2月7日
付知町の公民館「索道絵図」を拝観する
1,921年(大正10年)現在の中津川市坂下町から
下呂市三原地区を結んでいた索道、(距離40キロ)
飛騨索道運有会社が経営していた
大正10年に下呂市三原地区に発電所を作るため
鉄道の中央線が開通しており、坂下駅から
坂下町~峠を越えて田瀬地区~付知町~賽の神峠
加子母~舞台峠~下呂まで建設資材を運ぶ
(当時は高山線は開通していなかった)
五ケ町村に架線を張るのは困難を極めたそうです
索道架設工事は、大阪市の里見工業所が請け負う
ワイヤーを回転させるには50馬力の
モーターを三ケ所に取り付けていた
此の索道で5年間、発電所の資材を運んでいた
維持管理も大変だったそうです
当時これだけの工事が出来たのは
岐阜県経済界の重鎮(武藤嘉門)後の「岐阜県知事
衆議院議員」のツルの一声で反対を押し切って
完成したそうです
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