勃ちあがった象の白い涙の物語

ロックンロールにゃ老だけど死ぬにはチョイと若すぎる

聖徳太子実在説

2019-10-16 02:09:08 | 歴史
(本文と写真との間には、何の関係もありませんし、何の意味もありません)

日本という国は、いつから始まるのか。
なんせ文字も何もない時代の話だから、はっきりしたことはわからない。
しかし、その参考となるものはある。
それは「古事記)であり「日本書紀」である。
というと、この「古事記)にしろ「日本書紀)にしろ、後々の時代になって当時の権力者によって都合のいいように書かれたものであり、あまりあてにはならない、という意見はあるだろうし、それはもっともなことだとは思う。
なんせ、この「記紀」が正しいのだとすれば、神武天皇の即位したのは、弥生時代の話になり、考古学の発掘などから、その時代にそんなことがあったなんてのは、明らかに矛盾しているということは証明されているのだろう。

しかしながら、いくら作り話とはいえ、少なくとも当時の公式な国の歴史である。「火のないところに煙はたたない」というが、それらしいことはあったと思うし、この「記紀」に記述されていることが100%の作り話や嘘ばかりとは思えない。
たとえば、有名な「国譲り」の話にしても、後の大和政権がその勢力圏を拡大していく過程を示しているのではないか、と思うし、そう思えば、天津神と大国主命の息子が力比べをしたという記載があるように、よく言われる話し合いで平和裏に行われたばかりでなく、やはり武力での征服したこともあったのだろう。

さて、そうなると、昨今、聖徳太子の実在の有無が取りざたされることが多いのだが、正直、バカバカしい話で、そんなものは実在しているに決まっていると思っている。
聖徳太子の業績とされる「憲法17条」や「冠位12階」などを、彼一人がやり遂げたということに対する反論には、確かに理解できないものがないではないが、少なくとも、そのモデルとなった人物は、いたのではなかろうか。
また、彼の業績の多くが、彼が成し遂げたものでなかったとしても、少なくとも、そのモデルの人物の監視下やそれに近い形で成し遂げられたものではなかったのか、と思う。

邪馬台国なんてなかった

2019-10-15 01:45:29 | 歴史
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日本の歴史はどこから始まるのか。
学校では縄文時代から歴史の授業は始まるが、この段階では、まだまだ国らしいものであったとはいえず、とりあえず、国ようなものがあったとされるはじめは、やはり邪馬台国であったのではないだろうか。
しかしながら、この邪馬台国、個人的には、本当に実在したのかどうか、疑問に思っている。
また、その所在地において、大きく畿内説と北九州説があるようだが、その議論じたい、少し不毛な気がしている。

邪馬台国の証拠としては、「魏志倭人伝」に記されたものが、その根拠となっている。
しかし、この「魏志倭人伝」は、その名が示すように「魏志」つまり「魏」の書物であり、「魏」とは今の中国の一部の国名であり、あの「三国志」で有名な「魏」のことである。つまりは、この「魏志倭人伝」は、あくまで当時の中国の人々に読ませることを前提とした書物である。

この「魏志倭人伝」に記載されている邪馬台国の位置は、記述通りだとすると、沖縄と台湾の間くらいの位置の海の中になるようで、とても、記述通りの国が、そんな海の中にあったなんて考えられない、というところから、その記述が間違っているとして、畿内説や北九州説などが出てくるわけである。
しかし、その記述通りの位置の対岸の中国大陸側には何があったかというと、それは「魏」のライバル国である「呉」が存在していたわけで、この「魏志倭人伝」が当時の中国の人々が読むことを前提に書かれたものであるとするならば、対岸に同盟国があるぞ、という「魏」の「呉」に対する牽制ではなかったのか、と思う。

本当に邪馬台国があったのか、なかったのか。そして、それはどこにあったのか。
考古学の発掘によって、それは、いずれははっきりするのだろうが、個人的には、邪馬台国なんてなかったように思う。

織田信長って

2017-03-27 02:18:31 | 歴史
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よく歴史上の人物の理想の上司でランキング入りしたりしているけど、
そもそも、織田信長の部下の使い方って、完全なブラック企業のそれじゃん

歴史上の人物で好きな人は?

