皆様こんにちは
山三三ツ屋染舗の三ツ屋邦孝です。
修行二年目は後輩の指導も大変でしたが人手も多くたくさんの着物の処理が出来ました。
夏休みも例年の一週間と違い、二グループで前期と後期に分け一ヶ月もらう事が出来ました。
この年の札幌は大雨で豊平川の水量が増し堤防の三分の二くらいまであり、氾濫間近でした。
河川敷にあった自動車学校も水没していました。こんなに増水した事は経験した事がありませんでした。
当時の着物の洗いは丸洗いが主流になりつつある時期だったのでですが
両親が行っている家業の洗い張りの仕事を手伝い等して過ごしました。
やっぱり生まれ故郷の素晴らしさを感じました。
札幌は車の交通量も多く、空気もそれほど良くはありませんが、水も食べるものもとても美味しかった事を
思い出します。仕事の疑問に感じた事を両親に聞けた事もありとても充実した夏休みになりました。
夏休み明けがちょうどだんじり祭り後だったので、初めて母の実家の金沢に行きました。
母の実家は当時叔父(母の長兄)が農業をしていて、息子さん(従兄弟)が隣県で会社勤めをしながら
土日で、叔父の農作業を手伝っていました。叔父の家にお世話になりながら、となり近所が皆親戚同士なので
ご挨拶回りをしました。初めて叔母に兼六園を案内してもらいました。
兼六園は、日本三大名庭園の一つで金沢市の宝です。前田家の殿様は文化を推奨された方の為
金沢は文化の全てがとても素晴らしく、加賀友禅、牛首紬、能登上布 輪島塗り、九谷焼、山中漆器
金箔、仏壇他たくさんの伝統工芸品が揃いまさに伝統工芸の総合デパートや~と思います。
母の次兄が金沢の近江町市場の近くで柿市商店と言う八百屋を経営しています。
時々、初物の競りで、テレビの番組にも登場しています。柿市商店のHP http://www.kakiichi.co.jp/
柿市商店のご長男が加賀友禅の作家さんの柿本市郎先生です。
加賀染振興協会HPhttp://www.kagayuzen.or.jp/takumi.html
親戚のコネで普段見れない工房と地染の工場を見学させてもらいました。
工房の職人さんが一筆一筆真心を込め色差ししている事にとても感動した事を思い出します。
先日NHKの番組に出演されていて、懐かしくその時の事を思い出しました。
この時初めて叔父(母の次兄)に料亭に連れて行ってもらいました。
日本酒の美味さを知らない二十歳の若造が料亭に連れていってもらった事で
すっかり舞い上がっしまいました。「お飲み物は?」と聞かれ「水割り」と言ってしまい
叔父に笑われてしまいました。そこで叔父から日本酒の飲み方のレクチャーを受けました。
その時、生まれた初めて松茸の土瓶蒸しをご馳走になりあまりに美味しくて思わずおかわりまでしてしまいました。
多分人生で食べた中で一番美味しかったです。その後生まれて初めてのクラブにも連れって行ってもらいました。
そのクラブの中で、叔父は「こうゆう所でどんなに遊んでもいいけど、溺れてはだめだぞ」と教えてもらいました。
50代になっても「叔父さん大丈夫ですよ、クラブで飲める程甲斐性はないですから」と今は亡き叔父さんに言いたいです。
4~5日金沢で親戚一同にお世話になり、修行先に帰る日、親戚一族郎党が金沢駅まで見送りに来てくれました。
その数20名程皆さん沢山のお土産をいただきました。叔母の一人は5Kgはあると思える大きなタッパーに入った
粕漬けをもらったり、従兄弟は珍味を10袋程頂いたりして、キャスター付きのお土産袋を買いましたが、
入りきれない程のお土産をいただきました。
夏休み後に一人の後輩が、現在のレンタルビデオの走りのレンタルレコード店の事を知り
視察に行ってみると、とても儲かっている事を聞きつけてきました。レンタルレコードは確か奈良の学生により始まり、
自分たちが持っているレコードを学生相手に貸し出すビジネスです。
レンタルレコード店を開業するために修行を諦め、店を去って行きました。
彼は大学を中退して、仕事の修行に店に来て、修行に来ても真剣に仕事を覚えるでもなくする、
