日々是好日

撮った写真や思っていることなどを気の向くままに書いています。

ニュージーランドの旅③ テカポ

2021-02-05 07:00:00 | 海外旅行

クライストチャーチから、「テカポ」に移動した。

3時間ほどのバスの旅だった。

テカポは南島のちょうど真ん中辺りにあり、大きな湖「テカポ湖」の南に位置している小さな街。

湖周辺は保養地になっていたり、長距離バスの休憩地にもなっているので、多くの観光客が訪れる街になっている。

そして何よりもここは世界一星空が美しいといわれている場所。

南半球でしか見られない南十字星も見られ、星空はプラネタリウムのようだとも。

また、「ニュージーランドに行くなら絶対に外せない」と言われている「善き羊飼いの教会(Church of the Good Shepherd)」もこの街の湖のほとりにある。

ニュージーランドのポスターには必ず使われている、石造りのこの小さくて素朴な教会がどうして人を惹きつけるのか分からないが、ひっそりとした雰囲気、目の前のミルキーブルーの湖、周辺の雪が残っている山々など、並外れた美しさの自然の中にあるから、フォトスポットとしても最高なのかも。

 

 

 

 

[善き羊飼いの教会]

 

[教会の隣に建てられた牧羊犬の像]

この地に最初に入植した人のただ一つの仕事が羊を飼うことだったので、その相棒として重要だったのが牧羊犬だったらしい。

湖に向かって立っている像は絵になった。

 

この日は夕方から星空を見に行くツアーも計画されていたが、天気に恵まれなかったため催行中止となり、せっかくのテカポのプラネタリウムのような星空が見えなくて残念だった。

ホテルは湖のすぐ上でとても便利な場所にあった「ペッパーズブルーウォーターリゾート」

満天の星は見えなかったが、部屋からはテカポ湖が一望できた。

 

 

 

翌日はマウントクック国立公園からクイーンズタウンに向かう予定になっていた。

 

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ニュージーランドの旅② クライストチャーチ2日目

2021-02-04 07:00:00 | 海外旅行

クライストチャーチ2日目は市内観光。

一番人気でクライストチャーチのシンボルとされてきたゴシック様式の「大聖堂」

 

 

[在りし日の大聖堂]

 

[大聖堂前を走る路面電車]

 

これらの写真も今では貴重なものになってしまった。

当時の大聖堂前の広場は市民の憩いの場になっているようで、大勢の人が集まっていた。

マーケットが開かれ、路面チェスをしている人、パフォーマー、逆バンジーなどをして遊んでいる子どもたちなどもいて、本当に和やかな場所だったのに・・・・

 

 

 

地震の後ずっと正面の窓や西側の壁がほとんど崩壊したままの形で残されていたが、やっと再建の話もまとまってきたようで、2017年には修復することが決定した。

修復終了までは10年位かかるとか。

現在、再建されるまでの間、特殊加工された紙の建築資材を使った大聖堂が建てられているらしい。

教会も内部の祭壇もすべて紙製で、おしゃれな大聖堂となっているようで、この設計は日本人建築家がによるものだとか。

 

大聖堂の次は「追憶の橋」

 

 

[追憶の橋]

 

市街を流れるエイボン川にかかる橋で、第1次大戦の時、戦地へ赴く兵士たちは家族に見送られ、この橋から出発した。

どこの国でも人の思いは同じで、戦地での兵士たちはこの橋を思い出していた、ということから「追憶の橋」という名になったらしい。

 

[アートセンター]

 

エイボン川で川下りのボートに乗ろうと思い、歩いているときに見つけたおしゃれで重厚な石造りの建物「アートセンター」。

かつてはカンタベリー大学の旧校舎として使用されていたが、ここも地震の被害を受けたが修復されたらしい。

ここでは様々なアート作品を見たり、購入したり出来るとのことだったが、中には入らなかった。

 

