字をよく見て見ればよい、【芸】と【術】だ。
【芸】は【草冠】に【云】で構成されている。【云】は元々【雲】の古字であり、人が言葉を発するのは雲に似ている、と言うわけで言うを云うとも書くようになった。さらに、【芸】の象形文字は人が樹を植える形をしている。
【芸術】とは元々は【樹を植える術】。ところで【樹を植える】のは人間の根本的な性分、本来備わった性質・・・【あなた自身を表現する術】が芸術。
誰でも【自分自身を表現したい欲求】を持っているが悲しいかなその【術】を習得するのは結構な努力が要る。例えば、料理のイメージがあっても包丁の技がなければ出来ない。
しかし思うに、特に今日、日本で、芸術の芸が忘れられて【術】のみが大手を振ってのし歩いている。最も分かりやすいのは油絵だ。【マチエール】とか称して汚たならしい凸凹画面に汚たならしい色でイヤラシイオゾマシイ形象などを描いてなにやら【⁂¥<=なるもの】を【表現している】などと言う。芸術を個人的思想と言うチンケなものの道具にする。そして私の絵は号の××××円などと言う。
モジリアニもゴッホも超貧乏だった、絵は売れなかった、売れないのに売れないものを描き続けた。シャガールは牛小屋だの農家だのの絵ばかり描いていた・・・生まれ育ったユダヤ系の村、そこの生活に拘り続けたのだろう。ピカソはへんてこな横顔か正面画か分からんような女の絵を描いたりしていた・・・あれはアソビだったと思う。小川芋銭は芋が買えるほどの銭でもあればと、牛久沼のほとりでキツネの嫁入りや河童の絵を描き続けた。田中一村は房総の家を売り払って奄美に移住し、芭蕉布の織子をして生活しながら今迄に知られていなかった日本画を描いた。みな【拘りの自分、自己への執念】があった。
ゴッホの絵を透かして見るとゴッホ自身が見える、モジリアニ然り、ミロ然り、田中一村も小川芋銭も。
憧れのベートーベンに漸くにして会えたワグナーにベートーベンは言った、『作曲で生活したいならガボットを書きなさい』。ワグナーはそれを嫌った・・・『自分は生活の為に音楽をやっているのではない,音楽が好きだからやっているのだ』
私は勘違いしているのかもしれない、・・陶磁器と言うものは【生業の為に造る】のであってそこに芸術を探すのは大間違いかもしれない。でも、でも・・・
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