★★★ 狸に尽力してくれた織田政毅氏、逝く
狸をつかったまちづくりの取り組みは、いくつかの理由からでした。
前職の時に商店街振興の一つとして、札幌市の狸小路商店街に松山市の伊予八百八狸の子孫が嫁いで行っているという話を中村時広市長が聴きつけ、これを題材にした商店街振興をするようにという命がおりていたのが一番大きな理由です。
私が前職に就いたときには、その話が着々と進んでいて、狸のモニュメント(松山中央商店街の銀天街と大街道の接続点のスクランブル交差点前に鎮座)の制作やそれぞれの狸の狸の結婚式など、松山特有の洒落話に花が咲いたような企画でありました。
そのあまりの真面目さに、私など何も考えずのめりこんでいったものです。
ところが、事件が起こりました。
狸のモニュメントの制作で、予算があまりにも少なかったために断念しなければならない可能性が出てきたのです。
これには、慌てました。
どうやって積算したのか担当者に聞いたところ、石代だけで、制作費(デザイン費を含む)や工事費が入っていないということが見えてきました。
料理で言うなら、一番のメインデッシュが順番に出てきていて直前で予算がないので出ませんと言われたような事態であります。
「契約担当部署に泣きついて来い。」と担当者に声を荒げたような気がします。
そして、赤字覚悟で現れたのが、オリタ総業の織田政毅社長でした。
「わはは、役所さんも無茶しますな。」
「はあ、お恥ずかしい。実際、どの程度の予算が必要でしょうか。」
と恐る恐る聞いて見ました。
「通常なら、この三倍から四倍ですかな。何しろ石屋は石は彫れますが、
その前にデザインがいって、その方の指導で制作していきます。
そして、それを据え付けるんですが、今回のような形ですとコロコロと
転がる可能性がありますから、土台工事が必要となりますから、
それくらいはもらわんと割が合わないんですよ。まして、これくらい
大きいと、材料が近くにないと思いますので、遠くからトラックで運ばな
いかんし、石は重いもんですから...」
頭の中で電卓をおきながら気が遠のいていく思いがしました。
その雰囲気を察したのか、
「予算上げられる時に失敗されたんですか?」
「はあ、私、先月、この課に着たばかりで、その時にはすべて決まって
まして...」
「そうですか。前はどちらにおられました?」
「はあ、行政改革推進課というところに。」
「そういえば、私の甥がなんかそんなところにおったな。」
「しめた!!」と思いました。
甥の名前を確認してから、
「あなたの甥は優秀な職員で、将来、有望な職員ですよ」と褒めちぎったような気がします。そして、
「これしかないんです。」
「わかりました、何とかします。」
そして、発注し、据付工事にまで付き合った。
「ようできたな。」と工事を見ながら思いました。
それから、デザイナーも含めて、狸活性化委員会を作ろうということになり、定期的に「狸会議」を開催しました。
織田さんは、ニコニコしながら、この会議に欠かさず出てきてくれました。
参加者は全員、「何かおもろいことやりましょ。」感覚で、手弁当で参加してくれました。
「松山の未来は狸しかない。」などと大胆発言が出て、みんな大真面目に「狸グッズはこんなんがおもしろい。」と商品開発企画会議にまで発展してしまいました。
あんなおもしろい会議は、後にも先にも経験がありません。
洒落が洒落を呼び、本当に大真面目な会議になってしまいました。
でも、形にできなかったのは私の責任です。
その後、織田さんにお返しできたのは、お墓の紹介が数件です。
でも、豪放磊落で茶目気のある人でしたから、
「いつまでも気にせんでいいですよ。」と気遣っていただきました。
そして、14日、織田さんは突然亡くなられました。
67歳、あまりにも若すぎる年齢で逝かれました。
残念です。
ご冥福をお祈りいたします。
合掌
狸をつかったまちづくりの取り組みは、いくつかの理由からでした。
前職の時に商店街振興の一つとして、札幌市の狸小路商店街に松山市の伊予八百八狸の子孫が嫁いで行っているという話を中村時広市長が聴きつけ、これを題材にした商店街振興をするようにという命がおりていたのが一番大きな理由です。
私が前職に就いたときには、その話が着々と進んでいて、狸のモニュメント(松山中央商店街の銀天街と大街道の接続点のスクランブル交差点前に鎮座)の制作やそれぞれの狸の狸の結婚式など、松山特有の洒落話に花が咲いたような企画でありました。
そのあまりの真面目さに、私など何も考えずのめりこんでいったものです。
ところが、事件が起こりました。
狸のモニュメントの制作で、予算があまりにも少なかったために断念しなければならない可能性が出てきたのです。
これには、慌てました。
どうやって積算したのか担当者に聞いたところ、石代だけで、制作費(デザイン費を含む)や工事費が入っていないということが見えてきました。
料理で言うなら、一番のメインデッシュが順番に出てきていて直前で予算がないので出ませんと言われたような事態であります。
「契約担当部署に泣きついて来い。」と担当者に声を荒げたような気がします。
そして、赤字覚悟で現れたのが、オリタ総業の織田政毅社長でした。
「わはは、役所さんも無茶しますな。」
「はあ、お恥ずかしい。実際、どの程度の予算が必要でしょうか。」
と恐る恐る聞いて見ました。
「通常なら、この三倍から四倍ですかな。何しろ石屋は石は彫れますが、
その前にデザインがいって、その方の指導で制作していきます。
そして、それを据え付けるんですが、今回のような形ですとコロコロと
転がる可能性がありますから、土台工事が必要となりますから、
それくらいはもらわんと割が合わないんですよ。まして、これくらい
大きいと、材料が近くにないと思いますので、遠くからトラックで運ばな
いかんし、石は重いもんですから...」
頭の中で電卓をおきながら気が遠のいていく思いがしました。
その雰囲気を察したのか、
「予算上げられる時に失敗されたんですか?」
「はあ、私、先月、この課に着たばかりで、その時にはすべて決まって
まして...」
「そうですか。前はどちらにおられました?」
「はあ、行政改革推進課というところに。」
「そういえば、私の甥がなんかそんなところにおったな。」
「しめた!!」と思いました。
甥の名前を確認してから、
「あなたの甥は優秀な職員で、将来、有望な職員ですよ」と褒めちぎったような気がします。そして、
「これしかないんです。」
「わかりました、何とかします。」
そして、発注し、据付工事にまで付き合った。
「ようできたな。」と工事を見ながら思いました。
それから、デザイナーも含めて、狸活性化委員会を作ろうということになり、定期的に「狸会議」を開催しました。
織田さんは、ニコニコしながら、この会議に欠かさず出てきてくれました。
参加者は全員、「何かおもろいことやりましょ。」感覚で、手弁当で参加してくれました。
「松山の未来は狸しかない。」などと大胆発言が出て、みんな大真面目に「狸グッズはこんなんがおもしろい。」と商品開発企画会議にまで発展してしまいました。
あんなおもしろい会議は、後にも先にも経験がありません。
洒落が洒落を呼び、本当に大真面目な会議になってしまいました。
でも、形にできなかったのは私の責任です。
その後、織田さんにお返しできたのは、お墓の紹介が数件です。
でも、豪放磊落で茶目気のある人でしたから、
「いつまでも気にせんでいいですよ。」と気遣っていただきました。
そして、14日、織田さんは突然亡くなられました。
67歳、あまりにも若すぎる年齢で逝かれました。
残念です。
ご冥福をお祈りいたします。
合掌