2015-12-07 21:06:39 | 歴史
好きというか、興味深いのは、室町幕府6代将軍・足利義教。

この人は、本来ならば順番的に将軍になれる可能性は非常に低い人で、それだけに比叡山延暦寺に出家させられていて、身分的にも将軍の身内と言うことで天台座主もつめていたのだが、先の将軍が後継を決めないで亡くなってしまったがために、先の将軍の身内から岩清水八幡宮で行われた籤引きで将軍に選ばれた人で、我々の感覚で言うと、「なんだ籤引きで選ばれたのか、たいしたこと無いな。」であるが、当時は、神の存在を誰もが信じていた時代だったわけで、それだけに、岩清水八幡宮での籤引きで選ばれたということは、これは神の意思であると考えられたわけで、それだけに、将軍の権力が非常に希薄と言わる足利幕府の歴代将軍の中で、例外的に強力な権力を発揮した人、というか好き勝手なことをした人である。

同じく将軍候補だったが籤で選ばれず、それだけに義教のことを快く思わず対立していた鎌倉公方・足利持氏をささいな理由から滅ばしたことは理解できなくも無いが、延暦寺出身でありながら、自らの意に介さない行動をした延暦寺の根本中堂を炎上させることに追い込んだり、笑顔で挨拶した大名を、「将軍を笑った」といって成敗したり、あげくには、酌の仕方が気に食わないと女中までも罰したりした、本当にとんでない人である。

それだけ好き勝手なことをしてはいるが、それだけに、幕府権威の回復(というか、恐れられる)には、かなり実績を上げたらしい。

しかし、今度は自分が罰せられると思い込んだ部下に暗殺されることになるのだが、将軍が殺されたのだから、本来ならば、幕府としてはすぐに報復しなくてはいけないのに、ワンマンに自分勝手なことをしていたために、幕府内がまとまらず、なかなか報復の行動がとれず、それがゆえに、かえって幕府の権威が失墜するとこになるという、皮肉な結果を招いた人である。

「軍師官兵衛」③

2014-02-01 11:09:59 | 歴史
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今年の大河ドラマの主役の主人公の黒田官兵衛であるが、彼の人生には、いくつかのハイライトがあるが、その中のひとつは、本能寺の変からの中国大返しによる山崎の合戦での勝利だと思う。
このことによって、豊臣秀吉が一躍、天下人へ名乗りを挙げるばかりではなく、その最先端に躍り出たのだから、官兵衛だけの問題ではなく、日本の歴史そのものの重要な転換点のひとつであるとさえいえる、と思う。

そのきっかけとなった本能寺の変だが、明智光秀による織田信長への襲撃事件、ある意味、クーデターであるというのは歴史的な事実だが、その動機など不明な点が多く、戦国時代最大の歴史の謎とひとつといわれている。

で、こっからは個人的な見解なのだが、本能寺の変の黒幕は、実は官兵衛ではないか、と思っている。
犯人を捜査方法の常道として、それによって一番利益を受けたのは誰かというのがある。
それで考えるのならば、織田家臣団の一将校から一気に天下人への名乗りを挙げた秀吉が、本能寺の変でもっとも利益をあげたといえる。
それに、本能寺の変から中国大返しまでの段取りが、あまりに手際がよすぎる。
これは、あらかじめその事態を予測していなければ、非常に難しいことではないのか。
なにより、秀吉は、本能寺の変を、光秀が毛利に出した手紙を運ぶ人間が、間違えて秀吉の陣に迷い込んでしまったために知った、ということになっているが、そんな粗末なことを、仮にも本能寺の変を伝えることを任された人間がするだろうか。
これは、最初から秀吉に、その事実を伝えるためだったのではなかろうか。
こう考えると、秀吉が本能寺の変を光秀にそそのかしたと考えられるが、そうなると、山崎の合戦に向かう秀吉や光秀の行動に謎が残る。
秀吉にそそのかされて本能寺の変を光秀が起したというのであれば、いわば光秀と秀吉は秘密同盟の立場にある間柄で、そのわりに、両者とも戦いに向かうには何のためらいもないし、光秀の完膚なきまでの負け振りは、とてもそんな関係にあったもの同士の戦とは思えない。
そこで考えられるのが、官兵衛である。
本能寺の変を知って落ち込む秀吉を奮い立たせ、いちはやく中国大返しに向かわたのは官兵衛だし、その中国大返しという、当時としては奇跡的な大行軍を段取りしたのは、紛れも無い官兵衛である。
突然の出来事に対応したとすれば、この大返しはすこぶる至難の業であっただろうが、事前にそのことが予測できていたのならば、その準備は、さほど難しいことではないだろう。
動機としても、秀吉と官兵衛は上司と部下の関係にあり、上司の立身出世は、自分の立身出世につながると考えられる点からも、充分にありうる話であると思う。

歴史は変わる?

