現在住んで居る処の産土神は祝主神と仰る。約二千年の昔、当地の開拓に際して恐らくは中央から勧請した神様だろう。理由は肥前地方の海沿いは松浦党の根拠地であり、松浦党の遠祖は大江山鬼退治の渡辺綱、・・・この辺りには渡辺姓が多い・・・宇多源氏、即ち元々は京の都の堂上人。
神様の名前が祝主であるにもかかわらず神社の拝殿から幕の向うを見ると立派な鏡、多分青銅だと思う、が見える。神社の鏡についてはシナイ山で十戒が授けられた時の記憶ではないか?と以前に書いたが実はもうひとつその意味について考えている。つまり、
神、即ち宇宙の【人間界に作用する法則】を表わしているのではないか?・・その法則とは【発したものを返す】
あなたの本質は【念】である。それを発散している。発散された念、自己イメージが宇宙に反射して還ってくる、それが集合してあなたが姿を現している!従って神社に詣でて人は自分自身を見るべきである、それが神社本来の存在意義でもある。
人を呪わば穴二つと言う。あなたが発した呪いの念は見えない世界にある邪悪な念と同調して呪いの効果を発揮し呪われた相手を打つ。同時にあなたが発した呪いの念は宇宙に拡散してまたあなたに還る。即ち穴二つ。
神社に詣でて願い事をする、例えば『老後の生活が安定しますように』などと。聴き入れられるだろうか?ノーである。『老後の生活が安定しますように』と祈るその動機の底には【不安】が横たわっている。だってそうでしょ、不安でなければ祈らないもの。
そして実はその不安が宇宙に拡散反射されてまたあなたに戻る。どうです、怖いでしょ?
故に神社で祈るのは人の幸せと自分についての感謝だけであるべきなのだ。私は初詣には行かない、普段見向きもしないような連中がやって来て商売繁盛家内安全などと勝手な事を言う、煩い、あっちへ行け、と神様は機嫌が悪い。だから大晦日の閑散とした時に詣でて、一年の守護に感謝の詞を申し上げる。
人の幸せを祈ると見えない世界の神の眷属が使いとして祈られた人に幸せを運ぶ。お稲荷さんのキツネの石像が稲を咥えているのは豊穣を運ぶの意味である。人の幸せを祈ったその念波は宇宙からあなた自身に跳ね返ってあなたも幸せになる。
鏡はそういうことも教えていると思う。
神様の名前が祝主であるにもかかわらず神社の拝殿から幕の向うを見ると立派な鏡、多分青銅だと思う、が見える。神社の鏡についてはシナイ山で十戒が授けられた時の記憶ではないか?と以前に書いたが実はもうひとつその意味について考えている。つまり、
神、即ち宇宙の【人間界に作用する法則】を表わしているのではないか?・・その法則とは【発したものを返す】
あなたの本質は【念】である。それを発散している。発散された念、自己イメージが宇宙に反射して還ってくる、それが集合してあなたが姿を現している!従って神社に詣でて人は自分自身を見るべきである、それが神社本来の存在意義でもある。
人を呪わば穴二つと言う。あなたが発した呪いの念は見えない世界にある邪悪な念と同調して呪いの効果を発揮し呪われた相手を打つ。同時にあなたが発した呪いの念は宇宙に拡散してまたあなたに還る。即ち穴二つ。
神社に詣でて願い事をする、例えば『老後の生活が安定しますように』などと。聴き入れられるだろうか?ノーである。『老後の生活が安定しますように』と祈るその動機の底には【不安】が横たわっている。だってそうでしょ、不安でなければ祈らないもの。
そして実はその不安が宇宙に拡散反射されてまたあなたに戻る。どうです、怖いでしょ?
故に神社で祈るのは人の幸せと自分についての感謝だけであるべきなのだ。私は初詣には行かない、普段見向きもしないような連中がやって来て商売繁盛家内安全などと勝手な事を言う、煩い、あっちへ行け、と神様は機嫌が悪い。だから大晦日の閑散とした時に詣でて、一年の守護に感謝の詞を申し上げる。
人の幸せを祈ると見えない世界の神の眷属が使いとして祈られた人に幸せを運ぶ。お稲荷さんのキツネの石像が稲を咥えているのは豊穣を運ぶの意味である。人の幸せを祈ったその念波は宇宙からあなた自身に跳ね返ってあなたも幸せになる。
鏡はそういうことも教えていると思う。