Landscape diary ランスケ・ ダイアリー

ランドスケープ ・ダイアリー。
山の風景、野の風景、街の風景そして心象風景…
視線の先にあるの風景の記憶を綴ります。

楽しい終末 / 池澤夏樹

2012-08-29 | 

 

こういう本の登場を待っていたのだと思う。

ただし、この本が書かれたのは1993年。およそ20年前。

20世紀が、やがて終わろうとしている時期、「世界の終わり」終末をキーワードにして綴られる論考。

それは巷に溢れた扇情的な世紀末論とは一線を画する。

人という種を、そして人という種が創り上げた文化を多岐にわたって論証してゆく。

私たちの立っているこの足元を、容赦なく白日の下に晒してゆく。

それは正直、とても辛い体験だった。

でも途中でページをおくことような真似はできなかった。

「眼を背けるな」という声が背中を圧し続ける。

それは震災以来、ずっと私たち日本人を叱咤し続けて来た内なる声だったと思う。

 

池澤夏樹の著作は、ほとんど目を通しているつもりだったが、この本は何故か抜けていた。

それも一度文藝春秋社から文庫化されているのに。

これは中央公論社から新装版として、この夏に再文庫化されたもの。

非常にタイムリーな出版であると共に、3.11以降の世界を俯瞰するための最適な書と云える。

 

さて、この本が書かれた1993年という20世紀の終わりの数年を振り返ってみましょう。

チェルノブイリ原発事故は1986年。ベルリンの壁が崩れて東西冷戦が事実上終局し、ゴルバチョフはノーベル平和賞を受賞。そしてイラクがクェートへ進行。

オゾン層の破壊、温室効果ガスが目前の危機として深刻に国家間で議論されるようになってきた。

東海村の臨界事故は1999年だから、まだ世論は原発安全神話を無邪気に信じて原発事故を対岸の火事くらいに扱っている。

私が原発に対して不信感を抱いたのも、ちょうどこの時期だったと記憶している。

広河隆一郎がDay,s Japan を創刊して広瀬隆と共に反原発の狼煙を上げた時期だ。

忌野清志郎は「核なんかいらねぇ~牛乳飲みてぇ~」と私たちをアジっていた。

 

第一章、「核と暮らす日々」は、福島第一原発事故という20年後のカタストロフィーに対して、

それが起こるべくして起こったというシステムの脆弱性について怖いくらいに予見的だ。

この一文が1993年に書かれたという事実に目を見張る。

 

≫日本の原子力産業は世界一で一番優秀であると言ってしまおう。

故障率の低さを誇る車を安く作って世界中に売るのが得意なように、日本人は原子炉を安いコストで安定して運転するのが得意なのだろう。

ひょっとしたら日本人は今の世界で原子力発電所の運営に対する適正を最も多く備えた民族かもしれない。

関係者が誠心誠意の努力を毎日重ねていることも認めよう。

だが、運転技術の優秀性は事故の確率を下げはしても、それをゼロにはしない。

まして発生した事故の規模を小さく抑えるわけでもない。

火力発電所がいくつ事故を起こそうと、タービン・ミサイルで周辺の住民に百人の死傷者が出ようと、社会はそれに耐えて生き延びることができる。

(中略)

しかし原子力関係の施設の事故の傷から恢復するだけの力は普通サイズの社会にはないのだ。

東海村なり福島なりで炉心溶解規模の事故が起こったら、日本の社会はあまりに重大な損傷を被る。

普通規模の産業事故とは三桁も四桁も違う危険を相手にしているにしては、原子力発電所の設計と運営にあたる人々の言葉づかいは軽薄にすぎる。

新しい冷蔵庫を売るのと同じ程度のコピーで数百万の人間の生死にかかわる安全を売ることはできない。

彼らの言葉、彼らのロジックにはまったく説得力がない。信用しろと言う方が無理だ≪

 