2014-01-31 10:50:06 | 歴史
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よく過去は変えられないが未来は変えることが出来るという。
しかし、最近は必ずしもそういうわけではなく、過去の歴史も変わるようである。

たとえば、我々は鎌倉幕府の成立が1192年で、日本で最初の武家政権と教わった。
でも、最近はそうではないらしい。
まず、鎌倉幕府そのものがなかったらしい。
というと誤解を招くが、源頼朝が作った政治機構は、鎌倉幕府と呼ばれていたわけでなく、これは江戸時代に当時の学者によって命名されたものであるらしい。
さらに、その成立年も、いいくにつくろう鎌倉幕府、と習ったものだが、そういうわけでなく、1185年というのが、今の定説らしい。
たしかに頼朝が征夷大将軍に任命されたのは1192年だが、将軍に任命されることによって政治機構が出来たわけでなく、それ以前に守護地頭の設置や政所の設置にって設立されたわけで、そういう意味で、その設立年は1185年というのが、今の定説らしい。

ちなみに、頼朝の政権を日本初の武家政権と習ったものだが、それも、今は、平清盛の政権を日本初の武家政権とする説が有力のようだ。

平清盛

2012-02-15 06:21:57 | 歴史
今年の大河ドラマは、「平清盛」である。
スタート時に主演男優に第一子が誕生したり、とある県知事から演出にイチャモンをつけられたりと、話題には事欠かないようであるが、視聴率的には苦戦しているようだ。
個人的には、第一回目は面白く見た。平安貴族の表向きの華麗さとその裏での権力争いや人間関係のドロドロさがうまく表現できていたし、おまけに「源氏物語」に代表される平安貴族のエロさまで表現されていたと思う。

しかし、その後がよくない。
だいたいが、大河ドラマは、初回はけっこう面白いが、その後は、歴史的に有名な出来事が起こるまではつまらないという傾向があると思うのだが、今年に関しては、特にこの傾向が強いのではないか、と思う。

今の大河の何がダメかといえば、ダラダラとしたストーリー展開と、それに合わせたような主演の松山ケンイチの軽く下手な演技に尽きる。

主演の松山ケンイチの演技は、どうにかならないか、と思う。脇の中井貴一や三上博史、伊東四郎なんかの演技が重厚で上手く、これぞ大河ドラマという演技を見せているのに比べて、彼の演技は、あまりに軽すぎるように思う。
さらにダラダラしたストーリ展開も如何なものか、と思う。
本来なら、平清盛の生涯といえば、保元、平治の乱と勝ち抜き武士として初めて太政大臣の位に任ぜられ、初めての武家政権を樹立するも、治承・寿永の乱でその政権が崩れ去ろうとする中、亡くなっていくという、まさに波乱万丈の人生で、おまけに、今回の大河ドラマは、清盛死後の壇ノ浦の戦いまで描くということなので、話としては面白くないわけが無いのだが、それにしては、もう2月も終わりだというのに、いまだにどの乱も描かれていないというのはどういうことだろう。
このペースで壇ノ浦まで描くとすれば、どの乱も、その描き方が淡白になることは目に見えている。これでは、せっかく、戦乱という面白くなるはずの題材を活かしきれないだろう。そういえば、昨年の大河の関が原の戦いの描き方もひどかったが、今年も、あの轍をもう一度踏んでしまうのだろうか。
個人的には、特に、保元、平治の乱は、要は朝廷内における権力争いであるのだろうが、天皇家や武家での親子の対立があったり、それだけに、勝者が敗者となった身内を処分せざるえなくなるなど、その乱が起こる経緯や対立関係がややこしかったりするのだが、それだけに、ここをわかりやすくドラマ化してもらえれば面白くなることは間違いないので、もし昨年の関が原のような描き方なら、かなり残念だったりする。

