この日の予定はトロギールからスプリットに行き、その後はお隣の国、ボスニア・ヘルツェゴビナを少しだけ観光してから再びクロアチアに帰ってくるという、忙しい予定だった。
数回国境越えをしなければならなかった。
島国の日本に住んでいると国境越えは大それたことだと思うが、陸続きの国だったら大げさに考えないで普通に行き来しているようだ。
トロギールからスプリットまでは30km、40分くらいで着いた。
スプリットはザグレブに次ぐクロアチア第2の都市で、 古代ローマ帝国のディオクレティアヌス帝の宮殿があった。
皇帝の死後、数百年の間には宮殿も廃墟となってしまった。
宮殿跡の廃墟に市民が勝手に家を建てたりして、住みついてしまったのがこの街の起源となっているらしい。
その街が「ディオクレティアヌス宮殿があるスプリットの歴史的建造物群」として 世界文化遺産となっている。
[ディオクレティアヌス宮殿の城壁]
外側から見ても何となく廃墟だった感があった。
宮殿への主な入り口は東西南北に4つあり、それぞれに「銀の門」、「鉄の門」、「金の門」、「青銅の門」と呼ばれている。
「銀の門」から入った。
銀の門をくぐった先には東西に12本の列柱に囲まれた中庭が広がっていた。
中庭には皇帝がエジプトに遠征した際に持ち帰ったと言うスフィンクス像があった。
その東側には大聖堂と鐘楼があった。
[大聖堂と鐘楼]
聖ドムニウス大聖堂は八角形をした高い壁が特徴的な建物だった。
これはディオクレティアヌス帝の霊廟として建てられ、改装、増築された部分もあるが、八角形の壁面は建設された当時の姿のままらしい。
[鐘楼]
鐘楼に登るとスプリットの街が一望できた。
南側には皇帝の住居の玄関があり、そこは天井に穴があいていてドームのような円形の空間があった。
かつてはモザイクや彫像などで飾られていたらしいが、今ではこのドーム型の空間は音が良く反響するということで、無形文化遺産に登録されている「クラッパ」の合唱が行われている。
(クラッパはダルマチア地方に伝わる、男性アカペラ合唱のこと)
クロアチアではどこに行ってもクラッパの合唱を見せてくれる。
前の日もトロギールで行っていた。
それにしても廃墟となった宮殿に、勝手に家を造ってしまって住んでいるなんて考えられない。
これらの家はきれいな方で、城壁の裏側などは崩れそうな家がいっぱいあった。
この後はボスニア・ヘルツェゴビナのモスタルへ。
アドリア海沿岸はずっとクロアチアではなく、少しだけボスニア・ヘルツェゴビナになって、再びクロアチアとなっている。
要するにクロアチアが海岸線の「ネウム」という街で分断されている様な感じになっている。
だからこの先のドブロヴニク方面に行くには必ずボスニア・ヘルツェゴビナの「ネウム」を通らなければ行くことができない。
途中休憩するために、ネウムに少しだけ立ち寄った。
国境の街なのでスーパーマーケットではクロアチア通貨のクーナでも、ボスニアの通貨マルカでも、ユーロでも買い物ができた。
ここはから内陸部に入って「モスタル」に向かった。
ボスニア・ヘルツェゴビナの世界遺産の街モスタル。
モスタルはイスラム文化とヨーロッパ文化が融合した独特の旧市街が見どころとなっていた。
今まではずっとオレンジの屋根が続く明るい雰囲気のアドリア海沿岸を走っていたが、山間部に入ってきたら緑の山々と石壁のグレーの街並みに変わってきた。
走っている時に車窓から見える家の壁には紛争時の弾丸の跡がくっきり残っているのも見えた。
民族間や宗教に関わる紛争については複雑で良く分からないが、普通の市民同士が争っていたのだと思うと、ショックだった。
街を流れている大きな川がネレトヴァ川、この川を挟んで東側がイスラム系地区、西側がカトリック系と住み分けられている。
そして両方の地区を結ぶ橋が「スターリ・モスト」。
(ガイドさんは石橋と言っていた)
「スターリ・モスト」は、負の世界遺産として登録されている。
紛争時に両側の民族が対立していて、甚大な被害があったから。
この橋も破壊されたが、2004年に復興工事が完了し、今では東側と西側を結ぶ平和の象徴となっている。
[橋の東側・イスラム地区]
橋の周辺には土産物屋がたくさん並んでいて、活気があるように思えたが、不景気で若者たちの仕事がなくて困っていると現地のガイドさんが言っていた。
モスタル観光を終え、再びネウムで国境を越えて、この日のホテルがあるクロアチアのチャフタットまで200km、3時間半かかった。
チャフタットはドブロヴニクから更に南に20kmのところにある静かな港町で、「小さなドブロヴニク」と言われている。
1晩泊まるだけのホテルだったが5つ星だった。
海に面したリゾートホテルで、目の前にアドリア海が広がり、遠くには豪華客船がたくさん見えた。