とし穴」と「体ことば」は休みます。来月までお預けです。
今年の正月、中国の胡錦涛主席がアメリカを訪問、ホワイトハウスでの歓迎行事でスピーチをした。その詳細は、日本ではあまり詳しく報道されなかったが、幾つかのキーワードが浮かび上がってきた。なかでも私の心を捉えたのは“求同存異”だった。懐かしい“ことば”でもあった。
“求同存異”
この“ことば”に、私が初めて出会ったのは1972年の9月。田中角栄首相らが、周恩来首相の招きで中国を訪問し、日中の国交が正常化した、その時だった。
北京で田中首相ら一行を迎えた周恩来氏は、日本と中国との国交を回復するに当たって、“求同存異”の精神で当たろうと呼びかけた。
周恩来氏のこの発言を、日本のマスコミは、いささか乱れ気味に受け取った。ある新聞は「小異を捨てて大同に・・・」と書き、ある新聞は「小異を残して大同に・・・」と書いた。
当時日本にはまだ、中国大使館はなく、代表部だったが、即日、代表部から各メディアにブリーフが配られた。
ブリーフの要旨は「周恩来首相が言ったのは、“求同存異”であって、その真意は『小異を捨てる』のではない。また、『小異を残す』というのも『取り残す』ことになり、首相の本意ではない。“求同存異”を日本語にすれば『小異をお互いに認め合い、共有しながら、一致出来る大きな道へ進むように話し合おう』という意味なのだ。どうぞ、誤解のないように・・・」
文章は、正確ではないが、凡そこのようなモノだったと記憶している。
当時、私はNHKの教育テレビで、本音で語り合える討論番組を育てようと腐心していた。私や仲間のディレクターたちにとって、この“求同存異”という“ことば”は、目からウロコというか、天雷の如くに響いた。
私たちは語り合った。
「そうだ。“大同”とは議論の目的であり果実なのだ」
「そして、“異”とは、横たわる課題のことだ」
「“異”を切り捨てては議論にならぬ」
「論じ合い、人間の叡智をかけて解決すべきものが“異”なのだ」
「それは、議論の果実を得るためにこそ論ずるべきだ」
「我らは、なぜか、つい目前の“異”に振り回され過ぎてしまうのか」
・・・
時代は、さらに遡る。
明治の終わり、帝国議会の開設に向けて、自由民権を唱える各会派に向けて、「小異を捨てて大同につくべし」と、後藤象二郎は呼びかけた。世に言う「大同団結運動」だ。
要は、個々バラバラに自説を唱えていたのでは、成果は得られない。この際、お互いの相違点には目をつぶって、大きな勢力となろうと言うことだった。
運動は、肝心の後藤が「一本釣り」されて大臣になり、運動も尻すぼみに消え去ることになる。“小異”を切り捨てたとき、事実上、この運動は死んだのだ。
だが、「小異を捨てて大同につけ」という言葉は残った。以降、私たちはこの言葉を「フレーズ」として、丸呑みしていた気配がある。
太平洋戦争の最中も、私たち国民は、「一億一心」「滅私奉公」「挙国一致」「欲しがりません勝つまでは」と、庶民のささやかな「異」を唱えることすらも、完全に禁じられて過ごしてきた。
戦後になっても、「一億総懺悔」の風が吹きまくり、経済復興一筋に走り出し、「エコノミックアニマル」と蔑まれながらも、猛烈社員と化して、“私を捨てて”、夢中で戦後を駆け抜けた。脇目もふらずに。
私は、60年代後半から巻き起こった学生運動の現場で、幾つもの現場で実況放送を担当していた。よど号、安田講堂の攻防、成田三里塚、妙義山事件、浅間山荘・・・目の前に展開する新しい波を見詰めていた。
東大医学部の封建的体質の改革を叫んで始まったこの学生運動すら、各派閥の間では「小異」の争いが繰り返され、やがて内ゲバ闘争が激化し、ついには殺し合いにまでなり果て、学生運動の火も、殆ど果実なしに消えた。
何故に私たちは、かくも「小異」にこだわり、大きな目的を見失ってしまう歴史をたどってきたのだろうか・・・。
「大同につく道を探すためにこそ、小異を存(のこ)して議論する」。そのことの大切さを、私はもう一度、しっかりと噛みしめたい。
いま、まさに国難とも言うべき大災害にあい、フクシマの悲劇はまだ続いているというのに、政治家は国会で、何を語り合っているのか。
何故に、彼らは「大同」について語ろうとしないのか。不思議でならない。国会とは、国の未來のために議論する場所である筈なのにねえ・・・
「どんなことがあっても、政権を自民に渡すな」
「今こそ、首相の首をとるチャンスだ」
「菅さん、あんたがいなけりゃ 話し合うだぜ・・」
・・・
冗談じゃあない!
これじゃあ、やくざの喧嘩と同じじゃないか。
ある人は、これは日本人特有の性向だというが、本当にそうなのだろうか。もし、そうだたとするならば、この国に“民主主義”が”育つことは無いだろうな。
だが、私はそうは思わないね。日本人も同じ血の流れる人間じゃあないか。
何かが間違っているのであって、日本人だけが特異なのではない。大なり小なり、どこの国でも同じような現象はある。
もう一度、民主主義の原点に立ち返れば、“求同存異”の精神が、我らの幸せな未來を予言してくれると信じている。
来週からは、少し自虐的に過ぎるかもしれないけれど、具体的に、この問題にメスを入れて行こうと思います。今月は「50音図の落とし穴」と「体ことば」は休みます。来月までお預けです。