50歳代の時“長崎原爆資料館”と“知覧特攻平和会館”に行った。行った理由は、戦後生まれなので戦争を知らない世代であるが、戦争を身近に思うことが大切であると思ったからである。
二カ所ともあまりに生々しい写真が貼られており、目をおおうばかりであった。その写真の1枚を下部に掲げているので見てほしい。
知覧特攻平和会館には、1,038人の特攻隊員の遺影と遺品などが祀られているが、そこを訪れた学生たちはみんな、無言でその会館をあとにするそうである。
また、“きけ わだつみのこえ”等の戦没学徒の手記は、若くして戦場に散った無数の命が発している声なき声で、心に深く感じるものがある。
戦後75年、全てが忘れられようとしている時、もう一度今の日本の平和を考えよう。戦争の恐ろしさや悲惨さを知るために、せめて原爆の写真などを見ることが我々の務めのように思う。
話は変わるが私は囲碁を趣味としており、その会員の中に「陸軍中野学校」出身で、年齢100歳の男性がいる。彼の腕前は四段ぐらいであるが、ロシア語も話せて頭脳明晰、杖も使わないで歩いている。
彼の素晴らしいと思ところは、年齢もさることながら軍人あがりだけに、負けず嫌いであることである。終戦を父島で迎えたそうであるが、サイパン島であれば戦死か自殺をしていたかも知れない。 なお、プロ将棋棋士“藤井聡太八段”二冠も子供の時、負けず嫌いで有名であったらしい。
また、終戦の29年後にフィリピン・ルバング島で発砲し合った小野田 寛郎少尉も、同じ陸軍中野学校出身でゲリラ兵であったそうである。発見時、小野田少尉にとって太平洋戦争は、まだ終わっていなかったのである。彼は享年、92歳であった。
「十勝の活性化を考える会」会長
- 長崎原爆資料館の写真
(戻ってはいけない世界)
背中に幼子(おさなご)をおぶって直立不動の姿勢を取るはだしの少年。寝ているようにも見える幼子は既に死亡し、少年は唇をかみしめて火葬の順番を待っている。 想像してみてください。少年の瞳には何が映っているのでしょうか。
この写真は現在、長崎市の原爆資料館に展示されております。
米国の写真家ジョー・オダネル氏が、米占領軍のカメラマンとして原爆投下後の広島・長崎に入り、被爆した市内の様子を撮影したときの一枚で、題名は「亡き弟を背負った『焼け跡にたつ少年』」です。
(出典:令和元年5月7付けブログ投稿文より)
- 知覧特攻平和会館
知覧特攻平和会館は、鹿児島県南九州市知覧町郡(旧川辺郡知覧町)にある歴史博物館。第二次世界大戦末期に編成された大日本帝国陸軍航空隊の特攻に関する資料を展示している。
知覧の地名度向上には、作家高木俊朗の著作も大いに貢献している。高木は、自らが批判してきた菅原ら特攻指導者が主導して建立した「特攻平和観音像」に対して否定的であったが、功利打算なく特攻隊員を供養し続ける鳥濱をクローズアップすることで「特攻平和観音像」に意義を見いだそうと考え、自分の著作に鳥濱を何度も登場させた。
とくに1964年6月劇場公開された、高木の特攻に関する著作の映画化である『出撃』で鳥濱を「特攻おばさん」として紹介、この映画上映後に高木は知覧を訪れて、鳥濱の旅館に宿泊し、知覧高等女学校の女生徒で編成された勤労奉仕隊「なでしこ隊」の元女学生らから証言を集めるなど取材を行って、この取材に基づき、1964年から1965年にかけて「週刊朝日」で知覧特攻基地についての連載を行い、後にこの連載は『知覧』として書籍化された。
注3) 陸軍中野学校
陸軍中野学校 は、諜報や防諜、宣伝など秘密戦に関する教育や訓練を目的とした大日本帝国陸軍の軍学校(実施学校)で情報機関。かつての所在地は東京都中野区中野4丁目付近で、校名の中野は地名に由来する。
当初は純粋なスパイ技術養成機関であったが、太平洋戦争(大東亜戦争)の開戦を機にゲリラ戦術教育機関(アメリカ陸軍の特殊戦スクールに相当)へと変貌する。
学生は陸軍士官学校、陸軍予備士官学校、陸軍教導学校(1943年(昭和18年)8月廃止)出身者から選抜された。その大半は一般大学卒等の学歴を持ち、市井を経た甲種幹部候補生(陸軍予備士官学校卒)出身者であり、次いで教導学校卒の下士官出身者が多く、陸軍士官学校卒の者は少数であった。
1945年(昭和20年)1月3日に中野学校に入校した第8期生150名のうち、90%以上は一般大学や高等専門学校の出身者で、東京帝国大学(現在の東京大学)出身者が最も多く、次いで拓殖大学、東京外事専門学校(現在の東京外国語大学)、そして早稲田大学、慶應義塾大学、明治大学等が続いた。
名門とされる一般大学出身者から数多く選抜された理由は、諜報員として幅広く高い学識と冷静な視点のほか、市井の生活習慣に馴染んでいることが求められていたためである。
(出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)
いつも貴重なお話
楽しみに読ませていただいています
長崎育ちのグランマ
知覧での特攻隊員の手紙やはがきを読んだ時
二度と繰り返していけないと
改めて思いました
長崎原爆も幼かったのでよく理解しないまま光だけの記憶は残っています
語り継がねばなりません