😐 それは違う、と違和感が湧き上がる。
このような自国内の出来事でも歴史認識で合意を得るのが難しいのだから、国と国となら尚更だろうと改めて思う。
自国内の出来事、証人も資料も多いことがかえって合意を妨げるのだろうか。証人はそれぞれ「私が見たものが正しい。」と主張する。
かく言う私も、又。
眞子さんも…皇室の女性はなぜ叩かれ続けるのか? バッシングの歴史2021/11/21 06:00 日刊ゲンダイ
<抜粋>
私たちの記憶による皇室バッシングは、正田美智子さん(現上皇后)が、明仁皇太子(現上皇)と結婚した時だった。1959年だから60年以上も前である。バッシングの中心になったのは当時の皇族および旧宮家皇族たちである。戦前は、皇太子が結婚する相手は、近衛家、鷹司家など五摂家から選ばれた娘だったから、平民と結婚することに激怒し、美智子さんのことを「粉屋の娘」とさげすんだ。
😇 ”粉屋の娘”Miller’sdaughter と、呼んだのは欧米誌です。
「海外の報道はMiller’sdaughterが皇太子と結婚したシンデレラストーリーとして好意的に報じている。」と見出しに大きくMiller’sdaughterの文字が踊る欧米誌の写真と共に日本の報道社が伝えたとき、日本人は「粉屋といっても日清製粉だから、美智子さまは深窓のご令嬢。シンデレラじゃないよなー。(海外の報道は何も知らない。)」という反応でした。これは、今回の「眞子圭結婚」が海外で的外れに称賛されるのと似ていますね。笑。
皇族、旧皇族華族が蔑んで口にしたのは「上海夫人」でしょう。美智子さまの母、正田富美子さんの上海生まれ上海育ちを蔑視した。戦前戦中の内地と外地の差を知らないと「上海夫人」の侮蔑的ニュアンスを汲み取ることは難しい。
美智子さまは「上海夫人」の娘だと。
当時は今回とは逆で、そんな(注:旧勢力による)美智子妃バッシングをそのまま取り上げると、逆に雑誌は売れなかった。
😇 否々々。売れてましたよー。美智子さまが生まれたばかりの浩宮を抱いて車中から報道陣に微笑んでいるのを後ろから怖ーい眼で睨んでいるオバサンの写真を載せた週刊誌は飛ぶように売れていた。
この写真の美智子さまも、後ろに怖いオバサン(牧野純子女官長)がいるから引き立つのです。後ろのオバサンがいなかったらごく普通の平凡な記念写真で終わったでしょう。
御成婚以来週刊誌は皇室内の旧勢力と美智子さまの軋轢を徹底的に美智子擁護の立場で書き続けましたが、美智子さまを擁護するには、同時に美智子さまが受けているバッシングを書く必要があります。国民はこの写真一枚で、週刊誌のが書く旧勢力による美智子さまバッシング記事を信じ込んでいったのです。
美智子さまを引き立てるには悪役の存在が絶対に必要で、週刊誌は封建的旧弊勢力VS戦後日本の新しい皇室の象徴美智子妃、という解りやすい構図で記事を書くことで部数を伸ばして行ったのではないでしょうか。
😇 『週刊ゲンダイ』が書くように、美智子妃バッシングをそのまま書くと雑誌が売れなかったということは全くなく、むしろ「皇室内で理不尽なバッシングを受ける美智子さま」を書かなくては週刊誌は売れなかったと見るほうが正しいのではないでしょうか。
「理不尽なバッシングを受ける平民妃」を記事にして、国民の支持を受けた成功体験を忘れられなかったのか、同じ手法を雅子妃に使って、あまり成功しなかったのは、美智子さまと違って、雅子さまの悪役を漠然とした世評すなわち国民に求めるしかなかったからではないでしょうか。
次に皇室バッシングが起こったのは、昭和から平成に変わった時である。長く続いた昭和の時代は終わり、平成に変わると、新しい天皇は平成流の象徴天皇像を示し始めた。それが「国民に寄り添う天皇像」である。たとえば、被災地で被災者と向き合う時、ひざまずいて目の高さを同じくした。昭和天皇を知る人には、これまでの天皇像が一気に崩れてしまうほどの衝撃だったようだ。<中略>ただこれも、天皇皇后が国民の価値観に寄り添ったということで、批判はそれほど大きく広がらなかった。
