草むしりしながら

読書・料理・野菜つくりなど日々の想いをしたためます

草むしり作「わらじ猫」中10

2020-02-24 16:29:32 | 草むしり作「わらじ猫」
草むしり作「わらじ猫」中10
大久保屋の大奥様⑩
夢見る少女


「何だね、猫の自慢話かい。好きあって所帯を持とうって者同士が、他に何か話すこともありそうなものだがね」
 太助とお仲はついタマの話に夢中になり、大奥様のお帰りも気がつかなかった。二人は年が明けると祝言を挙げることになっていた。

「申し訳ございません。つい話しに夢中になりまして。お奉行所のほうはいかかでございましたか」
 お仲が、頬を赤らめながら大奥様に尋ねた。奉行所から呼び出しの掛かったおなつに付き添って、大奥様もお奉行所に行っていたのだ。
「なに心配することでもなかったよ。道理の通らないことを言っているのは向このkほうだからね。この際だから伊勢屋の方を叱りおいて下さるそうだよ。それからね、凶悪犯の召し取りに功労があったてんで、タマとその買い主のおなつに褒美をもらったよ。まったく今度の南町のお奉行様はずいぶんとお情け深いよ」
タマの褒美はかつお節で、木箱に入って赤い水引がかかっていた。おなつの褒美は反物で常盤屋の新柄だった。

「お仲すまないが、お前仕立ててやっておくれないかい」
「はい、かしこまりました。まあ可愛い、きっとおなっちゃんによく似合いますよ」
 お仲は嬉しそうに微笑むと、反物を手にとって太助に広げて見せた。
「うん、おいらよくは分からないけど、お仲ちゃんが言うのなら間違いないだろう。長屋のおとっつぁんやおっかさんに知らせておくよ、お仲ちゃんが仕立てるんだって」
「そんな太助さん、わたしのことは言わなくっていいわよ」
「何んだねぇ、お前たちは。おなつが目のやり場に困っているじゃないかい」
おなつは大奥様の後ろで恥ずかしそうに下を向いていた。

「お奉行所の帰りにね、ちょいとおなつの家に寄ってきたんだよ。あんな騒動の後じゃ、おとっつぁんやおっかさんが心配しているだろうって思ってね」
「おっかさん、喜んだだろう」
「おっかさんまた太っていた」
「それを言うなよ、本人も気にしているんだから」
 家族や長屋のようすは太助からいつも聞いてはいるが、それでも久しぶりに親や姉弟に会って嬉しいはずだ。ところがどうもおなつは照れ屋で困る。嬉しいとなぜか怒ったような顔になるのはおなつの癖だ。喋り方も極端に声を下げて、ぼそぼそと抑揚にない一本調子になる。まるで娘らしさなど自分には無縁のものと、始めから諦めているような口調だ。「もう少し愛嬌があればいのに」太助は時々そう思うのだった。

 ところが大奥様に言わせると、おなつのそこがチャラチャラしていなくていいそうだ。そこいらの若い娘の突き上げるようなキンキン声は、何を言っているのか分からないし。聞いていると耳が痛くなる。そこへ行くと、おなつの喋り声は低くてよく聞こえる。おまけにきちんと順序立てて話すので、分かりやすいのだと言う。
 
 照れ屋のところはおとっつぁんに似たのだろうか。がっちりとした肉付きのよい体つきはおっかさん譲りだ。性格はおっかさんで、体型はおとっつぁんなら申し分ないのだが。などとつい余計ことを太助は思ったりもする。
 
 ところがおなつの妹のおみつはこの反対だ。おみつは今、娘義太夫の師匠の家に住み込みで弟子入りしている。当節この師匠が旗揚げした娘義太夫の一座が、お江戸の街では知らない者がいないほどの大人気だ。
一座の娘たちがそろいの肩衣と袴をつけ、舞台の上のひな壇に並んで順番に義太夫節を一節ずつ語っていくのだが、合間に客の合いの手が入り舞台を盛り上げる。娘たちの席は人気番付によって決まる。舞台中央が一番人気の娘の席で、そこに座ったものが山場の部分を語るようになっている。

 当初若い男たちの間での人気だったのが、いつの間にか娘やその母親たちにまで飛び火してしまった。この頃では行儀見習いの奉公に出ていい縁談にありつくよりも、師匠に弟子入りして娘義太夫の舞台に立ちたいと言い出す娘たちが後を絶たないそうで、おいそれとは弟子入りも出来なくなった。
 
