メインテキスト:松岡亮二『教育格差ー階層・地域・学歴』(筑摩新書令和元年)
本年12月17日、萩生田光一文科大臣は、来年度の大学入学共通テストの国語と数学で予定されていた記述式問題導入の見送りを正式発表した(会見録はこちら)。既に11月1日に英語の民間試験活用見送りも決まっており、これによって大学入試センター試験(かつての共通一次テスト)から大学入学共通テスト(以下、「共通テスト」と略記する)への変化は、名称だけということになった。三十なんねんかぶりの大改革とか、ずいぶん賑々しく言われていたのに、大山鳴動して鼠一匹も出ず、の結果になったのは、まずはめでたい。
皮肉ではない。教育改革、中でも入試改革は、やればやるだけ悪くなるに決まっている。萩生田は結果としていい仕事をした、と言える。消費税は、二度の見送りを経てとうとう10パーセントにまで引き上げられたのに比べれば大したことではないと言えるし、また、せっかく作って宣伝までした案を流されてメンツを潰された官僚たちが巻き返しをはかって何をやってくるか、気になるところではあるが、ひとまずは。
萩生田の功績の第一は、「身の程」発言(BSフジ「プライムニュース」10月24日)によって、反発といっしょに、この改革案の底につきまとっていた不満と不安を表面に炙り出したところにある。
何が不安で不満か。この改革は結局のところ、一定以上の階層(収入と、いわゆる社会的地位の一方か双方で上位)に有利なのではないか、ということだ。つまり、「いい家の子」の得になりそうだ。「身の丈」を知れ、とは、それを認めろということではないか。ということは、改革を主導している政府のほうは、とっくにそれを知っていたのではないか、と。
もっともそれは、話としてはずっと前からあったことで、だからこそ「プライムニュース」の反町キャスターも尋ねたのだが、一般にはさほど大きな声にはならなかった。そうならないような言論の、空気の力が働いていたのだ。
例えば、英語では、今後は「話す・聞く」力も必要ではないか、と言われるなら、そう思える。これに反対するのは、自分にそれだけの英語力がないからだ、というコンプレックスのためだと思われるだろう、という懸念もバイアスとして働く。
しかし、本当はみんなわかっていると思う。英語を日常で使ういわゆる英会話能力なら、日本国内での民間テスト(TOEICなど)の受けやすさ以前に、英米で何年か過ごした帰国子女が絶対に有利なのだ。これを指摘する人もまた、ずっと以前からいた。それがあまり広く聞かれない理由は、さらに二つ考えられる。①帰国子女の数はそう多くない。②当り前すぎるので面白くない。
これに比べたら国語や数学での記述式問題は、ある境遇の者が有利になる要素は小さいようだが、決して無視できないところもある。フランスの社会学者ピエール・ブルデュー(『再生産』1970年、など)などが夙に指摘したように、面接や小論文は受験生の「ものの考え方」を露出させる。そこでは、生まれ育った境遇から身についたもの(ブルデューは「ハビトゥス」と名付けた)が決定的に大きい。「いい家の子」のほうが高評価になるのは、ほとんど必然である。
以上についてブルデューは多くの統計資料(家にどれくらい蔵書があるか、博物館見学や観劇の習慣などのいわゆる「文化資本」から、ペットにはどんな動物を飼っているか、まで含めている)をあげて説得力を富ませているが、そんなものを見る前に、多くの人がほとんど直感的に納得するのではないだろうか。しかも、学校だけで終わる話ではない。非常に独創的な何かを生み出す能力ということになるとわからないが、もともと社会で有用と認められる独創なんてごく少ないし、それまでになかったものを発見する能力を既存のやり方で発見しようとするなんて、それ自体矛盾である。
普通に書類をまとめたりプレゼンをしたりする能力なら、文章を書かせたり対面での受け答えを見ることでチェックできる。だから、この方法は欧米ではずっと以前から大学入試などの選別試験で使われているし、日本でも大企業の入社試験などでは主流になっている。結果としてそれは、既存の社会階層を再生産し、拡大し、さらには、機会は全員に与えているという「公平」の見せかけで、そのことを覆い隠す制度となる。
逆に、出身社会階層からの影響が最も軽く、その意味で「公平」なのは、(「学力」を評価基準から外すのでない限り)本(教科書や資料集)を読めば書いてある知識をどれくらい覚えているかを主な基準とした選抜、ということになる。受験生の「考え方」はわからないだけでも、そう言える。即ち、いわゆる○×式、まさにセンター入試がそうであるような、選択肢から答えを見つける形式だ。そしてそのための教育なら、いわゆる「詰め込み式」が一番よい。
