草むしりの「続ことしの花火はどこにいこうかな。」
先日書いた草むしりの「ことしの花火はどこにいこうなか」は、子どもの頃の見た山下清のような人のことを書きました。当たり前のことですが、それは私の勘違いでした。ただその時お坊さんのような恰好をした物乞いが、いつも我が家に来ていたのを思い出しました。
母によればその人は物乞いではなく、祖父の友達だったそうです。祖父を尋ねた帰りに必ず寄って、庭先でお経をあげていました。お経が終わるとお茶碗を差し出し、その茶碗にお米を入れてあげていました。
ある時私が一人で家にいるときに、やって来たことがありました。当時は物乞いだと思っていましたから、怖くて仕方ありませんでした。でも勇気を振り絞りお茶碗を受けとると、お米を入れてあげようとしました。ところがあいにく米びつの中は空っぽでした。
さて困った。それからどうなったのかは全然覚えていません……。とこのようなことを書きましたが、今になって考えるとあの時母がいなかったったのは、きっと米の精米に行っていたのだと思います。
当時米の精米は「くるまや」と呼ばれる、共同の精米所で行っていました。まだリヤカーで荷物を運んでいた時代でした。私は母のひくリヤカーに乗せられて、何度か一緒に行った記憶があります。
精米所は地区の外れを流れる深い川の淵のあり、川の水の流れを利用してモーターを回していました。川に降りるには細いデコボコの坂道を降りて行かねばなりませんでした。リヤカーに揺られながらふと横を見ると、木々の間から深い谷川が見え、子ども心にも恐ろしかった思い出があるます。
私などはのんきにリヤカーに乗っているだけでしたが、それを曳く母は必死だったのでしょう。後年になってあそこに行くのが一番いやだったと話をしていました。
坂道をやっとの思いで降りると河原があり、その一段高いところに粗末な小屋がありました。小屋の下には川から水路が引かれており、仕切りの板をあげると水が流れ込んできて、ゴーっという音ともにモーターが回り、精米機がガタガタせわしない音を立てて動き始めました。
家の横を流れる小さな谷川とは比べものにならない位の大きな川と、激しい水流に怖気づいてしまい、私は母の傍を離れることができませんでした。河原で遊ぶこともできたのですが、とにかく怖くって、精米が終わるのをじっと待っているだけでした。その時間長いこと。退屈でたまりませんでした。
この怖かった思い出しかない精米所は、昭和36年の10月下旬の台風で流されてしまいました。その後地区のちょうど真ん中あたりに、電気で動かす共同の精米所ができ、母もほっとしたことでしょう。
あのお坊さんは来た時、母はどっちの精米所に行っていたのか?今となっては分かりませんが、台風がとても大きなものだったのは覚えています。家が何軒も流され、多くの犠牲者が出ました。私の同級生のお母さんや、一学年上の女の子も亡くなりました。学校で合同慰霊祭をしました。
未だに台風と言えば10月と連想してしまうのは、あの36年10月の台風があったからだと思います。