 そんな狭き門をくぐりぬけておみつの弟子入りが決まったのが半年ほど前だった。「もうじき舞台に立てるようだ」と、母親のお松が自慢げに話していた。
「ついでに大家さんにも挨拶してきたよ。いい人じゃないかい。おなつのおっかさんたちもいるし、あそこならお仲をやったって心配ないよ」
「あの大家をひと目見ただけでいい人だって分かるなんて、さすが大奥様だ」
確かに大家は顔が怖いのだが、根はいい人だった。ただ口うるさいのが玉に瑕(きず)で、重箱の隅を突くという言葉がピタリと当てはまるような性格だ。どうでもいいような、細かなことにまで口を出す。おまけに嫌味と当てこすりが激しく、もっともなことを言っているのに、言われたほうは腹がたつ。

 しかしよく考えてみればおなつの父親が怪我をしたときも、娘のおなつの奉公先から母親のお松の洗い張りの内職の世話までしてくれた。おなつ一家が曲がりなりにもこうして暮らしていけるのも、大家がいてくれたからだった。
長屋の連中だって似たようなものだ。多かれ少なかれ大家のおかげで、なんとか暮らしているようなものだった。
太助は大家を煙たがるのを止めようと思った。

「ただねぇ、あの唇の色だけは何とかならないかね」
「本当ですね、久しぶりに会ったらますます黒くなっていましたよ。わたしも子どものときは大家さんの唇の色が怖くて仕方なかったですよ。本当はいい人なのですけどね」
 めったに人の話に口を挟むこと無いおなつが、口を挟んできた。

「おなっちゃん、大家さんの唇ってそんなに黒いの」
横でお仲が心配そうに聞いてきた。

「そうだ太助、明日鯛を届けておくれ。わたしとしたことが、大家の唇の色なんてどうだっていいんだよ」
 大奥様は急に思い出しように太助に言った。言われた太助は太助で、近頃特に黒くなった大家の唇の色を思い出していた。
「へい、承知いたしました。お遣い物でしょうか」
だから返事がちょっと遅れてしまった。
「いやね、店のほうの騒動もだいぶ収まってきたからね、目黒の旦那様のところに行ってこようかと思ってね。お仲お前も一緒に行って、潮汁を作っておくれ。それからタマとおなつも連れて行くからね」
「かしこまりました。そういえばタマが目黒に行かしてくれませんでしたからね。」
「あの時のマムシだってお紺の仕業だろう。目黒になんど行っていたら、連中の思いのつぼだったよ。途中で殺されるか留守の間に押し込みに入られるかのどっちかだよ。お紺に取っちゃわたしが目の上のたん瘤だったろうよ。タマはこの一年の間わたしを守ってくれていたのだよ、不思議な猫だよ、まったく。」
「そういえば、おなっちゃん目黒初めてですよね」
大奥様の言葉に頷きながら、はたと思いついたようにお仲が言い出だした。
「ああ、おなつは目黒どころかお奉行所のある八丁堀だって始めてだって、キョロキョロしていたよ。無理も無いよ、九つの時から奉公に出ているのだからね。」
「おなっちゃん、目黒の大旦那様の寮はね,坂の上にあってね、目の前に田んぼが広がっていて富士のお山がすぐ近くに見えるのよ。近くには公方様のお狩場があってね、山鳥や雉が時々遊びにくるのよ。大旦那様の畑にはいろんな野菜が沢山植わっていてね、周りには柿や栗の木があるのよ、裏庭には水の湧き出る井戸があって、そこの水で入れたお茶がとっても美味しいのよ」
「そりゃいいや。はばかりながらこの一心太助、用心棒代わりの明日はご一緒させていただきます」
「おや、助かるよ。おなつとタマもしばらく向こうにいるからね、帰りはお仲を送ってやっておくれ、遅くなってもいいからね。ついでにお不動さんでもお参りするといいよ」
「ありがとうございます。なんだか照れちゃいますね」
太助は照れ笑いを浮かべ、お仲は隣で赤くなっている。そのようすをおなつが笑いながら見ている。
「でも大奥様、タマがいないとお店のほうが無用心じゃないですか」
お仲が心配そうに言った。

