寛斎にとって、半年あまりの留守の間に、妻・アイの衰弱は徐々に進んでいた。
一昨年、寛斎夫妻は、五月十八日札幌に到着。
アイは、渡道後はすこぶる健康で、自ら畑に出て鍬を取り、疏菜豆類を作り、食用の助けとして一日に一銭たりとも多く貯えて、又一の手元に送り牧場の資本を増加せんと、熱心に働き、自らも「わたしにとって、これが一大快楽ですノ」と喜ぶのである。
しかし、そのアイも昨年から心臓病にかかり、心臓亢進の発作がおこるようになったが、しかし生来の仕事好きのため、少しも休息せず、「新しい牧場のためにともに身を尽くすのは、もちろん、望むところです」と、労苦を厭わない。
「この病は、とても全治は難しいのでは!」
と、悟り、厳寒の冬の雪解けの始まったある日、前々から胸中に秘めていた決意と、死後の希望を切々と寛斎に開陳した。
一、葬式は決して此地にては執行すべからず。牧場において貴方が死する時に、一同において埋める際に、同時に行うべし。
二、死体は焼きて能く骨を拾い、牧場に送り貯えて、貴方が死する時に同穴に埋め、草木を養い牛馬の腹を肥やすべし。
三、諸家より香料を送らるるあらば、陸海両軍に寄付すべし。
淡々として冷静沈着、感情のブレもなく、まさに明鏡止水のアイの口調に、「やはり、終を悟っていたのか」と、寛斎は筋肉が凝縮し、血潮が咀るような思いにかられ、「儂はまぎれもなく医師である、が……」と、何度も何度も呟きながらも、「寿命」と云う悠久の摂理に服し屈せざるを得ない非力を、呪わしく思うのである。
「貴方が傍に居なくても何等不自由なく、まったく差しつかえ御座いません。さあ、一刻も早く斗満に御出なさいまし」と、アイからも促され、心懸かりながら出発したのである。
その後始末のあれこれに日々忙殺されている六月十二日、
「ハハ・アイ、ケサシキョセリ ゴロウ」の電報が、札幌から陸別に届いた。
アイは享年、七十歳、寛斎に比べれば、まだまだこれからのもったいない年令と云える。
寛斎が札幌の家を出てから一月にもみたぬ、突然の死出の旅立ちである。アイは、彼が牧場に発ってからは、何等異常は無く、昵懇の倉次医師が時々往診に見え、何れも変化は認められなかったものの、十二日の朝、就寝から目覚めると、にわかに苦痛で顔をゆがめ、後は静かな寝顔になり、昏々として寝入るが如く、穏やかに息を引き取ったのである。
寛斎に指示されていたとおり、五郎は東京の周助のもとに電報をうち、隣人、知人、親族などによって手厚く葬儀が営まれ、荼毘に付された遺骨は丁重に壹に納められた。
この間、寛斎は深く辛い愁傷の心を抱きながら斗満に留まり、日々、牧場の段取りと差配に明け暮れ、野辺の送りには参加出来なかったのである。
渡辺 勲 「関寛斎伝」陸別町関寛斎翁顕彰会編
「十勝の活性化を考える会」会員 K
大昔ってどれくらい昔でしょう?
鹿追でホームスティ?牧場とかだったのでしょうか
朝ドラ「なつぞら」のロケ地ですね
また来てください
30年前ですか、楽しかったでしょうね
鹿追町の牧場は、メガファームや搾乳ロボットなどにより、大きく様変わりしましたよ
世の中落ち着きましたら、どうぞ想い出探しにまたいらしてください