飄(つむじ風)

純粋な理知をブログに注ぐ。

ペリカンが鳩を丸飲みするとは!!オドロキ、桃の木、アングリの木!!

2008-07-26 12:08:08 | 日本

滑稽であるか、残虐であるか........
自然はまことに、様々な諸現象をかいま見せる。!!


 
諸法無我の現象ではあるが、万事有我の人間の観察は、様々である。笑うのも不謹慎であるが、かといって深刻にショックを受けるのも過剰反応と言うべきである。その証拠に、すぐ隣では事も無げに同じ仲間のハトも水鳥も逍遥として餌をついばみ、あるいは気ままに歩き回る。ペリカンは特に天敵でもなさそうだ。

 と言うことは、何でそう言う運命になったのだろうか。

 やっぱり、襲われたのだろうか。

 飲み込むペリカン、飲み込まれるハト。勝手な推測ではあるが、間違ってペリカンの口の中に飛び込んだのではなかろうか。それとも縄張り争いで、つつき合いをしていて、ハトが誤って転んでばたついたところで、ペリカンが餌と勘違いをしてのではなかろうか。
 口の中に入れば、何であれ、餌として飲み下そうとするのも、ペリカンの本能、オートプログラミング行動なのであろう。逃げようとして、ばたつくのもハトの同じ行動である。

 それにしても、よくもまああんな躍り食いして、ペリカンに何の損傷もないのであろうか。考えれば考えるほど、珍現象と言える。笑って眺めることは流石に躊躇われるのは、投稿者が有我の表れであろう。

【転載開始】2008年07月25日 16時02分00秒 ギガジンより

丸のみしたハトと大格闘しているペリカンのムービー

</object>

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Pelican Eats Pigeon - A funny movie is a click away

ペリカンが、丸のみしたハト飲み込もうとしているのですが、なかなか飲み込むことができず大格闘しているムービーです。ペリカンは、魚類などを食べる印象が強かったので、とても意外です。

ムービーの詳細は、以下から。

ハトを捕まえたところ

一応口の中に入りました

必死に飲み込んでいます

ハトを丸のみすると口やのどでかなり暴れるので、なかなか重労働のようです。

ムービーは、こちらから。ゆっくりと座っていますが、まだペリカンの体が揺れています。
YouTube - The Original Pelican Eats Pigeon
http://jp.youtube.com/watch?v=PO5ifLzLYiU


こちらは、別のムービー。
Pelican Eats Pigeon - Video
http://www.metacafe.com/watch/249287/pelican_eats_pigeon/


最後におまけ
Say No to Crack >> Blog Archive >> Caption this Silly Bird Picture
http://www.saynotocrack.com/index.php/2007/02/21/caption-this-silly-bird-picture/

【転載終了】


聖書について!!⑧

2008-07-26 07:33:07 | 聖書について

聖書について、書くのはおよそ半年ぶり!!

Photo

 世事が慌ただしい。目が離せない。が、時には内なる面に目を向ける必要もある。

 聖書は、何度も改変させられた。という。それは本当のことであろう。その主な点は、三位一体説であるとか、処女懐妊、十字架とか等々言われているが、そう言った説に穿ち得るところも多い。ほぼ言われている通りであると思う。しかし、かといってその神髄を失ってはいないと思う。

 パウロが、その異端の始まりであるという説までになると、それには与する気にはなれない。確かに原始キリスト教が、何ら文典を残さなかったことは事実である。文典はその後、編纂されたものである。これなどは仏教でも同じ。そして、文典は師ではなく、弟子達によって編纂された。これも同じ。それらは複数あって、意図的に聖書から排斥された、と言うことはあるであろう。あるいは意図せざる(つまり、一時的に失われた)事情によって、除外されたということも又、事実である。

 しかし、『覆い隠されたたもので、顕れないものはない』との経綸で、『死海文書』等で十数世紀を経て世に顕れたものもある。除外された文典で、トーマスの福音とか、マグダラのマリアによる福音等があると聞くが、それも確かな事実である。それらがいわゆる聖書に組み入れなかったことは事実としても、聖書その物の否定にまでは繋がらない。顕れたと言うことは、必要にして顕れたと言うことであるから、編纂を見直す必要がある。しかし、これは相当大変なことである。

 ならば、聖書を読む者が、広く心を開き、真実を探求すればよいことで、何ら差し支えがない。ところが、信者ともなるとそうもいくまい。信者の多くは聖書を独自で読むことをしない。牧師の説教による解釈を通じて聖書を読むことになる。ひどい場合は、事細かに教義化した解説本の方を重視して、聖書そのものを自由には読ませないところさえある。こうなると、カルトそのものであり、マインドコントロールに近い。

 投稿者は、聖書に親しんでいるのであって、キリスト教信者ではない。従って、自由である。別な言い方をすれば、勝手気ままである。だから、異端でも何でも良い、真実を求め、真理に学びたいからである。そうすると、聖書はやはりその骨格において、神髄において真理の書であるとの結論しか見えてこない。

 イエスが復活したのは真実か。? 真実である。それが物質としての復活か、霊としての復活か、論を待たないところであろうが、本当はそんなことはどうでも良い。しかし、聖書には未来としての復活であるとする。それは都合というモノがある。そうでなければ、キリスト教がここまで広まることはなかったかも知れない。そもそも、西欧においては、ギリシャがそうであるようにアリストテレスの物質文明の祖と言うべき地域であるから、その方が都合が良かったのである。

 イエスが処女降誕が真実か。? そんなことはない。その必要はない。それでも尚、イエスは偉大なる師である。三位一体を裏付け、神格化する必要があったに過ぎない。人間イエスを認めることは都合が悪いからである。しかし、それは投稿者に言わせれば、頭が悪いからであって、イエスが人間イエスであり、神の子イエスであることと関係がない。人間はすでに神の子である。そのこととイエスの言われる神の子を理解し得なかったに過ぎない。だから、イエスを唯一の神の御子とした。唯一の神の御子が、人間マリア、人間ヨセフから生まれたとするには理解の域を超えるからである。物質偏重は、二元論に固執する。神は霊なら、物質は土であり霊の息吹をもって命が宿るとされた。しかし、土もまた命であることに変わりがない。

 土から作られた人間は、人間たり得るには人間の霊の息吹が必要であるに過ぎない。

 その仕組みは、今後明らかにされるであろう。が、そのことを理解し得ない時代、イエスが神格化され、唯一の神の御子であっても、その語られる真理が真理であるならば、拘泥する必要はない。我々が求めるのは真理であって、理由付けは二の次である。

 その意味で、聖書は紛れもなく真理を伝える書であることに異議を差し挟む余地はない。

 理由付けは二の次ではあるが、理由が不明確であると、読む者によっては盲信と狂信を惹起する。そして、それに知と意が悪意に働けば、カルトを形成する。今、キリスト教が危ない。カルト化したキリスト教が、あちらこちらに跋扈する。今般も、その一つの教祖が、ヘリコプターで転けた。哀れ、黒こげか。.......?

Crash2