 タマこの頃では泥棒よけ猫として名を上げて、遠くからわざわざ見物に訪れる大店の主人もいるほどだ。泥棒に入られないようにと、タマを拝んで帰る人もいる。
「ああ、そのことなら心配ないよ。どれ、おなつ出してごらん」
 大奥様に言われ、おなつが手に持った風呂敷包みを開けた。
「おや、甚六さんの作ですね」
おなつが風呂敷包みから出したのは木彫りの置物だった。猫が丸くなって寝ている。よく見ればタマに似ている、長い尻尾や片方の耳が少し切れているところまで同じだった。
 
 おなつの父親の甚六は普請場で足の骨を折る事故に遭ってしばらく大工仕事が出来ない日があった。休んでいる間に腕が鈍らないようにと、木彫りを始めたのがきっかけだった。もともと手先が器用で、木切れを拾って来ては、いつも何か彫っていたので見る間に腕が上達した。この頃では木彫りの腕を見込まれて、名指しで注文が入るようになった。
「番頭さんに、これを帳場の隅にでも置くように言っておくれ。泥棒よけになるんじゃないかい」

 おなつはその夜嬉しくてなかなか眠れなかった。枕元には小さな風呂敷包みが置かれている。あれこれと持っていく物を風呂敷に包んでいたら大荷物になってしまった。「それじゃ泥棒と間違えられるよ、とりあえず要るものだけでいいんだから」といってお仲は笑いながら荷物を減らして、最後にかき餅の包みを入れてくれた。
新しい櫛と貸本も枕もとに置いて寝た。櫛は太助がお仲とそろいで買ってくれたものだった。明日挿して行こうと思っていた。貸し本はお仲に返してもらうことになっている。

 本は「里見八犬伝」だ。人気のある本でなかなか借りられない。運よく借りられたら、納戸にこっそりと行灯をつけて、小声でお仲に読んで聞かせる。本当は使用人が勝手に行行灯なんか使っちゃいけないのだけど…。そういえばお紺も寝たふりをして聞いていた。面白い場面になると、お紺の布団が揺れていたのを思い出す。

―怖い人だと思っていたが……。あの時甘酒の中に砂糖や酒じゃなくて、他の物も入れようと思えば入れられたんじゃないのだろうか。

 タマは体に染みついた臭いが気になるらしく、火の落とされた竈の前で毛繕いをしている。夜更けて月の光が炊事場の明り取りから差し込んで、竈の前のタマを明るく照らした。その頃やっと眠りについたおなつは夢を見ていた。夢の中でお狩場に続く坂道を、白い馬に乗ったお武家さまが駆け抜けて行った。

草むしり作「わらじ猫」中11

2020-02-23 16:40:45 | 草むしり作「わらじ猫」
草むしり作「わらじ猫」中11
大久保屋の大奥様⑪
目黒の秋刀魚

 次の朝、タマの体にはもうあの嫌な臭いは残っていなかった。寝しなにおなつがもう一度体を拭いてやったのと、夜通し毛繕いをしていたのだろう。おかげで腹のところの白い毛は透き通るように美しくなっていた。

 ところが支度はとっくに出来ているのに、太助がなかなかやってこなかった。なにかあったのではないかと気をもんでいると、しょげ返った様子で太助がやってきた。
「大奥様も申し訳ございません。海が時化ていて、河岸にまったく魚が運ばれてこなかったんでさぁ。知り合いの漁師にも頼んでみたのですが、こんなものしか手にはいりませんでした」
申しわけなさそうに開けた桶の中には秋刀魚の塩物が入っていた。

「銚子沖で上がった秋刀魚だね、よく脂が乗っているじゃないかい。塩焼きは大旦那様の大好物だよ。それよりお前、朝ごはんをまだ食べていなのだろう。お仲なんか食べさせておやり」

 今朝河岸で買った握り飯があるからと遠慮する太助に、お仲は味噌汁を温めて漬物を添えて出してやった。恐縮しながら太助が食べ終わって、さあ出かけようかという段になって、今度はさっきまでいたタマがいなくなっていた。 あちこち探しても見当たらないので、置いていこうかと話していると、ひょっこり鼠を咥えて戻ってきた。大慌てでおなつが鼠を始末して、何だかんだと出発の時刻が一時ほど遅れてしまった。

「おや秋刀魚ですかい、目黒でいただく秋刀魚は一味違うだろうね。焚き火でジュウジュウと焼けたところに大根おろしを乗せて、柚子のしぼり汁をかけたら旨いだろうね。わたしもご相伴に与りたいものだね」
 店先に見送りに出た旦那様は、市中では禁止されている焚き火が、目黒では出来ると言いたいのだろうが、おなつは別の意味に聞いてしまった。