それはよくない、「本当の学力とは言えない」「社会に出てから役立たない」などなど、これまた言われ続けて今日まで続く「教育改革」の流れがあるわけだが、表面的な言葉だけで考えたら、そうかな? と思えるだろう。そして、教育論議の多くがそのレベルに止まっている。これが、改革案が決してうまくいかない理由の一つである。
選択問題では「本当の学力は測れない」としたら、まず「では本当の学力とは何か」についての詰めた議論が必要になる。それはやればやるほど言葉の迷宮に深く迷い込みそうだから、「しかし断片的な知識だけたくさん詰め込んだのが本物だ、とは言えんだろ」「そらそうだ」ぐらいで止める。それでも、というかそれだから、今までの知識量を測るテストでは低評価だった人間は、これから高評価になるのではないか、となんとなくの「希望」が生まれる。
こういうのが教育論議の「華」なのである。それ以上踏み込むのは、むしろ疎まれる。選抜試験では、「本当の学力」と「公平」のトレード・オフ(二者択一)になる、なんて話は、厳しすぎるし、重すぎるのだ。
それ以前に、学校の選抜機関としての役割、「有能な人材を社会全体から広く平等に選び出す」のほうも、あまり表だっては言われない。「選ぶ」ということは、どうしたって「選ばれない」者を出すのだという重いところは、みなさん、あまり見たくないのだ。それで、安倍内閣の閣僚という広い範囲から反発を招きやすい立場の者の「失言」で、ようやく表面化したのである。
『教育格差』の著者松岡亮二は、萩生田発言の真意を「好意的に」次のように読み解く(「萩生田大臣「身の丈」発言を聞いて「教育格差」の研究者が考えたこと」『現代ビジネス』2019.11.06)
現状でも予備校などによって教育機会の格差がある。これくらいの制度変更は「身の丈」にあった準備・努力をして、よい結果を出せばいい。それくらいのことはできるはずだ。若者よ、逆境を乗り越えていけ!
なるほど、萩生田も、決して「いい家」出身でない者は身の程をわきまえて、過度に社会的上昇の野心など持つな、などと言うつもりはなかったろう。ただ、社会階層上のハンディキャップがあっても、個々人の努力でそれは乗り越えられる、とも言っていないから、そういうもんじゃない、認識が甘い、という松岡(以下「著者」と表記する)の批判は、萩生田に対するものとしてはいささか当を失している。
著者も、誰もが認めるだろうように、社会的な格差はある。この格差は、主として、SSM調査(社会階層と社会移動全国調査The national survey of Social Stratification and social Mobility、昭和30年以来10年に一度日本社会学会によって行われている)に基づくSES(社会経済的地位socioeconomic status)という指標で示される。これと、子どもの学校での成績や、教育達成(どのような職業・社会的地位に就いたか)の相関関係を調べるのが教育社会学者の仕事。
詳しくは、『教育格差』(以下、「著書」と表記する)や文科省が平成19年以来実施している「全国学力・学習状況調査」の結果に基づいた分析がネット上に公開されているので、そちらを見ていただきたい。後者の例で、お茶の水女子大による文部科学省委託研究「平成29年度全国学力・学習状況調査を活用した専門的な課題分析に関する調査研究」では、親の収入や学歴と小学生の学力はほぼ比例する、と報告されている。これは、もしそうでなければむしろびっくりするような話ではないかと思う。
とすると、著者が強調している以下の話も大して意外ではないだろう。小学校のときのこの格差はその後もずっと引き継がれる傾向がある。つまり、SESが高い家の子は中学校でもよい成績を取り、よい上級学校(偏差値的に上位)に進学し、よい企業や官公庁(社会的信用度or/and経済的に上位)に入る率が高い。
これからすれば、日本は「緩やかな階級社会」と呼ばれるのが妥当である。自助努力で階級上昇を達成する人も確かにいるが、それだけでなんとかなるはず、とすべてを個人のせいにしてしまうのは、適正でも公正でもない。
国際比較だと、我が国の教育格差の固定度は、OECD諸国の中では高くも低くもない(因みに高い方の代表はアメリカ、低い方はフィンランド)真ん中ぐらいで、それをもって著者は日本を「凡庸な教育格差社会」と呼ぶ。「ちゅうくらい」ではなく「凡庸」という(マイナスの)価値観が滲む言葉を敢えて使うところに、彼のこだわりがある。これをなんとかせねばならん、と著者は強く訴えているのだ。