その他、再循環ポンプの構造上の欠陥やコスト優先の制禦システムの不備や現在問題視されていることの、ほとんどがここで指摘されている。

そして産業革命以来のエネルギーの変遷を指摘した後、

万一の事故が一つの地方をそっくり廃墟にしてしまい、後遺症が何世代にもわたって残るというほどの

大きな危険性をはらんだエネルギー革命は今までなかった。

状況はマルサス的である。パワーは幾何級数として増えるのに、それをコントロールする能力の方は算術級数としてしか増加しない。

パワーは科学に由来し、科学は先人の業績をそのまま継承できるシステムである。

しかし、コントロールの方は結局は人間の性格に大きく依存するものだから、

それをある目的に向けて、よりふさわしいように変えてゆくことができない。

だからパワーとコントロールの差は大きくなるばかりだ。


結局、原子力の平和利用というのは、まやかしにすぎない。

兵器としての核が抑止力として封印されたように、核は人の手の及ばないパンドラの箱だっった。

でもそれを開けた以上は、今更無かったことにはできない。

冷戦以降の核戦争の危機が回避されたとは云え、核という存在が人類において最大の脅威であることは、これからも変わりはなさそうです。

自分たちが滅ぶかもしれないという危機を認識しながらも、それを回避できない人という種の特異性を、

池澤夏樹は、第二章以降掘り下げてゆきます。

 

第二章、「ゴーストダンス」では、近代以降の自我の発生において歪められたが、本来、人は共同体という最小単位で生存してゆく生き物だ。

その共同体が絶滅の危機に晒される過程を歴史の中から探ってゆく。

新大陸におけるスペイン人のインデイオに対する容赦ない虐殺の記録はラス・カサスの「インディアスの破壊についての簡潔な報告」おいて生々しい。

もうそれは人の行為とは思えない。

命乞いをする母親の前で、乳飲み子を奪いその頭を岩に叩きつける。

百万人単位の人々を殺戮するという行為が、命を弄ぶように平然と行われた記録が詳細に残っている。

アングロサクソンによる北米大陸におけるアメリカ・インディアン虐殺の記録も狡猾で容赦なく、正義を標榜するアメリカの人権意識の裏面をみる想いだ。

ディズニー映画にもなったポカホンタス伝説の事実やペイユート族の少年から派生した失われた魂の再生を願うダンスが、

たちまち各部族に広がり、それに恐れをなした白人が弾圧し虐殺に至る過程。

この人という種が逃れられない「虐殺」という破滅への暴走は、別の章でもナチスやクメールルージュによるカンボジアの大量虐殺においても詳細に語られる。

実はカンボジアという国は本来、幸せの国だった。自発的に働かなくても食糧の自給が可能な地球上でも稀な場所だった。

そして、ここで行われた悲劇は異人種や異民族間によるものではなかった。

同じ民族がイデオロギーという知性の誇大した怪物によって屍の山を築き、平等に死を配布した。極限に到達した民主主義というアイロニー。

人という生き物の倫理観を信じてはいけない。哀しいことだが数多の歴史が証明している。

でも歴史は勝者の記録だ。敗者の記録が存在しないことが一面的ではある。

 

第三章、「恐竜たちの黄昏」は、地球という生命体の50数億年の時間を振り返る。

恐竜という生物種は、地球という生態系が生んだ最も優れた動物群であったかもしれない。

一億数千万年も地表に君臨し続けたのだ。

たかが三百万年、否ホモサピエンス誕生から10万年くらいの海のものとも山にものともしれない人という亜種は、

地球の長い時間の中では泡沫のような存在かもしれないのです。

そしてこの章では、生物種の絶滅について論証します。

御存知のように6千4百万年前の恐竜の絶滅は、巨大隕石の衝突による異常気象が現在の通説です。

この地球上の大絶滅は二千五百年ごとに繰り返されるという説がある。

それは太陽の周囲を巡る細長い軌道の暗い星が存在し、それが周期的に太陽系の外に広がるオールト星雲という

微小な物質群を通過する際にその微惑星の軌道を攪乱し、そのいくつかを太陽の方へ押し出すためと云われている。

その暗い星は、ギリシャ神話の復讐の女神「ネメシス」の名がつけられている。

ただし、この星はまだ発見には至らず天文学者が躍起になって探しているという。

 