―口の肥えた旦那様があそこまで羨ましがるのだから、目黒で食べる秋刀魚は日本橋や深川で食べるよりもおいしいのだろうか
おなつは早く目黒に行って、おいしい秋刀魚を食べたいと思った。
ところがおなつはその日目黒で秋刀魚を食べるどころか、目黒に行くとも出来なかった。

   店の前で旦那様の見送りを受けて、一行が目黒に向かって出発しようとした時だった。岡田屋のご隠居が連れを伴って尋ねてきた。
「もう少しで、目黒まで押しかけなくてはならないところだった」
岡田屋のご隠居は込み入った話があるようだ。立ち話という訳には行かないので、一向はまた暖簾をくぐって店の中に引き返してしまった。

    最後に太助が中に入ろうとして、鼻緒の切れたわらじが片方落ちているのに気づいた。―こんなところにわらじが落ちている。誰かのいたずらだろうか。
 太助は暖簾の下のわらじを、しげしげと見ながら思った。
「太助さん、お茶が入ったわよ」
お仲の呼ぶ声が聞こえたので、太助はそのまま中に入っていった。だから暖簾の間で何かがヒソヒソと話しているのに気づかなかった。

草むしり作「わらじ猫」中12

2020-02-22 16:50:04 | 草むしり作「わらじ猫」
草むしり作「わらじ猫」中12
大久保屋の大奥様⑫
鈴乃屋善右衛門1
   ご隠居は前にちょっとした風邪をこじらせて寝付いた時に、大奥様から届いたマムシで元気になったことがあった粉末にしたマムシの粉を朝晩に薬代りに飲ませていたら、お粥はもう飽いたので蕎麦が食いたいと言い出したのが三日後だった。十日後には刺身が、二十日後には鰻が食べたいと言い出した。ひと月もすると全快し、大久保屋の大奥様の誕生日にはご祝儀と一緒にタマにお礼だといって、かつお節を手土産にやってきた。
 
 前よりも元気になったと評判で、あれ以来風邪ひとつ引かなくなったと本人が言う。ただマムシとの縁は切れず、未だに朝夕欠かさず飲んでいるそうだ。この頃ではこれが切れると手足の先が冷たくなるという。少し度がすぎるのではと、岡田屋の息子夫婦は心配している。
 
 ご隠居が連れてきた男は、上野池之端鈴乃屋善右衛門と名乗った。岡田屋さんとは親の代からの付き合いで、特にご隠居とは親子ほど年が違うが不思議と馬が合うそうだ。鈴乃屋は岡田屋のご隠居に引き合わされると、自分の商売の話を始めた。何か頼みごとでもあるのだろうか。
 
 鈴乃屋は幕府の御用商人で、お城への出入も許されていた。ただ取り扱う商品が少し変わっていて、犬や猫、小鳥や鈴虫にいたるまでの生き物一切合財である。これらの生き物は大奥からのご注文が多い。つい先ごろの月見の宴には選りすぐりの鈴虫百匹を大奥の中庭一面に放し、奥女中たちを大いに喜ばした。一点の曇りも無いすみ渡ったようなその音色は、満月に照らし出された庭一面に響きわたった。流行り病で母上を亡くし、このところ塞ぎがちだった若様に笑顔が戻り、上様もことのほか喜ばれたと、大奥総取締役の秋月の局様よりお褒めいただいた。
 
 鈴乃屋は大奥だけではなくお蔵方にも出入りをしている。お蔵方に納めているのは主に猫であるが、ただ可愛がるだけの大奥の猫と違ってお蔵方の猫には鼠退治という重大な任務がある。だからと言って猫なら何でもいい訳ではない。もちろん一番大切なことは鼠を捕るのが上手いことだが、器量や毛並みの良さも重要である。その上に猫の品格も求められる。

 なにしろ上様がお口にする米や、先君より伝えられた御書物のほかにも、有事の際に備えて常備している武器弾薬はもとより、兜甲冑の類にいたるまで納められたお蔵の中に入るのだから。その中で粗相でもしたら大変なことになる。
「このタマだって、そんじょそこらの猫ではありませんよ」
 大奥様は別にタマの自慢をしたくて話の腰を折ったわけではない。タマが顔見知りの岡田屋のご隠居の声を聞きつけてやってきたからだ。

