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日本人3博士がノーベル物理学賞受賞

2008年10月08日 03時57分00秒 | 学術・教育
ノーベル物理学賞、素粒子研究の日本人3氏に(asahi.com)

日本人はこれで15人めの受賞(13・14・15)だそうです。
内訳は物理学賞7人、化学賞4人、生理学・医学賞1人、文学賞2人、平和賞1人、経済学賞0人とか。
理系12人に対して文系はたった3人ですか(汗)。

理系は文明を築き上げ、文系は文化を創造します。
どちらも豊かな国造りには欠かせないものです。いわば車の両輪みたいな物です。
むかし――といっても江戸時代以前ですが、日本は比較的この両輪のバランスが取れていたように感じます。たとえば織田信長は鉄砲という当時の最先端理系技術に惜しげも無く財を投入しましたが、一方では千利休の茶道や狩野派の絵画、観阿弥世阿弥の能楽などの文化も保護して発展させました。
哲学や宗教などにも傑出した人物が出ています。

これが理系>文系となるのは明治維新からでしょう。「富国強兵」のスローガンのもと、製鉄所や紡績工場などを次々と建設し、鉱業開発にも力を注ぐ。こうした作業に力を発揮する理系人間は国の宝として大切にされました。いっぽう思想・芸術などに没頭していた文系人間はむしろ国の発展に役立たずみたいな感じに取られます。文化人=反政府みたいになるのはこれ以降と思います。大昔は聖徳太子と仏教などを見る間でもなく、国の統治に文系=文化が大きく寄与していました。

ノーベル賞受賞者が理系偏重という今日の現実も、この流れを引いているように感じます。もちろん理系が発達するのは喜ばしいことですが、それと同じく文系=文化も本腰を入れて立て直さなければならないと痛感します。なにしろ文明も文化も国の礎なんですから。
かつて「エコノミック・アニマル」と称されて経済偏重の象徴のように捉えられた日本人から経済学賞が1人も出ていないのも特筆するべきことに感じます。これは経済力は有るが経済学は無い――言い換えれば経済の技術は持っているが経済の哲学は空虚ということかもしれません。
政治家や官僚が平気で悪いことをするのも、哲学・思想といった文化をないがしろにしてきたこの百余年間のツケのように思えてなりません。


【追記】10.08.PM10:00
ノーベル化学賞に海洋生物学者の下村脩さん(asahi.com)
今年は4人もですか。すごいですねえ。

【追記2】10.09.PM05:30
昨夜からノーベル賞受賞者のインタビューを各テレビ局が放送している。研究成果のアウトラインは大体解るが、さらに深い話になると理解が難しい。下村博士の光る蛋白質についてはほぼ理解したが……。
※癌細胞や脳神経の解明に役立つのは解った。だが「ホタルの尻や親父の禿頭が何故光るのか?」は解らない(笑)。

博士たちのインタビューを聴いていて強く感じたことがある。彼らの話は何かに似ている。
そう。たとえばアニメの話を熱く語るアニオタなどとそっくりだ。「他人にはなかなか理解されないディープな話を、なるべく解りやすいようにと、延々と熱く話す姿勢」が(笑)。
今回の、いやこれまでも含めてノーベル賞受賞者がノーベル賞を取ろうと思って研究していたのか?
答えはNoだ。
では、人類の発展に寄与しようとして研究していたのか?
それは有るかもしれないが、二番目以降の理由だろう。
博士らの話を聞いていて感じたのは、長年に渡って黙々と研究を続けてきた第一の理由は「オモシロイから」。これに尽きると感じた。
動機もアニオタがアニメが大好きなことと何ら変わらない。

「末は博士か大臣か」なんてのはもう死語かもしれないが、将来博士にするには詰め込み勉強させることではなく、「オモシロイ」と思えることが見つけられる環境作りが何よりも大切なんだなあと感じた。