夜汽車

夜更けの妄想が車窓を過ぎる

母親としての妻を観る

2015年09月25日 11時26分55秒 | 日記
たらちねの 母が吊りたるアオガヤを すがしとい寝つ たるみたれども・・・確か長塚節じゃなかったかな?

女は子供を産み育てると言う大切な役割を負わされているが故に能力の大きな部分をそちらに振り向けられている。従って諸君、君たちが長じてカシコクなってエラクなって、もしかして母親を愚か、或は煩わしい、乃至は疎ましい、と内心思っても黙っていなければならない。安直に苦情を言う、非難する、ようなことがあってはならない。それが男子たるものの在るべき姿である。これは高等学校の生物学の先生の講義である。今日のサプリメント学習、カロリーメイト学習の教師にこんなことが言えるものか。だからくだらない学生が出て来るんだよ。

私思うにこれがまた夫たる者のあるべき姿でもあろう。女の空間は住んで居る地域と交友関係、職場、時間は今日プラスマイナス一週間程度。しかし侮るなかれ、現実感覚は男など思いも及ばない。一方男の時間は短くても今日プラスマイナス10年、長いと人類史全体、空間は宇宙全域。しかしこれがはじけるとバクチに身を亡ぼしたり糸の切れた凧みたいになる。

私も若い頃は妻を『おんな』として見ていた。しかし次第に『人』として見るようになった。これはどういうことかと言うと、結婚前の状態に戻った。肩が凝るらしいので肩叩きはするがそれ以外では離れている。丁寧語を使うようになった、名前で呼ぶようになった、等。

息子たちが結婚した今、母親として見るようにもなった。

息子達、解っているか、君たちの母親はどんなに仕事が忙しくとも昼には必ず帰って来て君たちに食事の準備をした。手を抜いた事が一日もない。これはエキセントリックな性格の姑である私の母も褒めていた。今は紙オムツだが昔は浴衣の使い古しを使ったものだ。いちいち洗濯し、取り換えた。熱を出したと言えば寝ずに見守った。君たちに授乳しながら居眠りして後ろにひっくりかえりそうになりその度に君たちはワッと声を上げて怒った。

今君たちの母親は君たちが小さな子供、少年、であった頃の思い出に生きている。君たちを喜ばそうと車に乗ってあちこち駆け回り喜びそうなものを探してくる。自転車に乗ってそこいらを駆け回っていた少年の姿が脳裏にあるのだ。

私はそれを見て自分が如何に冷淡で浅はかな息子であったかを思い知る、匕首で胸を抉られるようだ。いつだったか、遊びに行った帰りがけに道端のアカシヤの白い花を摘んで母に渡したことがあった。その時の嬉しそうな顔を忘れられない。

