草むしり作「わらじ猫」中4
大久保屋の大奥様④
お紺編2
―タマが来ていたのだろうか。
目が覚めたときには姿が見えなかったが、耳元でゴロゴロと喉を鳴らす音と、濡れた鼻の先の冷たさと、ザラザラとした舌の感触がまだ頬に残っていた。
タマは大久保屋に来た日から、大奥様の傍を片時も離れようとはせず、何処に行くにもついて回り、大奥様がはばかりに立った時でさえ後を追う始末だ。そこまで慕われると大奥様のほうも悪い気はしない。遠出をしてタマが迷子になっては大変と、家にいることの方が多くなった。
「困ったもんだねぇタマときたら、目黒にも行けやしない」
大奥様はそう言う割には、嬉しそうにしている。
目黒には大旦那様がお住まいの寮がある。お店での仕事を娘夫婦に任せてしまったものの、まだ大奥様は奥のことを取り仕切っている。それに比べ大旦那さまは帳場の仕事をとっくに旦那さんに任せて、今は目黒でお百姓仕事をしている。
何でもこれが昔からの夢だったといって、目黒の百姓屋を借り受けて、野菜や花などの栽培している。その傍らで付近の小作人の子どもに、無償で読み書きそろばんを教えている。十日おきには出来た野菜を下男に持たせて、大久保屋に帰ってくる。帰るたびに大奥様に「お前さんも早く目黒においで」とお誘いになる。大奥様も行きたいのは山々なのだけど、まだまだ娘夫婦が隠居はさせてくれそうにもない。
大奥様の実の娘に当る今の奥様は、大久保屋の看板商品である袋物を作っている。作っているといっても材料の布の裁断や製縫は職人が行っている。奥様はその袋物の形を考えるのが仕事だった。「丈夫で長持ちその上に品があって飽きが来ない」が信条の大久保屋の袋の出来は、奥様の肩に掛かっているのだ。
それは誰にでも任せられる仕事ではないし、家の仕事の片手間に出来る仕事でもなかった。
そんなわけで帳場のほうはすんなりと旦那さまに引き継がれたが、奥のことは未だに大奥様の仕事になっている。それでも時々は大奥様も泊りがけで目黒に行くこともあったのだか、タマが来て以来それすらままならなくなった。何しろタマは大奥様が目黒に行こうとすると邪魔をするのだ。
最初に目黒に行こうとした時だった。タマは出かけようとする大奥様の草履の上に寝そべったきり、どうしても動こうとしなかった。仕方なくおなつに退けさせよとしたが、抱えようとするおなつの手に噛み付く始末だ。おなつが困ってベソをかいても知らん顔で草履の上から降りようとしなかった。
「今日はもうやめておこうねぇ。タマは利口な猫だから、目黒に行くと何か悪いことでもあるのかもしれないよ」
その日は大奥様も目黒に行くのを中止した。ついこの間も大奥様が通りの角を曲がろうとすると、タマが邪魔をして先にいかせないことがあった。そうこうしているうちに角の向うが騒がしくなった。何事かと見に行くと、ノラ犬が老婆に噛みついたという。
そんなことがあってからは、大奥様はタマが邪魔することはしないようにした。それはあの時犬に噛まれた老婆が、何処と無く自分と背格好が似ているように思えたからだ。だからといってタマは二六時中大奥様の傍にいるわけではなかった。大奥様が女中たちに行儀作法を仕込んでいるときや、気の置けないお客様の時にはふらりといなくなり、時には大きな鼠を咥えて戻ってくることもある。
タマは大久保屋に来てからは、大奥様の部屋で子どもを産んだ。部屋の隅に置いた木箱のなかでお産をして、そこで子どもを育て始めた。大奥様はタマが後をついてこなくていいようにと、外出は極力控え、はばかりに立つ時さえも、お仲をお供につける始末だった。
おかげでタマの子どもはスクスクと大きくなり、今度もまた、太助の桶の中に入って柳家のハチの元に向かった。今頃はおなつの家の床下でハチと一緒に眠っているだろう