😇 国民の価値観に寄り添った・・・モノは言いようですね。
国民に媚びてみせた。というべきでは無いでしょうか。
ただし、上皇が初めて膝をついたのはまだ皇太子だった1985年(昭和61年)11月29日、三原山噴火で千代田区の体育館に集団避難してきた大島島民を慰問されたときです。
皇太子が膝をつくのと、天皇が膝をつくのとでは意味が大いに違う。国民が仰天したのは、天皇が国民に膝を屈したからです。
同じく昭和61年5月、皇太子だった上皇はこう述べている。
<天皇と国民との関係は、天皇が国民の象徴であるというあり方が、理想的だと思います。天皇は政治を動かす立場にはなく、伝統的に国民と苦楽を共にするという精神的立場に立っています。このことは、疫病の流行や飢饉にあたって、民生の安定を祈念する嵯峨天皇以来の写経の精神や、また「朕、民の父母となりて徳覆うこと能わず。甚だ自ら痛む」という後奈良天皇の写経の奥書などによっても表われていると思います>
😇 あれーーー??令和の天皇の「嵯峨天皇がー、後奈良天皇がー」の元ネタはこれですか令和の天皇は、つくづく自分の頭で考えないかたなのですね。
やがて1993(平成5)年に、やはり美智子皇后へのバッシングが起こる。皇后という権力を握って、宮中で居丈高に振る舞っているといったあまり根拠があるとも思えない内容だったが、バッシングの中心は長く昭和を生きた人たちで、いわば昭和のスタイルが壊れていくことに我慢がならなかったのだろう。
😐 そりゃね。実際、昭和の天皇が愛した林を切り倒して新御殿を建てれば、昭和天皇の遺徳を偲ぶ国民が呆れてもしかたない。
美智子さまの悪評の出所は宮内庁職員でしたが、まるっきり根も葉もないこととは思えず、、、例えば、友人を招いて夜遅くまで話し込み、お茶やサンドイッチ、夜食の注文が来るので、大膳職は就労時間を過ぎても帰るに帰れない。とか。後年、今上が遊びに来て夜遅くまで話し込む雅子さんに大膳職に夜食を作らせて持てなした。という報道あるくらいだから、当時美智子さまが同じ事をしていても、不思議は無い。
結局、美智子皇后が倒れ、失語症になったことで世論は変わるのだが、今回の眞子さんの場合も、状況はよく似ていたといえるかもしれない。
😇 世論が変わった、というより、週刊誌が見事にパッタリと報じなくなった。
週刊誌が報じなければ、噂しようが無い。
ただし、一旦疑念を持った者達はいきなり報道が止んだことと相まって、次第に美智子さまの実像に疑念を持つようになって行ったようです。
今回の眞子さんの場合も状況は似ていますが、週刊誌が全く報じなくなった美智子さまの時と違って、トーンダウンしたものの報道は続いているところが違う。背景には皇室への国民の信頼が薄れていることもあるのではないでしょうか。平成の天皇皇后が皇室を大衆化庶民化していったのに従って、皇室を見る眼も芸能人を見る眼もそう変わらなくなっていった。大衆は芸能人を消費するように皇族も消費するようになったからではないでしょうか。
そして、平成の天皇皇后の「皇室の大衆化、芸能人化路線」に力を貸したのは、週刊誌だと思います。
『週刊ゲンダイ』は、次は眞子さまバッシングについて考察するようですが…。
私も昔、牧野女官の睨みにおののき美智子さまお可哀想と思っていました。その後、御所の木の伐採あたりからあれ?と。
あと、入院されていた美智子さまが退院されて玄関でご挨拶されて陛下の肩に頭を乗せたことがありましたね。
あれは驚きましたわ。雑誌のポイントがわかっているのだなぁと。
美智子さまは常に指の先からつま先まで美しく見られるように意識していらっしゃったことが古い映像からも解ります。
お見舞いでも慰問でも、です。
思うのですが、あんなに見栄えを気にしながら慰問されても、癒やされるものでしょうかね。癒やされるより緊張してしまうような気がしますが?
慰問で癒やされたのは美智子さま、雅子さまのほうでは無かったでしょうか?