息子達、私が言外に言おうとすることを賢く推察したまえ。

人は死んだらどうなるか

2015年09月25日 08時54分00秒 | 日記
 2012年12月に書いた事柄『時間の概念』が閃いた。旧約誓書を読んでいるとどうも、人が死ぬことを眠る(安息)と言っているようだ。例えばダニエル書の最後には『汝終わりに進み行け、汝は安息に入り日の終わりに至り起(たち)て汝の分を受けん』とある。聖書では仕事を終えて休むことを安息と言っている。
 経験によってシナプス結合が強化されたり伸張することは犬やネコ、霊長類にあるかもしれない。しかしそれは単なる反射行動のための記憶ではあっても蓄積して新たな行動様式を編み出す記憶ではない。もし動物がそう言った能力を持っているならば動物も”経験によって計画的”に行動するはずである。結局、経験が蓄積され、そこから新たな行動様式を編み出す生き物は人間しかいない。ここに時間の概念が介在する。他は時間の概念を持たない三次元の生き物である。
 時間軸上に無い記憶の想起様式とは”犬の記憶・・・帰宅したあなたを見て”ああ、そうだった、うちの次郎さんだった!”と”思い出す記憶”だろう。当の犬はあなたが不在の間、あなたを覚えていない、知らない、飼い主と言う概念もない。
 もし人間の記憶がこの犬同様に”時間というタグがついていない記憶”であれば”事態に遭遇するまで引き出せない”、よって計画しての行動は有り得ない。この”時間の概念”がエデンにあったと言われている”知恵の樹”、知恵と言う実が成る樹だと私は考えている。
 時間の概念さえなければ四苦八苦、煩悩などというものは一切ない。人は”瞬間””刹那”にしか生きない三次元の存在となる。偶然に遭遇するかもしれない災害や事故などの概念も起こらない、”苦”とは何か?”痛みとはどういうものか?”さえも知らない、あるのは刻々遭遇する事態でしかない。
 しかしそれでは”地を従わせる”ことは出来なかった。人間を地球の管理者にしたからには想起し、推論し、計画し、実行し、検証し、経験を資料化する能力、一言で言えば管理能力が、別の言い方をすれば時間の概念を付与することが必要であった、それがエデンに”知恵の樹”があった、と言うことの意味である。しかしその実を食べることはその能力を地を治める目的ではなく、自分自身を治める為に使うことになり、既に準備されている”万全”を拒否し、それから離れることにしかならなかった。
 つまり人は『神』から離れた、別次元に移行した。だから人類は今『神』を見ない、見えない、次元が違うから。人は自分自身の生存に関しては三次元の生きものであるほうが幸せだった。それが東洋で言う”放下”であり”無一物中無尽蔵”、また”計らわない生き方”となる。
 私は人の実態が『念』だと思っている。それは実体を持たないが故に宇宙に無限に存在する。その念がこの地上世界なる場の原理によって形を現しているのが見える姿で存在する人である。もう少し別の表現をしよう・・・コンピュータは様々の部品で構成されている。しかしそれだけでは役に立たない。ここにそれらの部品を有機的に働かせるオペレーションシステムやソフトウェアと言われる『見えない』仕組みを組み込んで初めてコンピュータであると言える。しかしそれでも足りない、電源を入れて漸くそれは動く。
 神は、或は宇宙の法則は土塊、つまり物質によってアダム(土から出来た存在)を構成した。その一つを宇宙空間に存在する念が選んで自らをプレ・インストールした・・・母親の胎内で減数分裂が起り始めたどこかの時点ではなかろうか。これが人間と呼ばれる魂である。神がそこに命の息を吹き込んで、つまり電源を入れて人は『生きた魂』になった。
 いわば見える、もの言う人とはその物質肉体にプレ・インストールされた念が三次元世界で使うインターフェイスのようなものだ。この機械が壊れる時、つまり病気や事故によって機能しなくなるとき・・・『もう使えない』と悟った念はそこを離れる・・・つまり死である。すると、その念から時間のタグが外れる。永遠イクオール瞬間になる。

かくして多くの人が今『安息』にある。彼ら彼女らに時間の概念はない。『日の終わる時』、彼ら彼女らは新しいハードウェアにインストールされるか、或は別の形で『目を覚まさせられる』・・・千年の眠り?そんな概念はない。昨日いつもより気分が悪くて、それから・・・??地球ってこんなに美しかったっけ?周りの人はこんなに優しかったっけ?

肉体を捨てた『念』は時間のタグが外れる、永遠イクオール瞬間となる、・・・すると、もしかして一旦死んで蘇った人が死後の世界は美しかった、と言うのは聖書言うところの『日の終わり』を垣間見る時間旅行をしたのかもしれない。さらに、こうも言える・・・肉体を離れた念は永遠を瞬間に飛び越える、千年も、百年も、彼、彼女にとって『日の終わり』とは『今』である。ウーム??!!


直観が落ちる前にと急いで書いたので少し詰めが甘いような気がするがとりあえずの覚えの為に。