どうも違和感が持たれる。社会科学は、まずは価値中立で、各種のデータを冷静に検討して、この社会の有様を明らかにするところに本務があるはずだ。というのは言わば一種のタテマエであって、実際は「社会はこうあってほしい/こうあるべきだ」という願望は誰にでもあるし、それは実際社会研究のモーティベーションになっているだろう。
問題は、クールな社会分析と、「あるべき社会」像との距離感。現実の条件を無視した「理想論」は結局は生産的ではない。
こんな譬えはどうだろう。野球の試合で、「バッター全員がホームランを打てば、勝てる」というのは。プロ同士の試合であっても、絶対にあり得ないとは言えない。第一、ホームランを打つバッターは現にいる。他の選手だって、努力してできないはずはない、……などとばかり言っている人は監督やコーチにはなり得ない。ホームランを打つ者も打てない者もいて、有名なホームランバッターであってもいつも打つとは限らない。総じて言えば、打てないことのほうが多い。これを動かしがたい条件として、その上で、なんとか勝てるように作戦を立てるのがプロの仕事というものだ。
「何を当り前のことを」と言われるかも知れない。が、教育論議の世界では上の類の「理想論」は決して珍しくない。「先生方がもっともっとちゃんとやれば教育はよくなるはずだ。現にすばらしい成果を挙げている先生はいるのだから」という具合に。もっとも、それはあくまで「理想」であって、現実はなかなかそうはいかないのだから、別に、地味に考えよう、というのなら、大人の態度であって、何も文句はない。
困るのは、かなり本気で「理想」ばかり言い立て、それこそが「教育論」だと思い込んでいる人が多いように見受けることだ。何が困るのかと言うと、二つあって、
(1)現実の困難には、解決策を考えるより、むしろ積極的に目をつぶってしまいがちになること。
(2)「それはできない」ということが、言葉や現実で突きつけられると、「ではもう絶望だ」となって話が終わってしまう。
後者こそ、絶望的な事態と呼ばれるべきであろう。夢のような理想論は、言葉は美しいが、実際にはすぐにニヒリズムに結びつくのである。
著者を夢想家というわけではない。彼は一方的な「理想」と「善意」だけで実施された制度改革がひどい結果を招いた例として、「公立高校の学校群制度」と「ゆとり教育」を挙げている。前者は、高校間の学力格差を目立たなくしたが、その規制外にある私立学校の隆盛を招いただけだし、後者は「ゆとり」即ち各家庭・生徒の自由時間を増やしたことで、塾や家庭教師などの教育手段を自力で与えやすいSES上位家庭を有利にした。【後者については、もっと大きな問題を、以前このブログに載せた夏木智の文章が指摘している。ご参照ください。】
ここで、この問題のための現実の条件の一つを明らかにしておこう。教育社会学以前に、多くの人が教育格差が将来の希望実現と密接に結びついていることを実感として知っているから、むしろ学校在学中に格差が示されることこそ望んでいる。特に、これによってよい結果を得ることを「前向きに」期待しているSES上位家庭はそうである。学校が生徒個々の格差を隠そうとするなら(日本の公立学校はその傾向が強い)、別の手段で知ろうとする。教育行政はこれを無視し、学校群制度の他に、公立中学校から都道府県全体を母集団とした偏差値を追放した。その結果は、公立学校とは生徒と親に有用な指標を与えようとしない、役立たずの制度・組織だという印象だけを残した。
この点でも、この著書は示唆に富む。上の二例を挙げ、トレード・オフのような「重い」要素を考慮するのをいやがるような改革案は、無益というより有害であることをちゃんと指摘している。「教育に万能薬はない」(There is no panacea in education.)という言葉もこの本で初めて知った。それでも、改革を語る段になると(第7章「わたしたちはどんな社会を生きたいのか」)、とたんに情熱的な語り口になる。それが問題への取り組みの真摯さを示す尺度になる、というのはよくある錯覚だが、著者がそれに陥っていないことを願う。
本書の前口上(prologue P.015)は「人には無限の可能性がある」なる、私などの若い自分にはまだよく聞いたが(「人には~」よりは「子どもには~」の形が普通だったが)、近頃では滅多に聞かれなくなった揚言から始まる。敢えて言うが、これは端的にまちがい。人間とは、時間的にも空間的にも限界がある生き物だ。最低でも、寿命という時間的限界から自由な人間などいない。