その後もレトロウィルスやユダヤ教を源とする沙漠に派生した一神教の不寛容を論証し、

サル学からみた生物種の鬼子である人の進化へと。

今西進化論の棲み分け(ニッチ)へ注目する。

 

≫生物は争う代わりに空いた環境を探し、そのニッチに適合するように自分の身体を変えてゆく。

その意味では新しい種の誕生のきっかけとなるのは強い種ではなく弱い種の方だということになる。

つまり望ましい環境を他の種に奪われたものが、しかたなく居心地の悪い環境に進出して、

身体を変える試練を経た上で、そこを領土とするのだ≪

 

この現象は6千5百万年前に爬虫類から哺乳類へ交代劇が行われたように、

植物でも、松や杉の裸子植物からその他の私たちの周囲でみられる被子植物へと大きな変換が行われたようだ。

そして被子植物には本来、アルカロイド系の毒が含まれている。

その毒が比較的弱い花や果実に昆虫や鳥を誘き寄せることで被子植物は種を存続させるという戦略に成功した。

人の祖先であるサルは森の生き物だ。

サルは他の生き物が進出しなかった樹上をニッチとした。

被子植物の毒も少しづつ多種を食べ分けることで毒への耐性を得てきた。

そして安全なはずの森から草原へと踏み出した二足歩行のサルは、どうして地上の覇者と成り得たのか?

それは飛びぬけて脳の容量が大きいからでも道具を獲得したからでもない。

産まれたときから未熟である不完全な個体の人は、「文化」という生存のための手段を獲得したことで数々の困難を克服してきた。

都市という巣は、その文化によって住みやすい環境へ作り変えた典型だといえる。

 

さて最終章、「ゴドーを待ちながら」へ至る。

サミュエル・ベケットの、あまりにも有名な不条理劇へ導かれた最終章は、皆さん自身で読んでほしい。

微かな温もりを予感させるが辛い結末だ。

1993年当時の著者の心象は、そうだった。

新装版20年後の3・11 を経過した後の著者のあとがきは違う。

新装版の解説文を書いた重松清の最後に寄せられた言葉を置いておこう。

 

≫立ち止まらないことが希望だと池澤さんは新装版のあとがきに記した。

僕の知るかぎり、それは「希望」の最も美しい定義である≪

 

 

楽しい終末 (中公文庫)
池澤 夏樹
中央公論新社

 

 


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福島の子供たちの甲状腺異常 (ランスケ)
2012-08-31 09:32:45
今朝のネット配信から気になる記事が。
8/28付の河北日報の記事です。

http://www.kahoku.co.jp/news/2012/08/20120828t63029.htm

先日のNHKニュースでは、広野の中学校が再開された報道がありました。
やっぱり私が住人から聞いた発言通り、避難所から広野の中学校へ通い始めたのは3割にも満たない数の子供たちでした。
上記のニュースを見れば分かるように福島の18歳以下の子供たちの36%に甲状腺のしこりが見つかっているのです。
甲状腺癌は放射能の数値の低い場所へ移住すれば完治する可能性が高まると聞いています。
それなのに、わざわざ放射能の数値の高い広野へ子供たちを戻す親の気持ちが知れない?

もうひとつ気になるニュースは、新生児の障害が出産前に99%判明するというもの。
これで当分、日本の出生率は下降線を辿り続けるでしょうね。
返信する
やっぱり甲状腺異常が出できましたね (ホッホ)
2012-08-31 19:35:43
福島の18歳以下の子供たちの36%に甲状腺のしこりが見つかっている。
のニュースは28日にラジオで聞き、えー36%・・・。
高い数字に愕然としました。
何らかの理由で診察を受けれない、受けない場合は、
フクシマ・ハートの新生児が生まれる可能性が出てきますよね。
返信する
命の重さを、もう一度考えて (ランスケ)
2012-08-31 22:05:25
ホッホさん、早速の反応ありがとう。

