スウェーデンの若者に、「あなたの国の誇りは何ですか」と尋ねると、約6割の人が「福祉」と答えるそうである。一方、日本の若者は約1割弱であるそうだ。それは、日本が高福祉国家でない証左であろう。ただ、国民皆保険が充実しているのは、世界に誇れるひとつである。
もともと資本主義は、需要と供給により価格が決定される。そして、資源の有効活用により最適配分が図られ、貧乏や病気や長時間労働から解放され豊かな社会を作るものが目的であった。
しかし、競争社会はやがて生活も教育も福祉も、経済価値を求める資本主義の歯車に巻き込まれるようになる。競争は人間を利己的にし、一方が利己的になれば、他者も自分を守るために利己的にならざるを得ないから、自分を守る力はカネを中心に動くことになる。
そんな社会では、人間の能力は経済価値を増やすか否かで判定されるようになる。だから、私の通っている介護施設のスタッフのように福祉のために献身的に働く人たちであっても、経済価値に貢献しない人は認められることが少なくなる。
マルクス経済学では、少数者の手に独占された利潤は人間を搾取した結果であり、そのために労働者は困窮したのだということを理論的に説明している。このような人間搾取は道徳的に批判されるだけでなく、資本主義の内部からも問題を拡大させている。
そのうえで現在は、新型コロナ禍により貧富が拡大しており、岸田首相が“成長と分配”の新資本主義を言いだしたのはそのためであろう。日本は戦後の高度経済成長期のような利潤至上主義や効率万能主義では、成長できなくなってきたのである。
ところで、欲求”とは人間や動物が行動を起こすための“動機づけ”という概念でなされる。資本主義はこの欲求で作られているが、あまり欲求が強すぎるとデメリットも大きくなるので、何事もバランス感覚が大切である。
また欲求には、集団欲というものがある。人は誰しも一人になりたいという時もあるが、基本的に人間は一人では生きていけないので、他の動物と同じように群れることになる。人間は社会という集団の中で生きており、完全に孤立すれば生きていくことができない。
先日、大阪の精神クリニックで25人もの人間を殺した精神異常者がいたが、このような人間を作りだす原因が資本主義に内包しているのである。人間にとって欲求を持つのは自然なことで、ただ生きるだけではなく自己実現を図っていくことが大切であるが、人間を殺す欲求は言語道断である。
この欲求に関して、アイヌ民族は食べる物しか採らなかったという。そして、来年のために植物は残していたそうだ。つまり、地球的な豊かさとは、人間を含む多くの種が共存・共生していることを意味している。個性を大切にとか、弱者と共に生きるということは、人間も自然の一部であり、地球的な豊かさから見れば当然のことである。
豊かな共存・共生が、自らの生を支えているならば、差別や格差に敏感になり、すべての人に基本的人権が保障され、平等であるような社会を作っていかなければならないだろう。人間の「基本的人権」、「公共の福祉」、「環境を守る」といった共存の原則は、各人が豊かに生きることの前提である。
人と人とのつながりを豊かにし、自然との関わりを豊かにするためにはどのような社会にすれば良いのかを真剣に考えている。
「十勝の活性化を考える会」会員
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