井口博士のブログからである!
死後の世界は在るのかないのか?!
と言う議論は、
時間の無駄である!
わずかに100年とない人生期間、
なんという驕りに満ちた妄想期間であろうか?
科学と言っても、その確率を見て数百年にすぎない。なんで科学というのか? サイエンス(Science)の字義からしても、学問の一分野と解されている。そう、数ある学びの一つに過ぎないのである。
それが幅を利かして、科学信仰というカルトに浸っているにすぎないと考えることが出来る。
<記事に無関係:ユッキー君より>
現在の科学信仰は、別名、物質信仰と言い換えることが出来よう。目に見えるもの、触れるもの、感じられるもの、聞き取れるもの以外は、無いとの見解である。
ほんの僅か、精密機器の進展で、その幅は広がったと言えども、所詮は、物質を基準に広がっただけで、物質でないものは、やはり、無いのである。素粒子も物質であるとの認識は変わらない。
同時に、波動であるとの見解もある。波動とは物質であろうか? エネルギーと解される。エネルギーは物質ではないのである。しかし、実在する。検知出来るものもあれば、検知出来ないものもある。
電気や、磁気や、その他のエネルギーは検知出来るが、それに置き換えなければ、その他のエネルギーは検知出来ないのが、実情である。
<記事に無関係:ユッキー君より>
では、霊波は検知出来ない。だから、霊波などと言うものは、宗教の摩訶不思議な世界で通用するエネルギーとしか認められない。霊波というと、大ざっぱ過ぎて、又、ある特定の宗教用語と取り違えられそうであるから、あまり使うのも差し控える方が無難である。
兎も角、
エネルギー様の実体は、数限りなくあるのであって、一括りにすれば、波動である。波動は、周波数、振幅、波長、波形があって、その数はほとんど無限である。縦波があり、横波がある。あるいは、その要素はもっとあるかも知れないが、知っているだけでもそれほどある。
そして、それらが組み合わさって構成されているのが、森羅万象であるから、到底、人間が認識出来ているのはホンの一部に過ぎない。
物質やその他は、それらの単なる一つの表現形態なのかも知れない。精神と物質と言うけれども、その境界は実はなく、連綿と続く波動の一形態であるとする見方がある。そして、波動には質の異なるものがある。音波であったり、電波であったり、磁気波であったりする。
もっと、あるだろう。知らないだけである。
とすれば、何が実在かという問題について、現在の人間にはほとんど分かっていないのである。死後の世界と言うけれども、実在の世界が分かっていなくて論ずるのは、時期尚早というのが、論理的帰着である。
死後の世界を論ずれば、生前(生まれ出る前)の世界も論じなければならないだろう。
<記事に無関係:ユッキー君より>
目で確認出来る肉体的(物質的)存在を、人生と定義しているから、あるいは生命と定義しているから、死後や、生前と分かつのである。
生命は、当然、永遠であるとすれば、その論議は別なものになる。生命はエネルギーとすれば、永遠である。エネルギーは姿は変えるけれども、発せられたエネルギーは消えることがない。
磁気波は、電磁波に、あるいは電流に形は変えるけれども、消えることはない。熱や光に変わるけれども尽きることはない。実は、物質に変わるけれども尽きることはないと考えれば、死後の世界は、当然すぎる程当然で、議論の余地は無いものである。
だから、その議論は時間の無駄であると書いた。
生前も、現世人生も、死後の世界もその切れ目はなく、連綿と続くものである。あるいは、動じ存在するものである。それはエネルギーと認識すれば、当然である。形態が変わるに過ぎない。
<記事に無関係:ユッキー君より>
形態が変わるばかりでなく、シチュエーションも当然変わる。表現が変われば、認識も変わる。エネルギーの目と、物質の目は違うからである。違うというのは、同調する範囲が変わる。
ラジオは音声に同調し、テレビは映像にも同調する。
そして、生命エネルギーは実在に同調する。生命エネルギーの周波数、振幅、波長、波形によって、無限の実在の同調する部分は違ってくる。天国にも同調するものがあれば、地獄に同調するものがあって、当然である。
天国も地獄も実在の一部である。
そして、重要なことは、現世人生も感じるか感じないかは別にして、天国も地獄にも通じているという事実を否定出来ない。実は、時間的に、空間的に現世人生では明確に分離していると感じているが、本当は不確定である。
今という時、天国だとしても、次の瞬間に地獄を体験することがあるように、瞬時瞬時に目まぐるしく変転するものである。連綿と続く時間の中で分離されていると錯覚するからで、時間が不確定としたら、状況が一変する。
時間は、実は連続値だけではなく、離散値(非連続のこと)と考えれば、見方は大いに変わる。実際、デジタル処理には離散値処理は、当たり前の話で、音も自由に変えられる時代であるから、人生も大いに変えられる時代に遭遇している。
時間の本質は、離散値(非連続のこと)である。
意識が変わると、時間は変わる。それが人間の本質、あるいは生命の本質である。生命エネルギーの本質である言うのが正解に近いかも知れない。
<記事に無関係:ユッキー君より>
生命エネルギーが、昂進している時は短く、低迷している時は長いのである。言い換えれば、楽しい時は短く、苦しみは長いのである。さらに、推し進めて、生命エネルギーそのものには、時間は無いのであって、一時が万事である。
従って、肉体を離れた生命エネルギーは、時間は自由である。
生命エネルギーは、離散値(非連続のこと)の時間に存在していると考えることが出来る。つまり、時間は自由自在であると言うことだ。言い換えれば、永遠の苦しみも、永遠の喜びも選び取ることが出来ることを意味する。
それは意識が選択する。
こうして考えてくると、臨死体験の話など、至極当たり前の現象で、意識が必要に応じて選び取った現象に過ぎない。何故、必要としたのかは、意識の選択であるので、それぞれの理由があるのであろう。
その問題は、各個別の理由があるので、一概には言えないが、大ざっぱに推察すれば、今、人類は覚醒の時を迎えている。あまりに物質次元に軛(くびき)を繋がれて、進歩が限界を迎えたので、覚醒を促す目的があるのであろう。
それは個性ある生命エネルギーが選択したこともあろうが、さらに大なる宇宙エネルギーのいともあろうと推察している。あくまでも推察にしか過ぎない。
因みに、生命エネルギーの宿る場所として、それを魂と読んでも差し支えないと考えている。
死後の世界 アンビリーバボー
【転載開始】「天国の証明=プルーフオブヘブン」2:「ブレインストーム」は「死後の世界」の映画だった!?
《前半一部省略》
この番組の中で、アレクサンダー博士が見た「死後の世界」のイメージはかなり衝撃的である。しかしながら、実はこの博士の見たイメージとそっくりの映像がすでに映画として出ていたのである。
それが、1983年の「ブレインストーム」というSF映画だった。私も若いころに映画館でこれをみた。以来、非常に心に残っているものである。
要するに、「もし脳の記憶が実現できたとしたらどうなるか?」という問いについて、空想妄想を行って映画にしたものである。脳の記憶をテープに記録できる。そんな機械をある科学者が発明する。
ところが、実際に仲間の研究者がそれを興味本位で使っている内に、本当に死んでしまう。死に至る直前、その女性研究者は、スイッチを入れて、科学者らしい最後を遂げる。
発明者の科学者が、そのテープを発見する。
科学者の責務として、科学者の好奇心として、
死後の世界を見てみたい
しかしながら、ひょっとしたら自分も見ている内に死後の世界に引きずり込まれるかもしれない。
見るべきか、見ざるべきか、葛藤する。
そこは研究者は白人。やっぱり見たい。好奇心が勝つ。そして見る。
やはり自分も死にかける中で死後の世界を見てしまう。
だが、仲間の恋人の愛の力とその呼びかけにより、現実に連れ戻される。
とまあ、そんな感じの映画である。
さて、その映像部分をYouTube内で見つけたので、ここにメモしておこう。
まずトレーラー版。
次に、女性研究者の死と死後の世界の記録。
Louise Fletcher on "Brainstorm" (1983)
おそらくこの心臓発作の段階で、だれかに数分以内で心臓マッサージを受けられたら、この女性は生き返っただろう。そして、「死後の世界」を見てきたといった違いない。
発明者が記録テープを実体験する。
Brainstorm - Afterlife Part
実はこの死後の世界に入る一番最初のイメージ
これが、グーブルストリートビューの最初のイメージ