それから、これもいただけない。「前例がないこと(引用者註、社会から格差をなくすこと)を達成するなんて無理だと諦めるのであれば、目の前にあるのは茫漠な暗闇の中に漂いながらわたしたちをせせら笑う虚無だけである」――これは宮崎駿『風の谷のナウシカ』漫画版からの言葉らしい(私もこの本は読んでいるが、こういうのがあったかどうか忘れた)が、漫画やアニメとは違って、世知辛い浮世=憂き世を生きている大人が口にするような言葉ではない。人間社会である限り、常に格差はあったし、今もある。これからも、とは、100パーセントの確信をもっては言えないが、明日明後日なくなることはない、とは言える、と威張るほどもなく自然に言える。
それだと絶望だ、などと言われることには、今は怒りを感じるようになった。「何様のつもりだ?」。人間はいつでもどこでも、与えられた条件の中で、「こちらのほうが幾分かはマシか」を目指してシコシコ努力するしかない。「身の程」がそういう意味だとすれば、萩生田は全く当然のことを言ったまでである。
著者だってそんなことはわかっているだろう。しかし、こと教育となると、内容空疎な大言壮語を言わねばならないという暗黙のルールでもあるのだろうか、あまりに多く、それだけで過ぎていく印象がある。もうやめませんか、この風習だか癖だかは。
それから、フェアではないことは承知で言うと、著者たち学者はなんといってもデータ上の数値を見ていろんなことを言うのが仕事なので、実際の子どもを知らない。で、以下、参考までに。
底辺校(偏差値的に下位)教師として目に映じたことで言うしかないが、彼らは、「格差社会」なんて観念の中を生きているわけではない。喧嘩したり失恋したりバイトしたりして、できるだけ楽しく日々を送ろうとしている。勉強はしない。一般試験で大学へ進学する者は皆無だが、家が金を出してくれさえすれば、AO入試や推薦で入るのはけっこう簡単なので、どこの学校でも年に十人ぐらいはいる。それでも、勉強はしない。その習慣もなく、意欲もない。
その理由は、著書にも書いてある。生徒本人だけではなく、親を初め周囲の大人も、学習で成功した体験に乏しく、これに関してあまりよい思いはしていないので、積極的な興味の持ちようがないのである。もちろん、勉強ができたおかげで社会的に成功する人物がいるのは知っているが、それは別世界の話、と言っても大げさではない。生徒が悪いわけではなく、潜在的な能力の有無もわからないが、何しろ、彼らの生活意識の中に、五教科の学習習慣を植え付けるのは、口で言うほど簡単ではない。
【それに、さすがに大きな声で言うのは憚られるが、そうしたほうがいいのかどうか、彼ら自身のため及び世の中のためになるのかどうか、どうも確信がない。大学へ行くのは、行かないよりは必ず幸せだと、100パーセントの確信を持って言える人、いますか?】
それでも、これに関してやるべきことはある。いや、残念ながら私などにはただこのような場所で細々と訴えるしか出来ないのだが、できれば、社会全体で取り組むべきことはある、と訴えたいことはある。
それは、金の問題である。能力も意欲もあるのに、家の経済状態が悪くて進学を断念する中高生は今も存在する。まず何から手を着けるべきかと言えば、まちがいなく彼らであろう。
現在、七人に一人が貧困児童だと言われている。そうなったのは、政府の経済政策の失敗に因るところが大きい。これについては、私もまだ勉強中なので、小浜逸郎のブログ「ことばの闘い」中の関連記事などを参照して考えていってもらいたい。
学校に直接関係することで言うと、奨学金の充実を期すべきだろう。現在の主流である貸与型だと、貸すほうも、借りた方も、破綻することが多い(金を返さない者も返せない者もいる)、というニュースは、悲惨だし、なんかケチ臭い。経済大国としては恥ずかしいような話ではないか。給付型にしても、百億もあれば、かなりの数の低SES出身者の修学を有効に支援できるのだから、教育格差は問題だと本当に思うのなら、やるべきなのである。
こういうと、すべて学校以外でやることで、教師は何もしないのか、それは責任逃れではないか、なんて声が聞こえてきそうで、うんざりすると同時に腹立たしい。逆に問いたい。学校にすべてを押しつけておいて、自分は夢物語を語るか悲憤慷慨して見せるだけなら、結局あなたにとって教育なんてどうでもいいのではないか。それなら、そう認めたらよい。
学校には特に関心のない人はたくさんいるし、それもまた我々がぶつからねばならない現実の条件の一つである。また、空疎な大言壮語を吹くぐらいなら、どう考えても自力だけでは出来ないことは出来ないと認めるべきなのだ。そのほうが結局は建設的なのだから。
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