草むしり作「わらじ猫」中1
㈢大久保屋の大奥様①
弥助編1
夕暮と同時に急に冷え込んできたせいだろうか、仕入れたそばは面白いようにはけてしまった。明日からもう少し仕入れを増やしてみようかと思いながら、弥助は懐の銭を握りしめた。
けっきょく自分もあの猫に救われたのだろうか、弥助が夜鳴き蕎麦屋の親父に弟子入りしてから一年が経った。あの時猫を橋から放り投げていたら、今頃は自分が簀巻きにされて大川に放り投げられていただろう。
弥助も運が良かった。あの時食べた蕎麦が旨かったのは、冷え切った体を温めてくれたからでも、空き腹だったからでもない。本当に旨い蕎麦だったのだ。
「夜鳴き蕎麦屋に弟子入りなんて、聞いたことないがなぁ」
弟子にしてくれと土下座して頼み込む弥助に、親方は困り果てて言った。辰三親分の口利きで、やっと弟子入りが許されたのは十日ほど経ってからだった。
「夜鳴き蕎麦なんてものはなぁ、温かけりゃそれでいいんだ」
親方はそう言いながらも、出汁やかえしにはずいぶんとこだわっていた。親方の住んでいる長屋の床下には、かえしの入った甕(かめ)がずらりと置かれていた。
親方の下を離れて独り立ちをしたのが三月前だった。回向院近くの裏店に住まいを移し、親方の商売の邪魔をしないようにと、夜は日本橋で商売を始めた。大店ばかりが立ち並ぶ日本橋で、夜鳴き蕎麦屋なんて相手にもされないと思っていたが、やっと手代になったばかりの若い奉公人たちのお得意様がついた。
この頃では蕎麦のほかにもいなり寿司や煮しめなども出すようになった。朝は魚河岸でにぎり飯も売り始めた。
「よお、元気だったかい」
弥助はひとかけらのかつお節を取り出すと、包丁の先で削り始めた。
いつも曲がる一つ先の路地をやり過ごしたのは、ほんの気まぐれだった。夜明け前に開く魚河岸で、握り飯を売り始めてからすぐのことだった。朝飯にちょうどいいと、独り者の棒手振りたちが弥助の握り飯を買っていった。その日違った路地を歩いたのは、商売がうまくいきそうになって少し浮かれていたのかも知れない。
やっと夜が明けたばかりだというのに、もう飯の炊けるいい匂いがして来た。どこのお店だろか。随分としっかりした女中がいるものだと、看板を見上げると大久保屋と書かれていた。板塀越しに路地を歩いていくと勝手口があり、その上から柿の木の枝が路地の上に張り出していた。たった今しがた掃いたのだろう、路地には落ち葉が一枚も落ちてはいなかった。
―たいしたものだ、もう掃除もすんでいる
この季節すぐに葉っぱも落ちてくるのではないのかと、柿の木を見上げようとした時、塀の上を歩く猫と目があった。とたんに弥助はギョっとなって後退さった。猫が鼠を咥えていたからだ。
「タマ……」
思わず呟いた弥助の声が聞こえたのだろうか、猫は塀の向こう側に飛び降りていった。
―当たりめぇだな。
弥助が呟いて歩き始めたときだった。塀の上から猫が飛び出してきた。
「お前、相変わらずいい腕だな」
声を掛けた弥助にむかって、猫は尻尾をピンと立てて近づいてきた。弥助は猫の頭を撫でようとした時だった。
「鼠を片づけておくれ」板塀の向こうから声が聞こえた。思わず振り向いた弥助の耳に「かしこまりました」と答える若い娘の声が聞こえてきた。自分の気持を無理に押し殺したような、あの低い声には聞き覚えがあった。
人の気持ちがわかるのだろうか。吉田屋で米の売り上げをごまかしていた頃は、タマは弥助に近づこうともしなかったのだが。