と同じように見えるのである。死後の世界の空間構造が、本当の時空構造なのではないかと疑うわけである。たぶん、グーグルはこの映画から「ストリートビュー」をパクったのであろう。なぜなら、それぞれの球体に入ると、そこから、ある時間前の過去シーンを再生できるからである。
次に女性研究者がハートアタックで死んで、死後の世界の入り口に入った時に、トンネルのようなものを突き抜けるが、その壁面にはおどろおどろしい奇妙な生き物が埋め尽くされている。何か子宮に似ているものを見る。これである。
この部分が、アレクサンダー博士が言っている話と見事に一致しているのである。博士もここから入っていった。欧米人は一般にこういうものを見るようである。実は、これは自殺したり、殺人したり、いわゆる悪行をして死んだ人たちが永久にここに束縛されるらしいという説もある。
そこを超えると、非常に暗いが安心するまるで宇宙空間のような場所に出る。これもアレキサンダー博士も見たものである。

この段階になると、もはやオールマイティー。全能の神である。太古の昔の宇宙創世から未来まで自由自在に行き来できる。日本の木内さんも死後の世界を見た時にそういう場所を経験したようである。
そして、宇宙の核心部である光の中心に入っていく。
そしてたくさんの「天使のような存在」が飛び交う場所に出る。


おそらく保江邦夫博士が見た「マリア様」もこんな感じのものだったのかもしれない。
そして最後に生き返る。
Brainstorm - death trip (end)
とまあ、そういうわけで、「ブレインストーム」という映画は「死後の世界」の映画だったというわけである。
ほぼ100%、エベン・アレクサンダー博士の見た「死後の世界」と一致している。
このことからも、おそらく我々が死ぬと、必ずこういう世界に入ると覚悟しておいたほうがよさそうである。
生前に、酒池肉林、悪辣非道、外道の限りを尽くしていると、このうごめく奇妙な子宮のような壁の中の住人になり、おそらくもう二度と人間として生まれ変わることが出来ないらしいゾ!
聞いてるか?在日韓国人、韓国人諸君!
NWO諸君、イルミナティー諸君!
この「死後の世界」は厳しいぞ。いま以上にナ。

とまあ、そういう話である。
どうやらこれがこの宇宙の原理なのかもしれないですナ。【転載終了】