「やぁ、こんにちは。お邪魔していますよ」
鈴乃屋はお茶を運んできたお関の後ろから顔を覗かせるタマに話しかけた。小太りで背が低く人のよさそうな顔をしているが、相手を見る目つきが何処か抜け目の無いところが鼻に付く。ところがそんな男が面白いことに、猫を前にすると感じがまったく変わって見える。

「こちらの鈴乃屋さんはね、猫好きが高じて今の商売を始めたのですよ」
 ご隠居の話によれば、名のある両替商の跡取り息子だのだが、十八の年に猫を追いかけて行ったまま、行方不明になったことがあった。けっきょく追いかけまわした猫はつかまらなかった。半年ほど経って帰ってみると腹違いの妹に婿を取り、本人は勘当扱いの届が出されていた。
「これじゃまるでわたしが若旦那を追い出したようだ」と継母はずいぶんと気に病んでいた。ところが若旦那のほうはいたって気にする様子も無く、父親を半分恐喝するようにして今の商売の元手を出させ、上野に小さな生き物屋を開いた。それが今の鈴乃屋の始まりだった。

 商売のほうは天下泰平のご時勢のおかげでずいぶんと繁盛して、鈴乃屋の身代も大きくなった。しかし未だに猫を求めての放浪癖は抜けず、時折行き方知れずになってしまう。「おかげで未だに嫁がいなくて」と岡田屋のご隠居が嘆いた。そんな話の後だからだろうか、猫に話しかけるやり手の商売人は何処か浮世離れした学者や俳人のようにも見えた。

「おや、まだちょっと緊張しているのかい」
鈴乃屋が近づくと、タマはその分後に下がる。
「なんだか嫌われちゃったかな」
鈴乃屋の問いかけにタマは小声で一声鳴いて、その場に座って毛繕いを始めた。
「おや、猫たらしの鈴乃屋さんにしは珍しいですな。お前さんがひと声かけると猫はみんなゴロゴロと喉を鳴らしながら擦り寄って来るのですがね。タマこっちにおいで」
 岡田屋のご隠居がタマに声を掛ると膝をぽんと叩いた。するとタマはご隠居の膝の上に乗って、羽織の紐に着いた房で遊び始めた。
「うーん実に美しい猫ですな。足から腹の辺りの白い毛が抜けるようにまっ白だ。おまけ頭から背中にかけての黒と灰色のサバ縞が美しい。」
「おやうちの女中が同じようなことを言っていましたよ、何でも日に当ると銀色に光るって。似た猫はいっぱいいるけどタマほど美しい猫はいないってね」
 タマのこととなると大奥様も目じりがさがる。

   猫好きが高じて今の商売を始めた鈴乃屋は、大奥様としばらく猫談義に花を咲かせていた。十八の時に鈴乃屋が追いかけて行った猫はタマのような毛並みをしていたという。それが月の光を受けると銀色に輝いて見えたという。


草むしり作「わらじ猫」中13

2020-02-21 17:04:10 | 草むしり作「わらじ猫」
草むしり作「わらじ猫」中13
大久保屋の大奥様⑬
鈴乃屋善右衛門2

「大奥様タマを手前どもにお譲りいただけませんか」
 鈴乃屋がやっと用件を切り出した頃には、お秀が二度目のお茶のお代りを運んできて、タマは岡田屋のご隠居の膝の上で居眠りを始めていた。
 何とも不思議な男だ、本来の用件を切り出したとたんに、またもとの抜け目の無い目つきの男になった。

―しかし、この男何かに似ている。
 さっきから大奥様はそのことばかり考えていた。喉まで出かかった答えが出てこないのがじれったい。大奥様の頭の中はそれで一杯だった。
そんな大奥様の前に鈴乃屋はちんまりと正座して、畳に額をこすりつけるくらいに頭を下げている。手も足もやけに短くて太くい。
―ああ、これで裃を着せたら福助様だわ。
大奥様がやっと何に似ているのかを思い出した。
―ほんとに、よく似ているわ。
と思っているのだが。もちろんそんな余計なこと、大奥様は決して口にはしない。
その代わり「まあ頭を上げて、詳しい話を聞こうじゃありませんか」といった。

