アクティブラーニング、プログラミング教育、言語活動などなど。
どうも最近の教育の風潮は、自分で考える力をつける、自分で応用して考える、そんな教え方にシフトして行けと言うような風潮がある。
外国に打ち勝つ、競争力を高める、自分で考えて行動できるようにする。それらは確かに正しいし、そう言って子供たちを育てていかなければならないと言うのも正しい。
しかしだからといって、教師が基礎的なこと、基本的なことを教えると言う事まで否定され始めているように思う。
さらにテレビや世の中の風潮では、教師が基礎基本を教えることをダメだと言う評論家や塾の講師もいると感じる。
ノートの取り方1つにとっても、教師がノートの取り方を「こうずるんだ」と教えるのはダメで、子供たち自らが自分の必要なノートの取り方をした方が良いと言う人もいる。
僕ははっきりって、そのような、教師が教えることを否定するような教育は、子供たち一人一人を、そして日本の未来をダメにするだけのように思う。
なぜなら教育と言うものは名の通り教えて育てることだからである。教えないで自分で勝手にやれって言うのはあまりにも無責任である。
極端な例をいれば、生まれてきた赤ちゃんが、いきなりぽつんと自然に放り出されて生きていけるだろうか。当然、生きてはいけない。
赤ちゃんは、生まれ落ちた時から父親、母親、そして家族が、一つ一つやってやり、手本を見せ、教えるから育つのである。
そして赤ちゃんは、一つ一つその発達段階に応じて学んでいったからこそ成長し、やがて一人で生きていけるようになるのである。
江戸時代以前とかの生活であればそれほど知識は必要としなかったであろう。しかし田畑の作り方、料理の作り方、家の作り方、年中行事の仕方、それらは親や地域社会から子供たちに教え伝えられてきたはずである。
職人などはその最たるものである。もちろん手取り足取り教える人もいれば、自分の技を見て盗めと言う職人もいたであろう。
しかし盗むと言う行為も、手本を見せると言う教える行為があったから、次の世代、次の世代が育まれていったのだ。
現代社会は様々な情報に溢れ、また職業も多様化し、生きていくために必要な知識、技能、考え方は、江戸時代以前に比べたら膨大な量にのぼる。
それらを子供たちに教えるのではなく自分で考えて導き出せと言うのだろうか。
それは赤ん坊を一人きり家の中に置き去りにして自分で生きていけと言うのと同じである。
よく教育は基礎基本と応用力の両輪だと言うような事が言われる。これはちょっと違う。
両輪ではなく、基礎基本は土台でありその上に思考力、判断力、応用力が積み重なっているのが教育の正しい形だと思う。
なぜなら応用力や思考力、判断力とは基礎基本の積み重ねの内部情報があって、初めて導き出せるものだからである。
例えば、漢字を教えていないのに、その漢字を書けと言って書けるだろうか?読めと言って読めるだろうか?
割り算の意味と解き方を教えずに、いきなり式を示して、答えを出せと言ってできるだろうか。
もっと言えば基礎基本を教えなくて良いのであれば幼稚園児に何も教えずにいきなり微分積分をしろと言ってできるのであろうか。
子供たちはその発達段階において、学ぶべき時期、学ぶべき内容があり、それを自分の脳の中に知識や知恵として入れたからこそ、記憶としてインプットできたからこそ、それを応用して新しい思考や判断、創造が生まれるのである。
今日は極論を書いたが、端的に言えば、それぞれの年代、発達段階において、学ぶべき内容イコール基礎基本があると言うこと。
少なくとも、小学生のうちは、基礎基本を身につける教育を中心にすべきだと思う。
基礎基本の土台がないところには、アクティブラーニング、プログラミング教育、言語活動なんて立派楼閣は、崩れ落ちますよ。