「エイボン川 川下り」。

エイボン川はクライストチャーチの街の中心を蛇行するように流れている。

川べりの散策も良いけれども、川下りする船に乗ることもできたのでチャレンジしてみた。

小さなボートに7~8人で乗り、船頭(?)さんは昔ながらの格好をして、長い竿で船を漕いで川を下った。

日本の川下りと同じような感じだったが、周りの風景が違っていた。

時々カヌーなどとすれ違ったり、水鳥が泳いでいたりしてとても大都会の街中とは思えない雰囲気だった。

 

 

 

 

 

クライストチャーチ2日目も終わり、前日と同じホテルに戻ったが、まだ陽が高かったので、夕方のハグレー公園を散策した。

 

 

 

[ハグレー公園]

 

たくさんある公園の中でも一番大きな公園で、芝生、噴水、花壇などが整備され、公園内には植物園、バラ園、温室、スポーツ施設などもあり、やはりこの街は「ガーデンシティ」だと思った。

 

翌日はカンタベリー平原を走り、「テカポ」に行く予定。

 

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ニュージーランドの旅① クライストチャーチ1日目

2021-02-03 07:00:00 | 海外旅行

今まで旅行先を決める時、「今のうちに見ておかないと」と思って決めた場所が多かった。

それで大規模修理前の姫路城、出雲大社や餘部鉄橋、いずれは消えてしまうかもしれない言われる北海道のタウシュベツ橋梁などに行った。

それらは自分で選んで行った場所だった。

でも、自分の意思とは関係なく、行った後すぐ、何らかの理由でもう見られなくなってしまった場所も多くある。

例えば熊本城、地震が起きたのは2016年4月、その前の月に行ったばかりだった。

三陸鉄道も東日本大震災の少し前に行った場所だった。

火災で無くなってしまった首里城も。

海外ではノートルダム寺院もそうだった。

再建されたとしても残念ながら、以前のものはもう見ることはできない。

 

少し前の話になるが、クライストチャーチの街もその中の一つだった。

この街は2011年2月、カンタベリー地震で、甚大な被害を被った。

その場所に行ったのは地震の3ヶ月前。

ニュージーランド周遊ツアーにに参加した時だった。

 

      

ニュージーランド、クライストチャーチは英国風の街並みが続き、たくさんの庭園があるので「ガーデンシティ」と呼ばれている。

北島のオークランドで乗り継ぎ、南島のクライストチャーチに移動した時はもう午後になっていた。

ここで最初に行ったのが、一般家庭の訪問。

比較的大きなこの家は観光客を受け入れ、生活の様子や庭をみせてくれている。

アフタヌーンティーを楽しんだり、庭を散策したりして1時間ほどを過ごした。

 

[豪華なリビングでアフタヌーンティー]

 

 

 

[咲いていた花]

 

日本とは季節が違うので、咲いている花も違っていた。

これだけきれいに手入れされた庭ならば誰かに見せたくなるのも分かる気がした。

クライストチャーチではこのようなお宅があちこちにあり、ツアーもたくさん組まれているようだ。

 

その後はすぐ近くにある「モナ・ベイル」へ。

「モナ・ベイル」はクライストチャーチの観光地の一つになっている場所で「ガーデンシティ」の代表的な場所だった。

 

 

 

門を入ったところから広い公園のようになっていて、花がいっぱいだった。

 

 

「モナ・ベイル」は元々は大富豪アニー・タウンエンド夫人の邸宅だったらしい。

ビクトリア様式の洋館で、1階カフェ、2階は結婚式やパーティーなどの会場となっていた。

 

 

 

建物も素晴らしかったが、それよりも敷地内の英国式の庭園やバラ園などの方に興味を引かれた。

まぁ、とてもこれが個人の邸宅だったとは思えないほど広い。

敷地の中にはエイボン川がまでもが流れているのだから。

 

 

 

