「六月の北見路」
原題名「Through Kitami in June」
ピアソン夫妻が1910(明治43)年6月に、小樽から船に乗り、稚内を経由してオホーツク海に入り、雄武・湧別・遠軽・生田原・佐呂間・留辺蘂・野付牛(現北見)・美幌・陸別・帯広を回り、旭川への旅の紀行文。原文の英語も資料として掲載しています。
オホーツク海 北海道の入梅
1908(明冶四一)年以来、いっしよに北見の国を訪ねるということはありませんでした。あの時は十月でしたが、今度は六月に行くことになっていました。「若葉の六月」、雨さえ降らなければ北海道の一年の中では最もすばらしい季節なのです。
今度もまた私たちは小樽から海路そこへ向かうことに決めましたが。これは三日間も馬に乗ったり、歩いたりすることからくる疲労を避けるためばかりでなく、小樽で開かれることになっていた中会〔日本基督教会北海道中会(教会会議)〕に参加するためでもありました。~~~~~~~
と始まる「六月の北見路」は、ピアソン夫妻が旭川から野付牛(現在の北見市)に向けて伝道の旅に出発する様子が描かれております。ピアソン夫妻は旭川から小樽に出て、その後日本郵船の「釧路丸」に乗り宗谷岬を迂回して、途中枝幸・雄武・湧別を経由し遠軽を通って野付牛に到達しております。そして驚くべきことに、そのオホーツク沿岸の小さな漁村ではすでにクリスチャンが定住しており、各地の最底辺で働く人々と交流を重ねたとのことでした。
『 解説
ここに訳出した両書の著者は、ともにピアソン夫人というべきで、年代順から言うと、「北海道における聖霊の活動」は1907(明治四〇)年の十勝監獄(現帯広刑務所)におけるリハイバルを中心に書かれたものであり、「六月の北見路」は、1910(明治四三)年六月、オホーツク沿岸に点在するクリスチャソーコロニーを夫妻が、共に馬の背にゆられながら訪問旅行をした時の旅行記とも言うべき記録である。
(中 略)
たしかに、彼らの中には信仰の火が、時には烈しく燃えたぎり、時には静かに燃え続け、それらを人から人へと灯して歩く使命感にかられながらも、実に楽しく余裕をもってやり遂げ、後から来る者にその仕事をゆずって穏かに去ってゆく。ピアソンは若かりし頃、日本をめざす太平洋の船上で、「伝道こそ、最もすばらしいロマンであり冒険である」と語っているが、伝道とは本来そのようなものであろう。』 1978年9月24日
小池創造牧師
「十勝の活性化を考える会」会員K
やはり「オホーツク沿岸に点在するクリスチャンーコロニー」が気にかかります。
それはオホーツク沿岸の「雄武」という小さな漁村での出来事です。
「私たちの知る限りでは、今までに一度も伝導されたことがないばかりか、どの伝道会社もそこでは活動していませんでした。
ところが、私たちは自分の光を鮮やかに輝かしている、一人の生き生きとした小さな婦人キリスト者がそこにいるのに気づいたのです。」と書き記されています。
当時の北海道は全国各地から開拓や漁労のため、まるでゴールドラッシュのように多くの人達が移住してきました。
しかしキリスト者はごく少数で、きびしい自然環境のなか、各地で孤立していました。
そこに突然現れたピアソン夫妻は、まるで神が自分たちに遣わした精霊のように思えたことでしょう。
この「小さな婦人キリスト者」は「奇跡」を体感したような感激をうけたと思われます。
ピアソン夫妻はこのように、少数者や孤立している人たちの救済に尽力します。
そして人々を分け隔てなく導き、アイヌの人たちにも暖かい手を差し伸べています。
その記録も今後発信してゆきたいと思っています。
ムベ様からコメントをいただくと、調べる気力が沸いてきます。
本当にそのような香りを感じながら読ませて頂いていました。
6月の北海道を想像しながら・・。
クリスチャンの方々には、ビアンソンさんの訪れは、主のご褒美
のようだったでしょう。どのような御交わりだったかと、
想像するだけでもワクワクしてしまいます。
クリスチャンにはイエスさまのことを聞いたり、話したり、
分かち合うことほど、幸せ時はありませんから・・。
遠方より来てくださる方を、ただ。待つばかりの時代でした
から。
今、良いことも悪いこともありますが、このインターネットの
時代に、置かれていることをとても感謝しています。
求めるなら、幾らでも聴くことも、学ぶことができて、共に
イエスさまを分かち合うことができるのは、幸いなことだと
思っています。
すべては、先人達のご苦労の上にあることですが・・。