”手付かずの自然”と言う言葉がある。それを求めて、その中に浸りたくて人は重い荷を担いで山に行く。或いは、職を捨てて田舎暮らしを始める。梶井基次郎は”冬の日”の中で”壮大な夕日を見たい”と言って肺結核の疲れやすく熱っぽい体を引き摺って街中の路地を上へ上へと歩いた。
これは人の心の底に眠る飢え、衝動であろう。水平線に沈む夕日に感嘆し、空を渡る雲に、木立を過る風に慰めを見る。何故そのような飢え、衝動があるのか?
人がガイアと呼ぶこの地球、地球上から見上げる天体は、実は”あるもの”がその実態を顕している、表現している、姿なのだ。その”あるもの”を人は仮に”神”と呼んだ。星空を見て、日の出、夕焼けを見て、空や雲、森や林、山々を見て、風を、流れを聞いて、その”あるもの”が人にどのような念波を送っているかを感じ、それを”愛”とも表現する。
同時に人は、はっきり意識しないが自分もまた実際はその”あるもの”の表現の姿であると感じる。だからこの世での命が残り少ないと思うほど、壮大な夕日を見たい、波の音を聞きたい、と思う、飢える。回帰の想いが過るのだ。
人は精密なロボット、アンドロイドとしてこの地上世界に生まれ出る。その行動を律する様々な条件が無意識と言う、謂わばROMのような形式に書き込まれている。生育、成長の過程でこのアンドロイドは経験や情報を顕在意識と言う例えればアプリケーションソフトのダウンロードのような形で蓄積し始める。これが人の実体であり、それらを動かすオペレーションシステム、と電源に相当する”命の息”によって動作し始める。時としてアプリケーションに不具合が生じる。顕在意識と無意識に矛盾が起こったりする。これが我々が経験している生き難い世界である。
言い方を少し変えて見よう。アンドロイドに過ぎないものがその存在意義達成の為に埋め込まれた無意識や生育成長の過程で書き込まれた顕在意識によって”自主性”を持って生存生活していると”勘違い”している、それが人間である。本質は”ガイアの一部”、犬、猫、雲、山、海、樹木、草花などの形に自らを表現してその実態を暗示している何ものかの、その表象である。創世紀にはその事を”我々の形に似せて人を創ろう”と書いてある。
故に人は本来的に美しく且つ完全に現象化したものなのだ。そこに何者かが割り込みをかけた・・・”この木の実を食べると賢くなる”と、・・・その言わんとする意味は、あなたには何かが”不足している”だった。バグがダウンロードされたのだ。しかもこれはどうやらオペレーションシステムに介入した。このバグがアンドロイドを誤動作させ始めた、これが人類が経験して来た躓きの原因である。”不足”の想いが”不足そのもの”を現象化させた。思念が形を現すのがこの地上世界の場の力学だから。
壮大な夕日、水平線に昇る朝日、満天の星、風のささやき、草原の輝き、猫の跳躍、ボールを追って走る犬、に何か欠けるものがあろうか?今、現在、この瞬間、欠けているものは何もない。イエス・キリストは言った、”天の父はあなたがたがこれらのものを必要としていることをご存知なのである”。その言葉は今も宇宙に響いている。
アンドロイドがエイリアンを恐れて武器を持ち、不安と焦燥に駆られながら出口の見つからない果てしない迷路をあちこちと駆け回る、・・・それが人間だ。しかし事実はそのゲームをやっている何かが存在する。万事窮す、となった時、アンドロイドは武器を捨てて座り込む。しかし終わったわけではない。ここに至って始めてゲームをやっている存在が介入し始める。この状況を仏教では”放下”と言う。”エゴ”、”自我”の放棄である。
そして”これこそ人間の本来の姿である”と悟った人の生きる姿が”ただ愛である”と表現されるものであろう。
これは人の心の底に眠る飢え、衝動であろう。水平線に沈む夕日に感嘆し、空を渡る雲に、木立を過る風に慰めを見る。何故そのような飢え、衝動があるのか?
人がガイアと呼ぶこの地球、地球上から見上げる天体は、実は”あるもの”がその実態を顕している、表現している、姿なのだ。その”あるもの”を人は仮に”神”と呼んだ。星空を見て、日の出、夕焼けを見て、空や雲、森や林、山々を見て、風を、流れを聞いて、その”あるもの”が人にどのような念波を送っているかを感じ、それを”愛”とも表現する。
同時に人は、はっきり意識しないが自分もまた実際はその”あるもの”の表現の姿であると感じる。だからこの世での命が残り少ないと思うほど、壮大な夕日を見たい、波の音を聞きたい、と思う、飢える。回帰の想いが過るのだ。
人は精密なロボット、アンドロイドとしてこの地上世界に生まれ出る。その行動を律する様々な条件が無意識と言う、謂わばROMのような形式に書き込まれている。生育、成長の過程でこのアンドロイドは経験や情報を顕在意識と言う例えればアプリケーションソフトのダウンロードのような形で蓄積し始める。これが人の実体であり、それらを動かすオペレーションシステム、と電源に相当する”命の息”によって動作し始める。時としてアプリケーションに不具合が生じる。顕在意識と無意識に矛盾が起こったりする。これが我々が経験している生き難い世界である。
言い方を少し変えて見よう。アンドロイドに過ぎないものがその存在意義達成の為に埋め込まれた無意識や生育成長の過程で書き込まれた顕在意識によって”自主性”を持って生存生活していると”勘違い”している、それが人間である。本質は”ガイアの一部”、犬、猫、雲、山、海、樹木、草花などの形に自らを表現してその実態を暗示している何ものかの、その表象である。創世紀にはその事を”我々の形に似せて人を創ろう”と書いてある。
故に人は本来的に美しく且つ完全に現象化したものなのだ。そこに何者かが割り込みをかけた・・・”この木の実を食べると賢くなる”と、・・・その言わんとする意味は、あなたには何かが”不足している”だった。バグがダウンロードされたのだ。しかもこれはどうやらオペレーションシステムに介入した。このバグがアンドロイドを誤動作させ始めた、これが人類が経験して来た躓きの原因である。”不足”の想いが”不足そのもの”を現象化させた。思念が形を現すのがこの地上世界の場の力学だから。
壮大な夕日、水平線に昇る朝日、満天の星、風のささやき、草原の輝き、猫の跳躍、ボールを追って走る犬、に何か欠けるものがあろうか?今、現在、この瞬間、欠けているものは何もない。イエス・キリストは言った、”天の父はあなたがたがこれらのものを必要としていることをご存知なのである”。その言葉は今も宇宙に響いている。
アンドロイドがエイリアンを恐れて武器を持ち、不安と焦燥に駆られながら出口の見つからない果てしない迷路をあちこちと駆け回る、・・・それが人間だ。しかし事実はそのゲームをやっている何かが存在する。万事窮す、となった時、アンドロイドは武器を捨てて座り込む。しかし終わったわけではない。ここに至って始めてゲームをやっている存在が介入し始める。この状況を仏教では”放下”と言う。”エゴ”、”自我”の放棄である。
そして”これこそ人間の本来の姿である”と悟った人の生きる姿が”ただ愛である”と表現されるものであろう。