これらの【根】は同じだと考えている。私があのカルト、ものみの塔に引き込まれた動機は粗末な紙に印刷された小さな挿絵、【森の小川の傍で煮炊きしている二人、そこから歩み去る二人】を見たからだ。それに強く心惹かれた。『こんな世界に生きたい!』
開高 健 氏は言う・・『食は地面に近い方が美味い』。野外でバーベキューを嫌いな人は居ないだろう。
人々が『現代社会でそれを言っては生活が成り立たない』として無意識の底に封じている【密かな欲求】、それは【時間と社会通念】に拘束されない人生ではないか?私自信は成育歴からコチコチの【時間・社会通念】厳守人間だったが本当はあのスウェン・ヘディンのような放浪・探検が好きだった。・・放浪癖のない男なんて、魅力ないな。
表題に挙げた現代に多く見られる現象はその、【今までは仕方なく封じていた】無意識の欲求が噴出したもの、現在進行中(と考えている)のハルマゲドンが終了して立ち現われる世界を予見しているのかもしれない。
その世界では人々は貨幣に縛られない、・・・創世の神はエデンで人に言った、『あなたは園のどの樹から取って食べてもよい』・・つまり【生存の為の闘い】と言う概念はなかった。それが起きたのはエデンを追い出されてからである。
ニート、ひきこもりと言う現象はもしかしたら【貨幣】とか【経済社会】とか【社会通念】なるものの【いかがわしさ】に無意識が反感を持って前頭葉冷静論理思考を越えて本来欲求を主張し始めているのかもしれない。サラリーマン時代の預金を原資にして土地を買い、小屋を建てて自給生活を始める若者も居るらしいがこれなどはひきこもりの【陽】の姿かもしれない。
世間は【少子高齢化】を嘆き憂慮するが私は少しも気にしていない。大体それを憂慮するその心底は【経済】が成り立たなくなるのではないか?との危惧であろう。この同じ現象象限にあるのが【結婚したがらない男女】だろうがこれもどうやら【新世界】を予見乃至先取りしているのではないか?と思う。
今、人々が当然と思っている社会通念、・・・学校出て、就職して、あくせくでも何とか働き、帰宅前に居酒屋で仲間と愚痴を言い合い、給料を得て、まあまあのところで妥協して結婚し、子供を成し、人生を売って家を建てて、それなりに昇進出世して・・・と言う在り方はもう間もなく瓦解するのではないか?
森の中に、或は海辺に、極小住宅が散在し、人々は思い思いに畑を耕し、或は牛を飼い、或は什器備品を造り、或は絵を描き、或は織物を作り、或は楽器を演奏し、・・・それらを必要に応じて交換し合う、と言うような世界が登場するのかもしれない。実際、中世ヨーロッパでは例えば仕立て職人は何処かの家に逗留し、そこの家族の為に仕立物をし、それが済んだらまた次の家にと歩いたらしい。大らかな世界!ヘルマン・ヘッセの【クヌルプ】、ノヴァーリスの【青い花】、ソローの【森の生活】、ゴールズワージーの【apple tree】などにその微かな記憶が残っている。
新幹線も宇宙ロケットも偉業ではあるが【人の真の幸せ】とは関係ないものである。これらは無くなるかもしれないが私個人は惜しいとは思わない。
もし仮にそのような世界に生き残る事が出来たならば、やりたい事は【吟遊詩人】である。
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