十勝の活性化を考える会

     
 勉強会や講演会を開催し十勝の歴史及び現状などを学ぶことを通じて十勝の課題とその解決策を議論しましょう

連載:関寛斎翁 その22 妻・アイの死

2020-03-06 05:00:00 | 投稿

 寛斎にとって、半年あまりの留守の間に、妻・アイの衰弱は徐々に進んでいた。
一昨年、寛斎夫妻は、五月十八日札幌に到着。
アイは、渡道後はすこぶる健康で、自ら畑に出て鍬を取り、疏菜豆類を作り、食用の助けとして一日に一銭たりとも多く貯えて、又一の手元に送り牧場の資本を増加せんと、熱心に働き、自らも「わたしにとって、これが一大快楽ですノ」と喜ぶのである。
しかし、そのアイも昨年から心臓病にかかり、心臓亢進の発作がおこるようになったが、しかし生来の仕事好きのため、少しも休息せず、「新しい牧場のためにともに身を尽くすのは、もちろん、望むところです」と、労苦を厭わない。
「この病は、とても全治は難しいのでは!」
と、悟り、厳寒の冬の雪解けの始まったある日、前々から胸中に秘めていた決意と、死後の希望を切々と寛斎に開陳した。


一、葬式は決して此地にては執行すべからず。牧場において貴方が死する時に、一同において埋める際に、同時に行うべし。
二、死体は焼きて能く骨を拾い、牧場に送り貯えて、貴方が死する時に同穴に埋め、草木を養い牛馬の腹を肥やすべし。
三、諸家より香料を送らるるあらば、陸海両軍に寄付すべし。

 淡々として冷静沈着、感情のブレもなく、まさに明鏡止水のアイの口調に、「やはり、終を悟っていたのか」と、寛斎は筋肉が凝縮し、血潮が咀るような思いにかられ、「儂はまぎれもなく医師である、が……」と、何度も何度も呟きながらも、「寿命」と云う悠久の摂理に服し屈せざるを得ない非力を、呪わしく思うのである。
「貴方が傍に居なくても何等不自由なく、まったく差しつかえ御座いません。さあ、一刻も早く斗満に御出なさいまし」と、アイからも促され、心懸かりながら出発したのである。


その後始末のあれこれに日々忙殺されている六月十二日、
ハハ・アイ、ケサシキョセリ ゴロウ」の電報が、札幌から陸別に届いた。
アイは享年、七十歳、寛斎に比べれば、まだまだこれからのもったいない年令と云える。

寛斎が札幌の家を出てから一月にもみたぬ、突然の死出の旅立ちである。アイは、彼が牧場に発ってからは、何等異常は無く、昵懇の倉次医師が時々往診に見え、何れも変化は認められなかったものの、十二日の朝、就寝から目覚めると、にわかに苦痛で顔をゆがめ、後は静かな寝顔になり、昏々として寝入るが如く、穏やかに息を引き取ったのである。
寛斎に指示されていたとおり、五郎は東京の周助のもとに電報をうち、隣人、知人、親族などによって手厚く葬儀が営まれ、荼毘に付された遺骨は丁重に壹に納められた。
この間、寛斎は深く辛い愁傷の心を抱きながら斗満に留まり、日々、牧場の段取りと差配に明け暮れ、野辺の送りには参加出来なかったのである。

渡辺 勲 「関寛斎伝」陸別町関寛斎翁顕彰会編

 

 

「十勝の活性化を考える会」会員 K

 十勝の活性化を考える会」会員募集 

 



最新の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (Unknown)
2020-03-06 11:37:42
こんにちは!いいね応援ありがとうございます(^o^)大昔の夏、鹿追でホームステイしたことがあり、懐かしく思いました。popra
返信する
コメントありがとうございました (会員K)
2020-03-06 15:54:45
popraさんこんにちは
大昔ってどれくらい昔でしょう?
鹿追でホームスティ?牧場とかだったのでしょうか
朝ドラ「なつぞら」のロケ地ですね
また来てください
返信する
Unknown (Unknown)
2020-03-06 16:16:22
知り合いが勤めていた会社の試験農場でした。駐在のご家族には、とてもお世話になりました。付近の牧場も見学させてもらいました。道内時刻表というものを教えてもらって、なんちゃつて周遊もしました。30年以上前です。朝ドラ見ないので、ロケ地のことは知りませんでした。北海道の鉄道が廃線になっていくのは悲しいです。ではまたpopra
返信する
コメントありがとうございました (会員K)
2020-03-06 20:55:03
popra様ありがとうございます
30年前ですか、楽しかったでしょうね
鹿追町の牧場は、メガファームや搾乳ロボットなどにより、大きく様変わりしましたよ
世の中落ち着きましたら、どうぞ想い出探しにまたいらしてください
返信する

コメントを投稿