夜汽車

夜更けの妄想が車窓を過ぎる

持てる者はさらに与えられ持たざる者はさらに奪われる

2015年09月23日 12時09分46秒 | 日記
隣のバアさんが『ハゲでも3500円ヒッツヒッツヒ』と笑ったことがあったっけ。禿げ頭はしょっちゅう散髪しないと見苦しくなる。一方髪の毛が多ければあまり頻度多く散髪しなくてもさほど目立たない・・・まあ、持たざる者ほど奪われる。

冗談はさて置いて『持てる者はさらに与えられ持たざる者はさらに奪われる』とイエスさんは言った。今日の博愛主義者にとっては心外な意見である。が、これが宇宙の原理である。自分を振り返って考えてみればすぐわかる。

不平たらたら、口を開けば意図せずして不平不満がカエルのように跳びだす人、誰かに敵意を持っている人、みんな暗く貧しい人生を送っている。その人がホトケさんのようにいい人、善良な人であっても、だ。次から次に大小さまざまな不幸不如意に恵まれる。

一方自分はシアワセだ、と思って生きて居る人は何故かだんだん幸せになってくる、少なくともそれが持続している。

『もし・・・・ならアタシハシアワセなんだけど』と幸せの条件を言う人も幸せには巡り逢わない。 その・・・・が『足りない』と言う『しつこい観念』が『実現』する。求めない、拘らない、掴まない、幸せになりたければ幸せになりたいと言う思いを捨てる!

あなたが持っている想念は隠しておけない、それは全宇宙に波動として出て行き、同類の波動を連れてあなたのところに戻ってくる。

だから三つ児の魂百まで、と言うのだ。生まれて幼児期を幸せに過ごした人は幸せの観念しかない。持たない観念は発しようがないから同類が返ってもこない。

こう考えるとある家族、民族、ある地域がどういうわけかいつもうまく行かない理由が薄々解る。

20年間引き籠りであった長男の話

2015年09月23日 09時41分25秒 | 日記
日本語では、主体や状況設定なしで文が作れる。
しかし英語では、主語と状況設定がなければ動詞が決まら
ず、何も言えない。
このことで、日本人が全体性に生きていることがよくわかる。
新しい時代の王になり得る。
つまり、全体の存在、そして自分も全体の一部であることが
最初から前提になっている点が、日本語の特徴のような気が
する。
十年前、本の十ページくらいを選び五十回くらい音読した。
頭のいいやつは、同じ文章が出てこない限り役に立たない
じゃないかと言うに違いない。もし単なる記号ならそうだろう。
しかし単なる記号と違い、身についた端から自分で判断力を
発揮しはじめるんだ。
そして言葉や言語は生命と意志をもっているという不気味な
事実を感じはじめることになる。
もっといえば想念が霊界で言葉が三次元に現れたものだね。
だとすれば、言語によって霊界が区切られているのかも知れない。


昔の話

2015年09月23日 09時27分04秒 | 日記
 夏の日が暮れて夕涼みをしていると、遠くから箒で道を掃く音が近付いてくる。そして、『ごめんなさいまじないけ来もした(お邪魔に上がりました)』と、山の上の方に、どこかの同居人或いは居候と言う塩梅で暮らしている老女がやってくる。少し足りない、まあ、麦の穂というところか。箒で道を掃きながら歩いて来るのは暗くてマムシを踏むかもしれないからだ。こうして取りとめもないおしゃべりをして夜更けに戻って行く。川向こうには少し足りない若者も居た。しかし誰も自立だとか就職だとか言って彼を急き立てている気配はなかった。夜が明けて日が昇り日が沈むように生きていた。家族、或いは親戚、そしてもしかしたらただの隣人、当たり前のように一緒になって暮らしていた。保険も年金もない、そういう貧乏くさいものは一切ない、窮屈な取決めもない、現金収入がないから普段着は粗末だけどみなそれを気にも留めない。満足して生きていたし飢えて死んだと言うことも聞かなかった。
一日は長かった。流れで野菜を洗い、川でえびを掬い、瀬でハヤを釣り、梅雨時に増水するとカニを取った。ざるに味噌玉を置いて晒しの布を被せ、穴を開けて川に沈めておけば魚が入った。学校帰りにハヤを釣って帰る先生、日のあるうちは水浴びや蝉取りに駆け回り日が暮れると七夕飾りを作ったり蛍を見に行ったりした。年金、保険、就職、就業、派遣労働、延命措置、権利、義務、差別用語、こんな貧しい言葉に囲まれ窮屈に生きて何が楽しいのか?日が昇り雲が渡りそして日が沈むように生きて死ぬ、皆で喜び皆で悲しみ、みんなで笑い、順番に死ぬ、死ぬと言っても要するに異なる次元の世界に移動するだけで、この世と交渉は無くなるにしても別の世でそれなりに生きるだけだ。全ての物事を耶祖なる神の意向に沿うか沿わないか、で切り分け、愛だの人権だの博愛だの友愛だの慈善だの奉仕だの介護がどうてろこうてろ、あらゆる物事を言葉にしなければ理解できない者共はそれによって月に行けたのかもしれないがそれによって手中にあった月を失った。アホじゃなかろか

たまたま偶然に記事を読まれた方に深謝!

2015年09月23日 09時08分30秒 | 日記
団塊世代の前の世代で、電子機器の扱いに極めて幼稚なんです。『メール?!どこに切手を貼るんじゃ?』と言うキャッチコピーがあったようですがまさにその類。今は『アカウント』って何?

と言うわけでコメント下さってもまともに返事を書けないと思う。それで、まさかコメントは来てないよな?!とビクビクしています。悪しからず。

一方、今の人々が良く知らない言葉は知っている、例えば・・・
十能、五徳、チキリ、プンキ、モッコ、カマス、チョウナ、ショケ(これは薩摩方言かもしれない)、タンゴ、それから、エート、急に出て来ない。

エート、で思い出した・・・郷里の大先輩が・・・と言っても血縁なんだが、明治時代にロシアに留学した。途中イギリスに立ち寄ったリバプールの港から汽車に乗ろうとして駅窓口で『ツー ロンドン』と言ったら切符が2枚出て来た。慌てて『ノー! フォー ロンドン』と言ったら4枚出て来た。困り果てて『エート・・・』と言ったら八枚出て来た。

彼はロシアで勉強しはしたがトルストイにかぶれてしまって郷里に戻ったら中央に出て活躍すると思いきやトーフ屋になって一生を終えた。実に下らん!