ニュージーランド1日目は終了し、ホテルはすぐ近くの「シャトーオンザパーク」だった。

このホテルは目の前に有名なハグレー公園があり、カンタベリー博物館、ボタニックガーデンへも徒歩で行くことができ、とても便利な場所にあった。

やはりホテルの庭も花がいっぱい咲いていた。

 

 

 

翌日はクライストチャーチの市内観光の予定だった。

 

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長白山

2021-01-22 07:00:00 | 海外旅行

緊急事態宣言が出てしまい、不要不急の外出をしないようにお願いされると、旅行写真でブログを書いている身には辛いものがある。

話題がないのだから。

そこで、今回は少し古い話を書いてみた。

 

自分には中国人の友人がいる。

彼女の出身は吉林省延吉市、そう、北朝鮮に近く、脱北者の多い地区、それで分かると思うが、漢民族ではなく、朝鮮民族なのだ。

だから言葉は韓国語、もちろん中国語も話す。

その彼女と一緒に中国国内のさまざまな場所を旅した。

その中でも少し変わった体験のことを書いてみようと思う。

 

ちょうど20年前のこと、彼女と一緒に長白山に登った。

「長白山」とは中国語表記で、韓国語では「白頭山」と書く。

この山の頂上は中国と北朝鮮の国境になっていて、北朝鮮の「金正日」の生まれた山としても有名になっている。

登ったのはもちろんその山の中国側の方だった。

中国国内ではある程度有名な観光地になっている場所だった。

 

北京乗り換えで延吉に入り、前泊した。

この時、言われたのは「ホテルでは絶対に日本語を話さないこと」だった。

というのは、日本人だと宿泊料が高くなるらしい。

だからホテルではすべて彼女にまかせ、後ろに付いていっただけだった。

 

朝の暗い内に延吉のホテルを出発して長白山に向かった。

途中の朝鮮民族の村で朝食を食べた。

この辺りにはレストランなどは無く、普通の民家だった。

詳しくは覚えていないが、犬のスープなどがあったような

旅行者に食事を提供して生計を立てている、といったことも普通らしかった。

 

長白山までは4~5時間、ずっと田舎道と山道だった。

途中には「長白瀑布」と温泉があった。

長白瀑布は高さ68mもあり、絶壁を一気に流れ落ちる素晴らしい滝、温泉は誰もいない小屋があり、コンクリートの湯船があっただけだった。

長白山に近づくにつれてレストランや宿泊施設も多くなり、長白山の山門に着いた。

入場料を払った先には客引きがたくさん待っていた。

ここから山に登るのには徒歩は禁止、四駆車を利用しなけらばならなかったので、その客引きだった。

車はパジェロが多かったと記憶している。

値引の交渉をするのが当たり前らしかった。

ガードレールは無く、石がゴロゴロとした道、下は断崖絶壁だったので、20分くらい怖い思いをしながら車に乗せられ、着いたのが山頂下の駐車場。

そこから天文峰展望台までは楽な山登りだった。

長白山頂上の展望台の500mほど下にはカルデラ湖「天池」があった。

「これを見ずして長白山に来たと言ってはならない」という言葉があるほどなので、やっぱり素晴らしかった。

 

[天文峰から見た天池]

 

天池を見て満足して、その後は「図們」に寄ってみた。

ここも北朝鮮との国境の街。

 

[図們国境大橋]

 

橋の向こうは北朝鮮になっている。

橋の中央に国境の線と監視所があり、そこまでは行くことができた。

お互いの住民たちが大きな荷物を背負ったりして、自由に行き来している様子が意外だった。

もちろん通行手形のような物があるのだとは思うが・・・

手前の図們側は賑わっていて、向かい側の北朝鮮の方はひっそりとしていた感があった。

そして図們側には公園のような場所があって、観光地にあるような望遠鏡があり、北朝鮮側をのぞけるようにもなっていた。

望遠鏡をのぞいている観光客もたくさんいて、何となく中国側から北朝鮮側を見下しているような雰囲気が感じられた。

 

