モー吉の悠悠パース留学絵日記

この日記では、パースでの留学生活での出来事を中心に、心象風景を交えて、写真とエッセイにより、絵日記風に綴っています。

日本へ ー残された憧憬を訪ねてー

2014-01-25 01:30:31 | 今日を旅する
日本へ ー残された憧憬を訪ねてー

 二回目のパースでの正月を、のんびりと過ごした私は、1月6日にパースを立ち、日本へ向かいました。
 今回も一人での一時帰国となりました。妻と娘が今日から英語学校が始まったためです。


 今回のフライトでは、オンラインでチェックインをすましていたので、ゆっくりしていたら、交通事情が悪く、フライトに遅れる寸前でした。そのため、空港で買う予定であったお土産品を買う時間がなくなったため、シンガポールのChangi空港で買うこととなりました。
 Changi空港では5時間近くの待ち時間があるため、買い物と軽食を済ませ、いつものように、後はテレビを見ながら、ソファでうつらうつらとしながらゆっくりしていました。
 このChangi空港は、現在の旅人たちの疲れを癒す空の交通の拠点になっていますが、シンガポールが、昔も海のシルクロードの交通の要衝点として、旅人たちのオアシスであったことは、今も昔も変わらないことのようです。




 いつものように、朝方に中部国際空港に着いた私は、これもいつものように、ユニクロで冬物の下着の入ったone day バックを買い、空港の銭湯で旅の疲れをとり、夏物の下着から冬物の下着に着替え、銭湯の食堂で、名古屋名物のきしめんを久しぶりに食べ、ピールを飲みながら、故郷の味を堪能していました。
 名古屋の家は、冬ということもあって、心配していた雑草も少なく、庭木の枝もあまり伸びていなかったので、庭師さんに剪定をしてもらう必要はありませんでした。しかし、三ヶ月以上家を空けていたので、これもいつもどおり、まずは窓を開け放して空気を通し、家の各部屋を掃除をしました。
 今回の一時帰国の主たる目的は、税金の確定申告などの手続きです。それ以外の細々した用事を書き出した後、私の実家や友達に電話をして、滞在の8日から14日までのスケジュールをたてることにしました。

 翌日の8日には、偶然にも亡き父と母の法事があるとのことで、私は急遽その時間に間に合わせるため、朝9時に実家に赴くことになりました。
 私が着いたときには既に法事は始まっており、6人程の人が集まっていました。実家には、また週末に来るため、その日は法事だけを済ませ、名古屋に帰りました。
 その後、郵便物の転送先を依頼している税理士さんの所へ赴き、郵便物を受け取り、パースの写真をみせながら、よもやま話に花をさかせることになりました。税理士のNさんはとても良い人で、われわれが安心してパースにいられるのも、Nさんのお陰と感謝している次第です。

 その後、届いていた前回手続きした車検証をもって、フォルクスワーゲンのディラー先へ赴き、車検済みのラベルなどを車に張ってもらい、車検のすべての手続きを完了しました。いつものようにHさんが、親切に応対してくれ、コーヒーをいただきながら、パソコンでパースの写真をみせて、我々の近況の話に花をさかせ、久しぶりに故郷での楽しい時間をもちました。
 
 その日の夕食は、日本に帰国したときにいつも来ているイオンに入っている寿司屋で食べることにしました。この店は、回転寿しですが、カウンターで直接板前さんに注文することも出来、北陸産の新鮮なネタを提供してくれる店で、回転寿しとしては少し値が高いですが、その分味は上々です。その上、そこには、私の好きな金沢の銘酒黒帯が置いてあります。そこで、私が好きなネタを一通り食べると、おおよそ5000円程です。

 翌9日は、郵便局での妻の簡保年金の手続きと、パースへ持って帰る品物を揃える準備などをする予定でいると、市役所の友人のK君から電話が入り、今日三時に時間がとれたとのことでしたので、郵便局での用事を早々に済まし、街へでることにしました。
 3時までに時間があったため、日本に帰国した折りには、必ず食べている山本屋の味噌煮込みうどんを食べてから、待ち合わせの本屋に赴きました。
 彼が案内してくれたのは、名古屋の中心地に昔からある由緒ある喫茶店「エーデルワイス」でした。その店内は、私も20代の頃に訪れており、昔そのままの面影を残すたたずまいで、なつかしくも、嬉しい限りでした。



