差別と区別の違い
「差別」と「区別」は難しい問題ですが、本質的な問題です。
1、「分ける」というのは人間の基本的な作業です。その「分ける」という行為に、非合理性を認識した時には、「差別」という言葉が用いられ、合理性を認識した時には、「区別」という言葉が用いられます。
2、具体的に考えてみましょう。
女性に選挙権が与えられないのは、「女性差別」とされます。もちろん、ある特定の地域の人に選挙権を与えないということがあるとすれば、それも「差別」でしょう。
それには、<合理的な理由>がないとされるからです。
3、その一方で、同じ日本人でも小学生に選挙権がないのは「区別」とされます。判断力の乏しい小学生に選挙権がないのは、<合理的な理由>があるからです。
4、しかし、この問題はそれほど単純とは言えません。
何をもって<合理的>と言い、何をもって<非合理的>と言うかは、そう簡単ではないからです。
例えば、海外居住者に選挙権がないのはこれまで<合理的>と判断されてきたが、最近ではその問題性が認識され、海外居住者の投票が始まりました。永住権のある外国人の地方参政権は、既に韓国では始まっていますが、日本では認められていません。
5、「差別をしてはならない」というのは現代社会の鉄則です。20世紀の人権思想の高まりは、その考えを大変強く主張してきました。アイヌは長い間、この差別に苦しんできました。そして差別は、いまも続いています。区別ではありません。差別です。
しかし差別と区別の本質、つまり我々は何をもって合理的とみるか、非合理的とみるかは、本質的な問題であります。本質的な問題とは、「我々がいかなる社会を目指すのか」、ということにもつながります。
最後に一言、十勝だけには差別がないところであってほしいと思います。
「十勝の活性化を考える会」ブログ読者
おっしゃるとおりですね。
『「差」によって人を排除しない』は大切なことです。
しかし歴史を振り返ると、神代の時代から「差別」が暴力に支えられ、支配の道具として巧妙に使われてきたことも事実と考えますが、いかがでしょう。
一般論で言えばご指摘の通りです。
世界を見渡すと確かに「概ね まだマシ」かもしれません。
私たちは「同じ環境におかれなければ、その人の本当の気持ちは分からない」という問題意識から出発しました。
そして、足元のこの十勝に於いて、いまだ精算されていない歴史を背負い、悪意に満ちたヘイトや保身に窮する某国立大学、そして行き届かぬ行政にどのような発信をして行くのか模索しております。
「我々がいかなる社会を目指すのか」
このことが机上の空論ではなく、実践行動の過程でその内実を問われて行くものと考えております。
またの貴重なご意見、お待ちいたします。
この問題、
だれでもいつでもどこでも
たぶん いつまでも問題になりますね。
そして 問題になる(問題にできる)ところは
概ね まだマシだと思います。
合理性があっても差別はありますしね。
まるで合理性のない差別はないような気がいたします。
学歴差別、性差別など合理性はそれなりにありますが、
やはり差別であって区別ではなさそうです。
> 最後に一言、十勝だけには差別が...
これにも勿論!合理性はありますが、
やはり区別ではなく差別かと...(笑)