珍しい体験だったので、思い出しながら書いてみた。

残念なのが写真が少ないこと。

まさか数年後にブログに載せるなどとは思わず、昔の写真はデジタルではなかったので、ほとんど処分してしまったから。

 

 

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スリランカの旅⑦ ゴール(ガル)

2021-01-20 07:00:00 | 海外旅行

 

キャンディからは海岸沿いに出て、高速道路を使い「ゴール(ガル)」まで移動した。

それでも約6時間かかった。

スリランカの南西海岸は「黄金海岸」と呼ばれ、黄褐色の色をした砂のビーチが数十キロに渡って続いていて、その南端が「ゴール」の街になっている。

ゴールに着く手前、アンバランゴダとヒッカドゥワの間に大仏があった。

これは2004年のスマトラ沖地震の際、スリランカの海岸沿いでも多くの犠牲者が出た。

この辺りで、コロンボ発ゴール行きの列車が津波に流され横転してしまったらしい。

その時に犠牲になった人たちを慰霊するために、京都本願寺が建立した大仏(ツナミ・ホンガンジ・ヴィハーラ)だとか。

あちこち回ってみると日本の○○が寄付したとか、援助したとか、たくさん見かけられた。

結構日本とつながっているんだ、と感じた。

 

[ツナミ・ホンガンジ・ヴィハーラ]

周りは公園のように整備され、慰霊碑もあった。

 

大仏の前の海岸で休憩をとった。

ちょうど地元の人たちが地引き網をしていて、一緒にどうぞということだったので、仲間に加わり、何と言っているか分からないが、みんなで大きな声でかけ声をかけて綱を引っ張った。

思わず楽しい体験をすることが出来た。

 

 

ここからゴールに行く途中で昼食だった。

やはりビュッフェ方式のレストラン。

毎日いろいろな種類のカレーのような物が多かった。

美味しかったのだが、少し飽きてきた。

 

 

ゴールに着いた。

スリランカ南端の街、ゴールは、世界文化遺産「ゴールの旧市街とその要塞」に登録されている。

この街はかつてアラブ人の貿易地として発展した港街だったが、その後、ポルトガル、オランダの植民地となり、オランダはここを城塞都市とした。

そして更に、イギリスの植民地となったが、砦などは壊されることなくそのまま利用されていた。

ゴールは常に植民地の拠点となってきた街なのだった。

 

インド洋に突き出した小さな半島を要塞で囲み、その中に旧市街があった。

要塞の中にはキリスト教の教会、モスク、仏教寺院などがあり、一歩足を踏み入れれば、オランダ・イギリスの植民地時代が思い起こされるようだった。

 

[オランダ改革派教会]

スリランカで最も古いプロテスタント教会。

 

[オール・セインツ教会]

サンゴ石で出来た壁が特徴的なイギリス国教会の「オール・セインツ教会」。

 

 

[街並み]

植民地時代の街並みは、コロニアル調の建物に赤茶けた瓦屋根が特徴だった。

 

[時計塔]

旧市街のランドマーク、砦の上に立っている。

 

[灯台]

岬の先端に立つ高さ20mの白亜の灯台。

初期の物は焼失したため再建された。

 

[海岸沿いで見かけた花嫁]

 

[ゴールの紋章]

紋章の一番上にはニワトリが乗っている。

「ここに着いた西欧人がはじめて聞いたのがニワトリの声だったから」と、ガイドさんが教えてくれた。

 

仏教寺院が数多いスリランカの世界遺産の中で、「ゴールの旧市街とその要塞」は趣が違っていた。

 

スリランカの旅も終わった。

8ヶ所ある世界遺産の内、6ヶ所を回ったことになる。

明日はコロンボに行くだけだった。

コロンボ空港が改装中のためチェックインは5時間前となっていたので、コロンボ市内を観光する時間はとれず、空港から成田に直行となった。

 

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