夜汽車

夜更けの妄想が車窓を過ぎる

日本の政治家・官僚の必須条件

2015年09月22日 13時10分04秒 | 日記
『萬世一系の天皇』を戴くと言う概念がどこから来たか、何故そこに意味があるか、何故それを護らんが為に戦争『犯罪人』の汚名を甘んじて着た人々が居たか、等々の事柄を明確に認識していることが必須条件である。

私はそれを知っている。故に偏狭なレイシストである。しかし”あなた方の中に在ってあなた方とともに歩むことを喜んでいる異国の人々に冷たくあってはならない”との神の戒めは心得ている。

過失に対して聖書の神は優しい、しかし意図した悪については全く容赦されない。ヨナを通じての神の警告に衝撃を受けて行いを改めたアッシリアのニネベの人々の懲罰を神は控えた。しかし僭越なコラは一族共々火で焼かれた、欲に目が眩んで神の法を冒したアカンは一族諸共地割れに飲み込まれた。人としてあるまじき行為を行い続けたソドム、ゴモラは天から降った火で焼却された。

意図した悪を邪悪と言う。これに神の容赦は一切ない。今日、その恐れある人々が結構居るね。・・・神の栄光が表わされる為にそれらは今しばらく留め置かれる。


杖ユダを離れず。王杓その脚の間を離れることなくしてシロの来る時にまで到らん・・・創世記の最終章



Sh'ma Yis'ra'eil Adonai Eloheimu, Adonai echad.

私自身について

2015年09月22日 08時41分54秒 | 日記
先祖は京の都人か或は佐渡島の出身で、神主。貞観元年に京の都に宇佐八幡宮を勧請して石清水八幡宮が創建された際にその神領荘園の管理人として肥後国に来た。以来肥後に土着したから骨の髄まで肥後人である。

肥後人と言うのはラフカディオ・ハーンが書いているように日本で最も扱いにくい人々であるらしい。人から指図されることを嫌う、天邪鬼である、皮肉屋である、・・・コロッケを見ていて肥後人なればこそ!と思う。あれは基本的にはオチョクッテいるのである。

薩摩人は少し違う。肥後のクワガタ薩摩の大提灯と言うが薩摩人には肥後人のような皮肉屋は居ない。キミマロの笑いはコロッケの提供する笑いとは大分違う。どちらかと言えば相手の懐に飛び込んで一緒に笑う感じだ。

私はその肥後と薩摩のハイブリッドだ。血は肥後だが薩摩の風土の中で成長した。薩摩人は内心肥後人を馬鹿にしている・・・大事な明治維新の時に議論ばかりしていて何も行動しなかったじゃないか、と言うわけだ。肥後人は内心薩摩人を馬鹿にしている・・・何の文化的遺産資産もないじゃないか、と。そうである、肥後細川藩、相良藩、雅な文化を継承して今に到る・・・ユーチューブでザ・わらべを見るがいい、とても薩摩人の及ぶところではない。徳川幕府に対する敵愾心のみに生きた薩摩とは違う。でも、出処進退の潔さを的に生きた薩摩人に私は魅力を感じる。『もうこうなれば致し方ない、オイが命をオハンタチに上げよう』と西南の役を起こした西郷隆盛を薩摩人が慕うのはそこである。まさに相手の懐に飛び込んで心臓を掴む、その捨て身の潔さ。これが時代を動かすのだ。

ただ、両者の共通点がひとつある。薩摩人は学問だけの人間を”聖人”と言って小ばかにする。肥後人は少し違うものの”横井の平四郎さん実学なさる、学に虚実があるものか”と皮肉る。同じ九州で全く違うのが佐賀である。カミソリのような怜悧と緻密、江藤新平はその典型だろう。武士道とは死ぬことと見つけたり、はまさに真理ではあるのだが。鍋島家は藩の子弟の学問の成績が悪いと家禄を召し上げたと言う。だから明治になると”誰がこんなところに居るか!”と言ってみな東京に行ってしまったらしい。

我が家の本家は終戦時に新聞記者として満州に居た。やってきたソ連軍の言う事を聞かずに殺されてしまった。父は台湾で教師をしていた。シナがやって来て朝礼の際、日章旗でなく青天白日旗が掲揚されるのが気に入らず後ろを向いていた。殺してしまおうと殺気立つ中で以前面倒見た台湾人たちが八方周旋、難を逃れてクビ、台湾人の経営する豆腐屋に就職、自転車に豆腐の水槽を積んでの馴れない売り歩きにひっくり返って一巻の終わり。

あの時の職業軍人に対する百姓根性日本人の卑劣な扱い

2015年09月22日 08時03分16秒 | 日記
自分はそう思っている。身内に職業軍人は沢山居た。明治になって廃藩置県、殿さまは居なくなり、かつての郷士も田地田畑はあっても現金収入はない。子供たちに財産を分ければ誰も立ち行かなくなる。従って長男に総てを譲る、次男以下は学問や技能を身に着けて生きるしかない。当時、官費で勉強するには兵学校、士官学校、師範学校などがすぐに思いつく進路としてあった。

祖父は師範学校、祖父の兄弟は士官学校に進んだ。一人は美術学校に行きたかったが父親が学費を出せなかったので士官学校に進んだ。みんな真面目に職務に精励して、祖父は朝鮮に小学教師として派遣される際、朝鮮人の子供たちに朝鮮語を教える為に諺文というものを勉強した、と言っていた。朝鮮の次に台湾に派遣されてそこで終わった。退職後は中国人経営の福大公司と言う会社で事務をやっていた。

祖父の兄は熱河城作戦自動車部隊の指揮官だった。祖父の最年少の弟・・・美術学校に入りたいと言った人・・・は隼戦闘機のパイロットだった。

祖母の兄は陸軍航空技術研究所の何科か忘れたが科長だった。いずれも終戦当時は佐官、将官だったので戦死と言う場面には遭遇しなかったようだが復員後の生活は惨憺たるものだった。昨日まで軍人さん軍人さんと、もてはやした国民が今日は手のひらを返したようになって『公職追放』にしてしまった。

生き残ったのは教師になっていた祖父のみで後は昭和30年代まで生きなかった。戦争当時の無理で体を傷めており、一人は鹿児島方言で”ドモを見て”・・・つまり呆けて、一人は肺がんで、一人は長く戦地にあった為に家族の愛薄く、郷里に戻って幽霊屋敷との曰く付きの家に住んで孤独のまま亡くなった。私はこの大叔父が大好きだった、”いいじゃないか、勇ましい絵を描くじゃないか”と励ましてくれたりした。

少なくともこれらの大叔父たちは職務に忠実に全力を尽くした。にもかかわらず一般大衆は『国を誤ったのはこれら軍人の責任』として昨日まで『勝った勝ったまた勝った』とちょうちん行列したものがそ知らぬ顔をしてこれを嬲り者に扱い

そして言わせてもらおう・・・今またかつての日本を悪の権化の如く言うではないか!卑怯なり。だからシナ・朝鮮に舐められたのだ。