先程までNHKのニュースで出産前の検査で新生児の障害が99%判るというアメリカからの新しい医療技術導入の是非を見ていました。
確かに、これが導入されると福島からの障害を持って産まれてくる新生児は、ほとんどいなくなります。
ホッホさんの懸念するフクシマハートは存在しないことなります。
でも、それは若い親たちにとって、生命の重さを突き付けられる究極の選択です。
誰だって、この選択は重過ぎるよ。
障害を持って生まれたからといって、その命を簡単に葬り去ることなんかできないよね。
これから福島や首都圏の若い親たちは、とんでもない選択を迫られることになります。

それからホッホさん、よく河北日報の記事を読んでほしい。
福島の36万人の18歳以下の子供たちの内、まだ3万8114人しか甲状腺の検査をしていない。
その内の1万3646人に甲状腺のしこりが見つかっているのです。
36%なんて安易な割合で判断しないでほしい。
これは、とんでもない数字です。
返信する
防災の日 (ランスケ)
2012-09-02 00:49:49
日付が変わったが昨日9/1は防災の日だった。
それに合わせてNHKで特集していた番組を観ていた。

面白い例えだったのが、人は確率の高い交通事故に自分が遭うとは考えないが、最も確率の低い宝くじには当たると考える。

さて地震や津波に対しての危機意識は、震災の生々しい映像を目の当りにしたので、みなさん真剣だ。
でも目に見えない原発事故の放射能汚染に対してはどうだろう?

あれほど問題になった周辺の病院や介護施設の避難や受け入れ態勢が真剣に準備されているとは思えない。
子供たちへのヨウ素剤配布にしても備蓄だけは沢山あったのに、肝心な時に配布されなかった。
http://www.minpo.jp/pub/topics/jishin2011/2012/03/post_3383.html

肝心な時に配布されなかったのだから、今回の福島の子供たちの甲状腺の検査結果は当然だと思う。

災害大国の日本では原発事故は起こる。
地震や津波と同じように原発事故が起きた場合の避難や受け入れ、放射線のモニタリング等が
防災の日に、話題にされないのが、とても不可思議だった。
返信する
南海トラフの最新被害想定 (ランスケ)
2012-09-03 13:30:03
読み終えた勢いで、そのまま書き上げてみて、やはり大事な部分が幾つも抜け落ちていると嘆息している。

ドストエフスキーの「悪霊」や「カラマーゾフの兄弟」における大審問官の記述については、やっぱり言及すべきであったと思う。

でも、まぁそれは好い。
今日、南海トラフの活動による最新の被害想定が発表された。
さすがに地震学者は、震災による失敗から総懺悔しただけに、巨大地震活動期における被害想定に真摯に向き合っている。
各自治体も、最新データに対して「もう想定外はありえない」と前向きな防災対策に言及する。
ただ唯一、それを「これは最悪の最悪の最悪の想定だと」躍起になって否定する自治体の長がいた。
愛媛県知事、中村時広だ。
大飯原発再稼働後、なんの検証も済まないのに逸早く伊方原発の再稼働を容認した張本人だ。

今回の想定で愛媛県内最大の津波が予想される伊方の21mを受けての発言だった。
あれほど震災後、「想定外はありえない」と災害大国である日本の危機管理能力の甘さを認識したはずなのに。
なぜ目の前に迫った危機に対応しようとしないのだろう?
あなたは、あの日本国民すべてを震撼とさせたカタストロフィーを、もう忘れたのか?
想定される地震に対して徹底対策を講ずれば被害は80%以上減災されるというではないか。
返信する
訂正 (ランスケ)
2012-09-03 13:47:53
今朝の新聞を見て??
昨夜のNHKローカルニュースでは伊方21mの津波想定と出ていたはず。
それなのに朝刊の伊方原発の津波想定は3m。

よくよく新聞を読むと、宇和海側に面した伊方町は、そのまま太平洋側で発生した(南海トラフの活動)地震と津波の影響をダイレクトに受けて21mという巨大津波となる。
しかし原発の立地する場所は、山の反対側の瀬戸内海に面している。
この地理的条件を私自身も失念していた。
なるほど、これで津波は1/7まで減殺されるらしい。
それで決して安心できるわけではないが、まずはホッとした。
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