そういえば、松田聖子演じる祇園女御はどうしたんだろう?
あんまり評判が良くないので、出番をカットされたんだろうか?
もしそうなら、清盛の人生で少なくない影響を与えた歴史上の人物である彼女ですら、そういう扱いなのである。
架空の人物を演じる極楽とんぼの加藤のことが心配だ。

義経元服の地

2010-12-24 21:15:31 | 歴史
写真は、滋賀の竜王町にある源義経元服の地のものである。
この竜王町は、いろいろと義経にゆかりのある地で、平家終焉の地、つまり、義経が壇ノ浦の合戦で生き残った平宗盛親子を処刑した場所が近くにあったりする。

源義経といえば、一の谷、屋島、壇ノ浦の戦いで平家を滅亡に追い込み、源氏政権、つまり、鎌倉幕府成立の最大の功労者でありながら、その鎌倉幕府の将軍であり兄でもある頼朝と対立し、京の都から奥州まで逃げ延び、結局、その奥州の地で頼朝からの圧力に屈した藤原泰衡から襲撃されて自害するという最後を迎えるわけだが、その悲劇性が世間の同情をひいて、判官びいきという言葉を生むほどの日本史史上、最も人気のある人物の一人である。

ちなみに、この義経がドラマや映画などで取り上げられる場合、きまって二枚目の俳優が演じるのが当たり前のようになっているが、残されている肖像画からは、とても二枚目とはいえないような人物が想像される。



明智光秀

2010-11-16 21:10:24 | 歴史
写真は坂本城址の明智光秀像である。
意外と短足である。(笑)

明智光秀といえば、本能寺の変で謀反をはたらいて、天下統一直前の織田信長を亡きものにしたことで有名だが、信長の家臣として特に可愛がられていたのに、なぜそのような行為を行ったのかが、戦国時代の最大のなぞのひとつである。

個人的には、明智光秀が本能寺の変を起こしたのは、彼だけの単独犯ではなく、その裏に黒幕がいると思っている。
で、その黒幕とは誰か、といわれれば、それは豊臣秀吉であると思っている。

そう思う根拠としては、まず、結果的にではあるが、本能寺の変で一番得したのは秀吉である、ということ。
また、秀吉は、ほかの武将よりも早く本能寺の変を知ることができ、それゆえに有名な中国大返しを行い、山崎の合戦に勝利し、信長の後継者の地位を獲得するわけであるが、その本能寺の変を知ったきっかけが、光秀が毛利に送った使者が、間違って秀吉の陣地に迷い込んだためであるというのも、あまりにできすぎている気がする。


あれでいいのか!「龍馬伝」

2010-11-14 22:20:56 | 歴史

ドラマなので多少の脚色や演出があるぶんはかまわないのだが、最近の大河ドラマは、あまりに史実を逸脱したことが多すぎる。
今年の「龍馬伝」も例外ではなく、たとえば、岩崎弥太郎と坂本龍馬が幼馴染という設定自体、大嘘なのだが、それは、まぁ、許せる。
しかし、今日の「龍馬伝」はないんじゃないか、と思う。

土佐藩の大御所、山内容堂に大政奉還の建白書を書かせるため、坂本龍馬は土佐に戻ってくるのだが、その容堂と龍馬の間を、あの後藤象二郎が取り持ち、挙句の果てには、容堂の書いた大政奉還の建白書を前に、龍馬と後藤象二郎が握手するという演出がなされていたのだが、これは、とーてもとんでもないんじゃないか、と思う。

幕末最大の謎といわれている龍馬暗殺事件であるが、その黒幕の一人として後藤象二郎の名前があるのは有名な話である。
後藤が龍馬暗殺をしなければならなかった動機として、大政奉還の提言の功績を独り占めしたのをバラされたくなかった、というのである。史実では、山内容堂に大政奉還の建白を薦めたのは後藤象二郎単独の行為で、その際、後藤は、これが龍馬の発案であることを黙っていて、あたかも自分ひとりの手柄であるようにしていたらしい。その功績があった故、後藤は維新後、政府の要人になれたわけである。
もし、本当の大政奉還の立役者である龍馬が生きていれば、後藤としては非常に都合が悪い訳で、それ故、龍馬暗殺を企てたというのが、後藤象二郎黒幕説の粗筋である。