適当に日々を過ごし虫を捕まえ、薬品をかけて殺したりしていたのでだらけた態度に対して年齢は下ですが先輩として
少しきつく注意すると私と口を聞かなくなりました。
その後、聞いた話ですが、多額の設備投資をして、繁華街に出した、レンタルレコードの店は
従業員の給料位の売上しか上がらず、とても大変だった事を聞きました。
翌年先輩達も、卒業して一人は地元の秋田に帰り一人は店に残り修行を続けいました。
修行三年目、最終年に入り店に新人の住み込み研修生は、入って来ませんでした。
後輩二人も家庭の事情で帰郷帰しまい、店は私を含め三人の住み込みの研修生と師匠で運営していました。
接客、洗い場(ドライ)、しみ抜き、色掛け、仕上げ(プレス)、タオル洗い等で毎日、充実した日々を過ごしていました。
師匠が講習後に、講習生が技術習得が不十分と経験不足から、
黄変しみ抜き後にひどく強く色抜きをしている品物を、何枚を修復しました。
今でも記憶にあるのは、藤色の羽織の胸の汗の黄変しみですが4~5時間かけて色掛け修復するとし、
まだ下に黄変のしみがしっかり残っていた事もありました。この講習生の基礎が出来ていない事と
黄変抜きと色抜きと自分で行う色掛け技量とのの兼ね合いと経験不足を感じました。
他人の失敗した商品のほとんどは基礎がなっていない事と自分の色掛けの技量を知らずに黄変抜きと
その後の色抜きを無理する事、経験不足によるものがほとんどです。
自分では、あまりひどい失敗をして、師匠の世話になった事はありませんが、
一度だけどうして治らない物がありました。
濃いグレーの付下げで胸と上前の柄が鮮やかなワインレッドでした、接客は店の人がしましたが、
お客様はこのワインレッドの色が派手なので地味にして欲しいとの要望でした。
師匠が不在な時でした、受付した為にこの仕事が気になり先輩達に柄の色を抜く様に言ったのですが
先輩達は自分たちの色掛けの技量を考えて、色は抜きませんでした。
先輩達が断ったせいで、自分にお鉢が回って来ました。
柄の色抜きは本来、友禅糊を使用して、柄の他の部分に影響が出ないように
色抜きをしますが、当時の自分はまだ色掛けも初めたばかりの頃でまだよちよち歩きの
頃にいきなり100mを回りの大人より速く走れと要求された気分でした。
この着物は弁償しなければいけない思い、仕事が終わり師匠の家に謝罪に行きました。
晩酌中の師匠は「穴さえ開けなければ、なんとかなるので心配するな」と言っていました。
この言葉は本当に胸にしみました。この事が一番の思い出になりました。
店の修行も、いつの間にか三年が過ぎ去り無事卒業出来ました。
卒業に当たり、大阪に父が迎えに来てくれました。
伊丹空港まで父を迎えにいきました。
出口から出てきた父が少しですが小さく見えました。
本当は、仕事は、誠実にこなしていましたが、
店にいる時は、あまりお客様や師匠よりほとんど評価された事がなく
本当の意味での自信が無い事と立ち位置が解らないままに修行の卒業を迎えました。
これから家に帰った後の期待と不安を抱えて、帰路につきました。
仕事の事よりも人間関係で大きく傷つき、もう人に使われる事は懲り懲りと思いました。
今から思うとあの苦しい三年間は人生の宝物でどれほど人よりも恵まれていた事を神に感謝していますが。
卒業証書
着物のしみ抜きやお手入れでお困りな方や
洋服のしみやメンテナンスでお困りな方は
厚生労働大臣認定一級染色補正技能士のいる
山三 三ツ屋染舗を是非ご用命下さい。
〒062-0902
札幌市豊平区豊平2条2丁目2番20号
電話011-811-6926 FAX011-811-7126
メール mitsuyasenpo@train.ocn.ne.jp
ホームページ http://328senpo.sakura.ne.jp
営業時間 平日(月曜~土曜) 午前8時~午後6時
休日 日曜 祝日
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