 その日は、カメラをもっていませんでしたので、彼のカメラで写真を撮ってもらいました。彼はクラッシックカメラの収集家でもあり、、たくさんの古いカメラを持っています。写真の腕も確かで、いつも写真談義に花を咲かせることのできる親しい友です。
 彼の話によれば、この店の今と昔との違いは、店長(二代目)と店内に置かれているインターネット用のパソコンだけとのことでした。
 この「エーデルワイス」については、彼がブログで紹介していますので、彼のブログにアクセスするとその今昔が良く解ります。(彼のブログは私のブログでリンクしている「でこちんのいつかありしこと」です。)


 前日、飛び込みの予定が入ったため、10日は忙しい1日となりました。
 まず午前中に、税金の相談のため市役所の共済組合に赴きました。私の後輩の女性が今も元気に働いており、今日も彼女が親切に相談に応じてくれ、年金収入については、申告の必要がなくなったとのことでした。共済組合からは、パースへも郵便が送られて来て助かっています。
 その後、私の昔の後輩からメールが届いていましたので、その後輩に会って一緒に昼食をとろうと、連絡をしましたが、あいにく昼からの出勤ということでしたので、私はひとりで、市役所時代によくいった「木屋」という鰻で有名な店に赴きました。この店は、名古屋城の外堀に面した古くからの店で、玄関は昔のままのたたずまいを残しており、私は外堀の見える一番奥の窓際の席に陣取り、昔を思い出していました。鰻丼を食べると、昔のままの味で嬉しい限りでした。
 昼食の後、彼に会うまでに時間がありましたので、その店の近くの、私が三年間務めた市政資料館に赴きました。
 この建物は、国の重要文化財にも指定されている大正時代のレンガ造りの建物で、昔の裁判所を再利用した公文書館です。この場所は、私の思い出深い場所で、当時はまだ皆無であった、文化財での音楽会や結婚式を初めて行ったところです。
 今日その場所を訪れると、展示室に音楽会や結婚式の写真がたくさん展示されており、今やそれらがメジャーとなったことが伺われ、当時の我々の決断が間違っていなかったと確信した次第です。
 見学の後、メールをくれた後輩と市役所の喫茶店で会いました。
 彼とは、見学した市政資料館で三年間一緒に働いたことがあり、話が弾みました。彼は学芸員の資格をもっており、当時、そこで企画展示も担当していましたが、現在は予算がなくなり、企画展は行っていないということで、大変残念に思いました。彼は私の留学生活にも興味を持っているようで、ブログもよく見てくれていましたので、パソコンでパースの様子を説明してあげると、大変喜んでくれました。
 想えば、当時若かった彼は、既に大英博物館やルーブル美術館を見学しており、私は大変感心していましたが、今や50歳の人生のターニングポイントにさしかかっており、これからの行く末を考えているのだろうかと想うと、彼を応援したい気持ちで一杯でした。そして、話はつきませんでしたが、彼は仕事があるので、1時間あまりで市役所を後にすることにしました。

 その日の夜は、私の実家の近所の人たちとの宴会に呼ばれていたので、車で実家へ赴きました。私の実家のあたりは、今時には珍しく、昔ながらのコミュニティ付き合いが残されており、月に一度の宴会が、すぐ近くの飲食店でいつも行われているようです。人数も六、七人といった所で、丁度私と同じ世代の人が二人いるので、いつも話が弾み、今回が三回目の参加になりました。
 翌11日はうっすらと雪化粧をした寒い朝となりました。


 起きると今回も、部屋に置いてある博多人形が冬の日射しを浴びて神々しく輝いていましたので、早速写真を撮ることにしました。前回撮った写真は、専門の写真コースの課題写真として提出して、大変良い評価を得ましたので、母の形見の博多人形には感謝をしている次第です。






 写真撮影後、お墓参りをすましてから、私は幼さな友達のI君に会いにいきました。二月に中学の同窓会があるとの連絡を受けていましたが、出席できないこともあって、是非久しぶりに会いたいと願っていたからです。



 彼とは小学校時代からの付き合いで、中学まで同じ野球部に所属していました。また、彼の家も同じ町内で、彼の家は親父さんの時代からの洋服屋で、彼は大学を卒業してからその店を引き継いでいました。私の親父の工場の従業員用作業服は、すべて彼の親父さんの店で注文していたこともあって、その時代からの親しい友人です。彼とは三年程会っていませんでしたが、相変わらす元気な姿で、お互いに安心したようでした。
 ただ最近は、好きで続けていたソフトボールを、体のことも考えて止めたということでした。いづれにしても、同じ世代の友の元気な姿を見るのは嬉しい限りです。

