それを生業の具として扱う者総て、嫌いになった。
禁じられた遊びが大フリークしたあの時代にミーハー根性丸出しでギターに跳びついた。以来、数十年の中断があったが今もやっている。正直、人生いいこと無かったがギターが弾けたと言う事は冷汗三斗の恥多い人生、家族に対する悔いの残る人生の唯一の救いである。
でもこの世界が嫌いだ。ギター専門ショップやその関係者の話を読めば、値数百万の外国人製作家の作ったギターでなければギターではない。・・・その言外の意味は、そう、彼らが【量産品】と言う文言で暗に蔑んでいる楽器ではまともな音楽は出来ない、と言う事だ。これは限られた予算を懸命に都合して買ったギターで多忙な毎日の隙間の時間を見つけて【本来の人生、人としての本当の生活】に対する【飢え】を満たそうとする者達に後足で砂をかける行為に等しい。有り余る時間、有り余る金銭でギターやリュートを習いに行く、私はその傲慢が嫌いだ。人である限りそのような生活への欲求はある、それを叶える事が出来る人も居よう、すればいい。だが公言することは傲慢だ。
そういう楽器を買える人々は医師とか高校の先生が多いようだ。負け惜しみだが私だって買おうと思えば買えた。しかし何ら生産性のない単なる趣味、慰みの為に、如何に家族の生計を支えている身とは言え、【傲慢】であるとの観念を払拭できなかった。
演奏家とか先生とか称する人々には申し訳ないが、皆さんの演奏に全然感動しない。大体、ギター曲そのものに心を奪うものが少ない。アルハンブラの想い出が何故そんなに有難いのか分からない。ソルだとかジュリアーニだとか言う作曲家の曲の何がいいのかわからない。さらに先生とか演奏家とか言う人々の演奏を聴いて【ただ楽譜をなぞっているだけだ】としか思わない。
ひとつには【真の芸術】と【豊かな生活】は両立しないからだろう。モジリアニもシューベルトも貧乏だった。ゴッホもベートーベンもショパンも。カネに飽かして高価な楽器を手に、暇人相手にレッスンだの演奏だのする世界から価値ある何ものも出てこない。であれば存在意義はない。