しかし、今日の「龍馬伝」の展開では、この後藤黒幕説は成り立たなくなる。
龍馬暗殺は、坂本龍馬の生涯における一大事件であるだけではなく、前述したとおり、幕末最大の謎とまでいわれている大事件である。その大事件の大きな要因のひとつを、こんな感じで潰しちゃっていいのかね。

しかし、かく言う私は、ブチブチ文句を言いながら、一応、毎週「龍馬伝」を見てしまっている。


「龍馬伝」

2010-11-02 21:05:58 | 歴史
大河ドラマの「龍馬伝」も船中八策がおわり、いよいよ大詰めという感じである。
キムタクと並んで当代有数の人気俳優の福山雅治を主役に据え、香川照之や大森南朋などの芸達者や蒼井優といった人気者の配役や、チョイ役とはいえ元AV女優の出演などのためのあってか、この「龍馬伝」もそれなりに盛り上がっているようだ。

もともと坂本龍馬じたいが日本史上、もっとも人気のある人物のひとりで、土佐脱藩浪士という何のバックボーンもない、いわゆる一匹狼的な存在なのに、薩長同盟の締結や大政奉還という、日本の歴史の大きな転換期的な出来事に大きく関わったことや明治政府の基本方針である5か条のご誓文の原案である船中八策を作成したりした点が大きく評価されているのだろうが、薩長同盟の締結に大きく坂本龍馬が関わったのは確かだが、実際に、この犬猿とも言える両藩を口説いて回ったという点では、中岡慎太郎のほうが、その功績は大であるし、船中八策にしても、それまでにあった考え方や欧米のやり方をまとめたもので、特別、斬新で新しいものではない。
実は、個人的には、坂本龍馬って、そんなにすごい人だとは思わないのだ。

関が原

2010-10-21 21:53:14 | 歴史
写真は関が原の古戦場のものである。
ちなみに今日は関が原の合戦が行われた日である。

関が原の合戦は、よく知られているように小早川秀秋の裏切りによって徳川家康率いる東軍の勝利に終わり、この勝利によって徳川家康は名実ともに天下人となり、江戸幕府が開かれるきっかけになった、まさしく天下分け目の戦いである。

歴史に「もし」は禁物だが、もし小早川秀秋の裏切りがなかったならば、どうなっていたのだろう。

戦力、陣形的には、石田三成率いる西軍が圧倒的に有利で、もし小早川の裏切りがなかったならば、おそらく関が原の戦い自体は西軍の勝利で終わっただろうと思う。しかし、この戦いに、本来東軍の主力となるべき徳川秀忠率いる徳川軍3万は、到着の遅れにより参加していない。つまり、家康としては、この戦いに負けてもうまく生きて逃れれば、その徳川主力と合流して、もう一戦戦うことは可能だったわけである。
では、対する西軍はどうだったか。その団結力は、関が原での勝利に士気が高まって一丸となっているか、もしくは、その勝利に気をよくしていい気になっている石田三成に各武将が嫌気がさしているかだろうが、石田三成の傲慢な性格というのは、敗者にありがちな、勝者によって作られた人物像だと思う。それだけに、西軍の団結は、関が原とそう変わらない状況だと思う。しかしながら、石田三成は、武将というよりはあくまで文官、つまり官僚であり、戦いが続けば、戦術的に誤りを犯すのではないか、とも思う。
つまり、天下分け目の戦い第二戦は、戦下手ではあるが大きな戦を経験して疲れてはいるが士気は高い西軍と、戦上手ながら敗残兵と徳川主力の混成部隊の東軍の戦いになる。となば、これはともに決定打に欠ける戦いになり、長期戦になるのではないだろうか。
となれば、関が原の戦いのみ有名であるが、実際、この当時は、全国で東西軍に分かれて小競り合いが行われていたわけで、その状況に収集がつかなるなるのではないか、と思われる。
つまり、この関が原の戦いをきっかけに、全国は、また新たな戦国時代に突入してしまうわけで、そうなれば、家康ほどに才能のないであろう秀忠率いる徳川家では、天下を治めることはできないと思う。
となれば、誰が天下を統一するかだが、個人的には、国力や地理的な点から、毛利家ではないか、と思うわけである。