草むしり作「わらじ猫」中11
大久保屋の大奥様⑪
目黒の秋刀魚
次の朝、タマの体にはもうあの嫌な臭いは残っていなかった。寝しなにおなつがもう一度体を拭いてやったのと、夜通し毛繕いをしていたのだろう。おかげで腹のところの白い毛は透き通るように美しくなっていた。
ところが支度はとっくに出来ているのに、太助がなかなかやってこなかった。なにかあったのではないかと気をもんでいると、しょげ返った様子で太助がやってきた。
「大奥様も申し訳ございません。海が時化ていて、河岸にまったく魚が運ばれてこなかったんでさぁ。知り合いの漁師にも頼んでみたのですが、こんなものしか手にはいりませんでした」
申しわけなさそうに開けた桶の中には秋刀魚の塩物が入っていた。
「銚子沖で上がった秋刀魚だね、よく脂が乗っているじゃないかい。塩焼きは大旦那様の大好物だよ。それよりお前、朝ごはんをまだ食べていなのだろう。お仲なんか食べさせておやり」
今朝河岸で買った握り飯があるからと遠慮する太助に、お仲は味噌汁を温めて漬物を添えて出してやった。恐縮しながら太助が食べ終わって、さあ出かけようかという段になって、今度はさっきまでいたタマがいなくなっていた。 あちこち探しても見当たらないので、置いていこうかと話していると、ひょっこり鼠を咥えて戻ってきた。大慌てでおなつが鼠を始末して、何だかんだと出発の時刻が一時ほど遅れてしまった。
「おや秋刀魚ですかい、目黒でいただく秋刀魚は一味違うだろうね。焚き火でジュウジュウと焼けたところに大根おろしを乗せて、柚子のしぼり汁をかけたら旨いだろうね。わたしもご相伴に与りたいものだね」
店先に見送りに出た旦那様は、市中では禁止されている焚き火が、目黒では出来ると言いたいのだろうが、おなつは別の意味に聞いてしまった。
―口の肥えた旦那様があそこまで羨ましがるのだから、目黒で食べる秋刀魚は日本橋や深川で食べるよりもおいしいのだろうか
おなつは早く目黒に行って、おいしい秋刀魚を食べたいと思った。
ところがおなつはその日目黒で秋刀魚を食べるどころか、目黒に行くとも出来なかった。
店の前で旦那様の見送りを受けて、一行が目黒に向かって出発しようとした時だった。岡田屋のご隠居が連れを伴って尋ねてきた。
「もう少しで、目黒まで押しかけなくてはならないところだった」
岡田屋のご隠居は込み入った話があるようだ。立ち話という訳には行かないので、一向はまた暖簾をくぐって店の中に引き返してしまった。
最後に太助が中に入ろうとして、鼻緒の切れたわらじが片方落ちているのに気づいた。―こんなところにわらじが落ちている。誰かのいたずらだろうか。
太助は暖簾の下のわらじを、しげしげと見ながら思った。
「太助さん、お茶が入ったわよ」
お仲の呼ぶ声が聞こえたので、太助はそのまま中に入っていった。だから暖簾の間で何かがヒソヒソと話しているのに気づかなかった。