 鈴乃家の話によればお城の穀物蔵に鼠が異常発生していると言う。今はまだ穀物蔵だがそろそろ米蔵のほうも怪しくなってきたようだ。このままではいずれ米蔵にまで被害がおよびかねないと言うのだ。 鈴乃家のほうも手をこまねいてみていたわけではなかった。自慢の猫たちを次から次に送りこんでいるのだが、一向にらちが開かないどころか鼠は増える一方だった。

「そこでタマに白羽の矢が立ったってことですか」
「さようでございます。この鈴乃家善右衛門にお力をお貸しください」
 鈴乃家が頭を深々と下げた。福助さまが頭をよぎりにニヤリとする大奥様であった。
「困りましたね、鈴乃家さん。力を貸してあげたいのは山々なのですがね、なにぶんタマはわたしどもの猫ではないのですよ」
「かわら版にはおなつという、ここの下働きの女中が拾って育てたとありましたが」
「瓦版のおかげでおなつもタマもすっかり有名になっちまいましたがね。そんなわけでわたしの一存ではご返事出来ないのですよ」
「大奥様ここに二十両ございます。何でもそのおなつの父親は足場から落ちて骨を折って以来、大工仕事もままならないと聞きました。この二十両があればおなつの親元の暮らし向きもめどが立とうかと思いまして、多めに用意させていただきました」

 タマは岡田家のご隠居の膝の上で相変わらず居眠りをしていた。ただ話しの中におなつと言う名前が出てくると、尻尾の先をチョコチョコと動かし、耳をピクピクとさせている。
「まあ、そんなこともお調べになったのですか。だったら伊勢屋さんのこともご存知ですよね」

「世の中にはずいぶんと勝手なことを申すやからもいるようでございます。そんな者の家の床柱で爪を磨ごうが、鍋の蓋を開けて煮しめに口をつけようが、よくやったと誉めてやりたいくらいです。しかしまあイタチとは恐れ入りました」
 普段はめったに人の悪口は言わない大奥様だったが、伊勢屋のことはよほど腹に据えかねたのだろう。鈴乃屋に聞かれるままに、昨日のあらましを話して聞かせた
伊勢屋は世間の注目を浴びたいのだろうか、それとも本当にタマは伊勢屋の猫だったのだろうか。真相は藪の中だ。ただ言えるのはいくら総檜つくりの住まいを新築しようとも、値の張る壷や皿を買い集めようと、世間での評価は成り上がりものでしかなかった。
 
   タマのことで騒動を起こしたのも、大久保屋の商品の評判の良さに対する嫉妬があったのかもしれない。昨日や今日上がるものではない評判を、伊勢屋は金で買うしかないのだろう。世間に認められるような何かを自分の物にしたかったのだろうか。それとも手前勝手の度がすぎるだけなのだろうか。近頃はこんな手前勝手が多くなったと聞くが、世間ではこういう輩をもののけと呼んでいるようだ。


草むしり作「わらじ猫」中14

2020-02-20 17:10:43 | 草むしり作「わらじ猫」
草むしり作「わらじ猫」中14 
大久保屋の大奥様⑭
噂は真実を駆逐する

「如何でしょうか大奥様タマはお蔵に、おなつは大奥ということでは」
 しばらく考えこんでいた鈴乃屋は、そう言った。タマだけ連れていって、お城でイタチなんか暴れさせたら、こっちの首が飛ぶと思ったのだろうか。
 した働きの女中から大奥勤め、本人のおなつが衝天して口が利けぬ間に話がどんどん進んでいった。

「お仲、早速昨日の反物を仕立ててやっておくれ。それから誰か目黒に使いをやっておくれ、ついでに太助の秋刀魚も届けてもらおうね。太助お前さんは長屋の両親にこのことを伝えておくれ。なに親代わりはこの大久保屋が引き受けるから、何にも心配すること無いってね。それからお関を呼んでおくれ。大久保屋から初めて大奥勤めが出るんだ、いろいろと準備もしてやらないとね」

「大久保屋のタマが公方様お抱えになるんでございます。また例のかわら版屋が書きたてることでしょう。しかし下手に隠し立てして、あること無いこと書き立てられても困りもんです。お蔵の鼠騒動の件が知れ渡ると、手前どもの首が飛んでしまいます。ここはひとつかわら版屋を出し抜くとしましょう」
鈴乃屋は自分の妙案に気をよくして大久保屋を後にした。草履を履いて表に出ようとする鈴乃屋の足元にタマがじゃついてきた。

