ひろひろの生活日記(LIFE Of HIROHIRO)

パソコン講習とソフト開発をしています。自作小説も掲載しています。ネット情報発信基地(上野博隆)Hirotaka Ueno

対話と感ずる事

2010年03月27日 15時01分52秒 | Light Night Buddhism(光と闇と仏法)
我が教では、対話じゃなく感じることを重んじる。感じることがなければ対話は唯単に言葉と言う情報をつたえるだけのものに成ってしまう。本もしかり、話をし、話を聞き、何を感じれるかが重要である。宇宙との対話、それは不可能かもしれませんが、宇宙の意思を感じることは誰にでもできる簡単な事かもしれません。人と人はネットワークにより繋がっているとお話しましたが、その情報は単に言葉ではなく気持ち(感情・精神)の連携であります。宇宙の感情は移り変わりますが。精神は移り変わりしません。一致、とは、感覚と精神とリズムの一致と訂正させて頂きます。
 そして、我が教では、感じる(観心)こころの対話、別にこころに向かって話せということじゃなく、自分の精神(スピリツ)を、現実には、言葉にのせ、共有的精神の連帯をやさしく無理なく広げて行けたらと思っています。それが、仏法のいう観心ではないでしょうか?自分から家族、家族から地域、地域から国、国から世界、世界から宇宙へ…
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懺悔の5日間

2010年03月27日 10時39分52秒 | 宗教と私と仕事
2010年03月27日
 主は、私に平凡な生活を約束された。その意味は、委ねられた神の力を乱用しないようにするためである。主は、「私や、民が、主から認められた子」であることを認めた。しかし、民が私を「主の子」であることを認めないのを知っていた。それは、試練である。けっして、神の業を使ってはいけない。なぜならば、人として生きる中に、モーゼのような仕草ではなく、本当のイエスの仕草があったからだ。私は、平凡な生活を神の子として約束されていたからである。私は7日間を神の子として振舞った。
 民は、その間、自分が神であると過信し、神の力が宿ったのは、「神の子で有る」からであることを忘れた。イエスやモーゼが行った神の印、それは、善の好意(民に示すため(信頼をうる)民を助けるため(子としての役目)であった。しかし、子は自分自身が神であるかのように振舞う。それは、古い聖書や新しい聖書、神の子であることを忘れてしまたからだ、主は、神の行為を私我のために行ったものに、罰を与えるであろう。そして、民は5日間懺悔し、民は、自分が子であることを思い出だすであろう。その後、主達、私たち、の真の子であることを知るであろう。私も、その罰が軽く受けれるように祈る。真の子でない者は自分の暮らすところへ戻るように。

主達、私、私達が認め、あなたが認めた、あなた方の民の為に…


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