 翌12日は大学時代の友達と会う約束があったので、朝早々に名古屋へ帰り、集合場所の名古屋駅へ行くことになりました。
 彼らとは5年以上会っていませんでしたが、今回は岐阜のN君の計らいで、私を含めて4人が名古屋駅に集合することになったのでした。驚くことに、わざわざ東京に住む独身貴族のNH君も来てくれると言うことで、嬉しいかぎりでした。
 全員以前とあまり変わらず、元気そうな面持ちでしたので、大学時代に帰ったようでした。私がJRタカシマヤのレストラン街を案内しましたが、あいにく日曜日とあってどこも満員でしたので、タクシーで中心街の栄へ赴き、日本料理店の木曽路に入ることになりました。




 尾西のM君は木材加工業の社長、東京のNH君は独身貴族、岐阜のN君は県庁の元公務員と、それぞれの近況を語り合いながら、昔をなつかしみ話は尽きませんでした。
 それで、名古屋の定番喫茶店コメダへ場所を変え、話の続きをすることになりました。
 NH君は55歳でZ公庫を退職し、その後は悠々自適の独身生活を謳歌して来た正真正銘の独身貴族です。
 N君は大学時代2度下宿をともにした仲で、特に二度目の下宿は、思い出深い場所です。そこは、江戸時代に遊郭のあった東の郭と呼ばれた地区の近くの古い街並の残る民家でした。昔、芸子であったと思しき老女が営む二階の下宿で、ふすま一つで隔てた部屋にそれぞれ我々は住み、自由に暮らしていました。彼とは、その古い街を知るために、新聞配達を1年弱経験した楽しい思い出があります。
 M君は家業の木材加工業を引き継ぎ、我々公務員とは比較にならない程の苦労をしたものと想います。
 私は、遠路はるばる駆けつけくれたNH君を始め、集まってくれた彼らに感謝し、留学生活の近況をパソコンに納められた写真で説明するとともに、一度皆でパースの地を訪れてくれることを願ったものでした。





 友と別れた後、私は久しぶりに夜の帳のおりた街のネオンの灯の中を歩くことにしました。その時、私は、電飾の揺らぐ光の向こうに、先ほど語り尽くした私たちの遠い日の憧れを、確かに見たような気がしました。



 翌13日は、市役所の友達と会う約束をしました。今回は、前回会えなかったK君の計らいで、名古屋駅近くのホテルの中華料理店でのランチとなりました。
 K君は、9日にエーデルワイスで会った時とはうってかわって、クラッシックカメラマニアらしく首から古いカメラをぶら下げた颯爽としたスタイルでした。彼の計らいによるその店は、彼が常連とする店で、ゆっくりと食事を楽しめる雰囲気の素晴らしい店でした。我々は、若いウェイトレスのもてなしと、昼から紹興酒を沢山飲んだこともあって、ほろ酔い気分でおおいに話が弾みました。











 そこでは、それぞれの近況を語り尽くすには時間がたりず、我々は名古屋駅から堀川沿いの喫茶店コメダに赴き、話の続きをすることにしました。
 今日は成人の日とあって、行きすがらの街には和服姿の乙女も見受けられ、私たちは一層昔を懐かしむ心情となりました。
 K君とHT君はまだ元気に働いており、HK君は地元史の研究に精を出しており、それぞれ元気な様子でしたので、私も大変励まされました。
 我々が近況を語り終えたとき、既に夜の帳がおりていました。






 喫茶店の外に出ると、堀川にかかる古い橋、桜橋の欄干にある桜を模した灯籠の灯が、私たちを暖かく迎えてくれました。そして、その灯の向こうには、先ほど語り尽くした私たちの残された憧憬が、走馬燈のように揺らいで浮かんでいました。


 この走馬燈のような風景をながめながら、そのゆらぎの向こうに、彼らとの記憶の断片の数々が、浮かんでいるようでした。
 そして、私は、20代の頃、何百回と聞いた小椋佳さんのLP「残された憧憬~落書~」の中の一節を、心の中で口ずさんでいました。

遠い絵模様 誰の顔だろう
揺り起こして 重ね合わせて
今日は 
残された憧憬を訪ねて
歩いています
   







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