―ずいぶんと現金な猫だな。
鈴乃屋はタマと遊び始めた。そのようすからすると、ただの猫好きの男にしか見えなかったのだか。しばらくして表に出た鈴乃屋の羽織の裾を、冬の寒さを含んだ風がハラリと舞い上げた。鈴乃屋はこれ見よがしに羽織の裏をひるがえして見せている。よく見ると羽織の裏地は、下に着ている着物の柄と同じだった。見えないところにも拘っている洒落者なのだろうか、それとも着丈が小さいので大量に余った布をただ利用しただけなのだろうか。

 鈴乃屋の打った手は猫のお練行列だった。
 隠すから暴きたくなる。ここはひとつ正々堂々と行こうというのだ。今度お城に行く猫たちは鈴乃屋が心血を注いで集めた猫たちで、タマを初めとしていずれ劣らぬ鼠捕りの名手だ。せっかくの猫たちだ、輿に乗せてお城まで練り歩こうというのだ。
「『ほれまた鈴乃屋の猫自慢が始まった』世間様はそれ位にしか見やしません」
鈴乃屋が大久保屋を訪れてから三日後にお練行列は出された。

 紋付羽織袴姿の鈴乃屋を先頭に行列が続く。さすが自慢の猫である。奴が担ぐお輿に乗せられて市中を練り歩くわけだが、どの猫も堂々としたものだ。大勢の人垣に驚いて逃げ出したり、暴れたりするもはいない。中でも赤トラ青トラと名づけられた二匹の雉猫は人々の注目を浴びた。

「見ろよ、あの猫を。南蛮から取り寄せた山猫を掛け合わせて作ったって噂は、どうやら本当らしいな」
「ああ、鼠の生餌だけ食わせて育てたって聞いたが。どうやら本当のようだな」
「見てみろよ、あの面構え。そこいらにはちょいと居ない顔だね。冷たくって鼠を捕るために生まれてきたような顔しているよ」
「おいら嫌だねぇ、あんなからくり仕掛けみたいな猫。温かみも愛嬌も何もない」
「あら、あたしは好きだわ、あんな猫。第一珍しいじゃないの。出来たらもう少し小さくて、毛が長いのがいいけど」
「鈴乃屋は南蛮から珍しい猫を取り寄せているって聞いたが、今にそんな猫も出てくるんじゃないかな」
「そう簡単生まれるモノなのかしら」
「百匹生まれた中の一匹は二匹らしいで、これはって猫ができるのは」
「だったら後の九八匹の猫はどうなるの」
「そこが鈴乃屋のぬけ目のないところだって、三味線屋と組んでいるって噂だ。何でもそっちのほうの実入りの方がいいって聞いたぜ」
 
 憶測が噂を呼び、噂は真実を駆逐する。それでも鈴乃屋善右衛門の猫自慢、猫のお練行列は続いた。

「あれが大久保屋のタマか」人々の目は行列の最後尾のタマに向けられた。
 なんせかわら版を賑わせた猫だ、一目に見ようとタマの周りには大きな人垣ができている。タマは輿の上で腹ばいになり、前足を胸の下に折りたたんで香箱座りをしている。よく見ると、下を向いて目をつぶって居眠りをしている。

 見物人は意外に小さいだの、何処にでもいそうな猫だの言っているが、知らん顔で眠ったままだった。それでも人々は輝くような毛並みの美しさと愛嬌のある小さな丸い顔に惜しみない喝采を送った。
「よ、大久保屋のタマ」何処からかそんな掛け声が湧き上がった。
聞こえたのかどうかは定かでないが、タマはおもむろに顔をあげて、大きなあくびを一つした。
「いやたいした猫だね。この場で居眠りとは、肝が据わっているねぇ」
人垣のあちらこちらでそんな声が囁かれている。

   タマのお輿に後ろにはおなつが歩いている。おなつこの一年の間に手足のほうが以前にも増してぐっと伸びたようだ。一緒に奉公をしていたお仲よりは頭ひとつ分背が高くなり、その上力仕事が得意で米俵などもひょいと担いでしまう。そのせいだろうかどうも肩幅が広い。俗にいういかり肩というやつで、実のところ男物の仕立てのほうが似合いそうな体格だった。
 ところがお仲が一晩で仕立てあげた小袖は、その長い手足やいかり肩が粋に見えるくらいに似合っていた。なんだか売れっ子の役者に見間違えそうなくらいに、見栄えがいい。たぶんお仲の仕立てが上手いのだろう。
   これもお仲の仕立てだろう、タマはとも布で作られた首輪をしている。普通だったら残り布で巾着くらいは作れるのに、おなつの場合はタマの首輪くらいにしか布が残らなかったのだろう。

   タマとおなつを見送りながらさっきから太助は涙が止まらなかった。大久保屋ではお祝いのたる酒が割られ、集まった子どもには紅白の饅頭が配られている。お秀の指図に従い女中たちは沿道の見物人に酒を振舞っている。
 饅頭をもらおうと並んでいる子どもたちのはしゃいだ声や、振る舞い酒に気を良くした男たちの喋り声が遠くに聞こえ、太助はただ涙が出るだけだった。

「太助さん、お祝いだよ。そんなしみったれて顔してないで一杯おやり」
お秀に声を掛けられても、太助はただうつろに笑うだけたった。
「あれ大変だ。お仲、お仲ちょっと来ておくれ」
お秀が驚いてお仲を呼んだ。
「どうしたの、太助さん」
「お仲ちゃん、もうついて行けなくなくなっちまったよ。おいらずっとおなっちゃんの奉公先に出入りしているだろう。九つのときに米屋に奉公に出たときなんか、おいら心配で仕方無かったんだよ。なんだか年の割りに体がでっかくて、丸太に手足が付いたようでな。頬っぺたが真っ赤で顔の色なんか真っ黒で、おいら苛められているんじゃないかと思うと、気になって気になって仕方なくって、米屋によく顔を出したものだったよ。米屋から大久保屋、やっぱり心配だったんだよ。でもな、もういくら心配してもようすを見に行けなくなっちまったよ。いくらおいらでも大奥にまで御用聞きには行けねぇよ……」
「太助さん……。だめよ、行かなくちゃ。おなっちゃんが苛められたどうするの。太助さんわたしね、子供の頃におとっつぁんとおっかさんが死んじゃったの。それからは親戚をたらいまわしにされて育ったのよ。何処に行っても厄介者でね、何か言うと『厄介者は黙っておいで』って言われたわ、だからほんとに黙っていたの。そしたらね、今度は何にも言わないヒニクレ者だって言われたの。だから今度は意地になって何にも喋らなくなったの。だけど、いくらわたしが意地になって喋らなくなっても、それに気づいてくれる人なんか誰もいなかったの。さびしいものよ、誰も気にしてくれる人がいないって。それが大久保屋に奉公に上がってすぐだったの、大奥様がね『お前は本当によく働くね』って誉めて下さったの。ああわたしのことを気にかけてくれたんだなって思うと嬉しくて、お礼を申し上げようとしたの。そのとき気づいたの、自分が喋れないのだってことが。その上ニッコリ笑おうとしたのだけど、泣き顔しか出来なかったの」

 お仲は太助に今まで誰にも話したことのない自分の生い立ちを話し始めた。太助はお仲の手を握り締めながら、初めて会ったときのお仲の泣き出しそうな顔を思い出していた。
「だからね、太助さん。タマがついていたって安心できないわ、大奥は女の園よ。いいえ伏魔殿よ。うわべは花園だけれども、奥には魔物が住み着いているの。太助さんが行ってあげなくちゃダメなのよ、おなっちゃんが魔物に食われてしまうは。頑張りましょう。いつか大奥御用達商人になれるように。わたしだってがんばるわ。二人で頑張って大奥におなっちゃんの様子みにいけるようになりましょう」
お仲は太助の手を握り返した。

「お仲ちゃん、おいら成って見せるからな、きっと大奥御用達商人になってみせる。明日から酒も賭け事も止めて、死んだ気になって働くからな」
「何だって太助、お前賭け事なんかやっているのかい」
 いつのまにか大奥様が二人の傍にいた。大奥様の後ろではお秀が太助を睨んでいる。
「いいえ滅相もございません。賭け事って言ったって、湯屋の二階でやっているつめ将棋でございまして。ほんの軽いものでございます」
「賭け事は賭け事で、軽いも重いもありゃしませんよ。お仲おいで、この縁談少し考えさせてもらわないとね」
「大奥さまそんな殺生な。止めます、止めます。金輪際賭け事には手をだしません。大奥様、大奥様………」

   見物人でごった返す中を、お仲の手を引っ張るように歩く大奥様を追いかけて、太助は大久保屋の店の中に消えていった。