由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

立憲君主の座について その11(近代最初の御前会議)

2017年11月28日 | 近現代史
聖徳記念絵画館壁画「王政復古」(島田墨仙画)

メインテキスト:渋沢栄一『徳川慶喜公伝4』(原著は大正7年龍門社刊、平凡社東洋文庫昭和43年)

 御前会議、つまり天皇臨席の会議のうち、最も有名な、大東亜戦争を終わらせた最後の二つについては、昨年略述した。今度は近代最初のものについて瞥見しておきたい。これは、我が国が新時代を迎えたことが公式に宣言された、正にその日に行われたのである

 慶應3年12月9日(新暦だと1868年1月3日。以下の日付はすべて旧暦)、王政復古の大号令が発せられた。具体的な方針としては、①幕府を廃止し、②摂政・関白を廃して新たに総裁・議定・参与の三職を置く、が大きな柱であった。
 このうちで②は、平安朝以来続いてきた職制を一日で変えるという意味で大変革であったが、より現実的な困難は①にあった。既に、徳川慶喜は10月14日に大政奉還を、続く24日に将軍職を辞することまで申し出ており、この時までに朝廷もそれを認めていた。
 しかし、王政復古をここまで主導してきたいわゆる倒幕派にしてみれば、これだけでは終われない。征夷大将軍として全武家に号令する権限は失われたとしても、直轄領だけでも四百万石という当時最大の財力があり(次点は加賀前田家の百万石)、譜代・親藩など、佐幕(佐は「助ける」の意味)派の大名が全国に多数いる状態をそのままにしておくなど、彼らにしてみれば問題外であった。逆に慶喜側は、自から政権を手放すことで、このような動きの機先を制する目論見があったのだと思われる。
 そこでこの時期討幕派の急先鋒になっていた薩摩の西郷隆盛・大久保一藏、公家の岩倉具視らは、大号令に付して、慶喜の辞官(この時点で内大臣だった)と納地(領地を返還すること。公地公民制、即ち日本全国の土地と人民は本来天皇のものであり、公家や武家の領地は天皇から預かっているもの、という大化の改新以来の建前は、建前としてなら残っていたので、それに則れば、徳川家が朝廷に領地を返納する、ということも可能であった)を命じる勅令を出すことを望んだ。
 しかし、障害があった。そのうち最大のものは、実のところ、当時の大名のうち、尊皇(幕府より天皇を尊ぶ)方であっても、徳川家を完全に葬ってしまうことにまで賛成している者はごく少数だったところにある。いつでもどこでも、エスタブリッシュメントは過激な変化は望まないものだ。第一、そんなことをしようとしたら、幕臣及び佐幕派の大反発を招き、戦乱は避けられないだろう(事実、そうなった)。それよりは、例えば、権威・権力の頂点に天皇を据え、徳川家を中心とした大名の諸侯会議によって国政を運営するといった、穏やかな体制改革のほうが好ましい、と彼らは考えた。これが実現していれば世界でも珍しい無血革命ということになるだろうが、反面旧体制の大きな部分を温存することになる。

 この時最も大きな働きをしたのが岩倉である。元来公家離れした容貌と行動力で知られ、家格は低いにもかかわらず、幕末の混乱期に頭角を現した。孝明天皇の在世時には、皇女和宮の十四代将軍家茂への降嫁に随行して江戸に赴き、幕府老中と会談したことなどから、佐幕派(当時の言葉だと公武合体派)と見られ、討幕派から糾弾されて蟄居謹慎に追い込まれた。その謹慎中に完全な討幕派となり、薩摩藩と長州藩に宛てた討幕の密勅を国学者玉松操に書かせた。日付は薩摩宛が慶應3年10月13日、長州宛が14日で、後者が大政奉還と同じというのは、単なる偶然とは思えない暗合を感じるだろう。要は、幕末の権力争奪ゲームで、討幕側がカードを切るのを察して、幕府側はこれを無効にするカードを出した、ということだと思う。
 もっとも、最初のカードの有効性には怪しいところがある。中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之、の有力公家(とはいえ、摂政でも関白でもない)三名の連署はあるものの、勅許として必要な形式を欠いており、「逆臣慶喜を殄戮(てんりく。殺戮と同義)せよ」なんぞという、この種の文書としてはたぶん前代未聞の物騒な文言もある。それでは、なんで殺されなければならないかというと、「妄(みだり)に忠良を賊害し、しばしば王命を棄絶し、遂に先帝の詔を矯めて懼(おそ)れず」云々とされるのだが、井伊直弼がやった安政の大獄【勤王の志士が多数殺された】といい、和宮降嫁に際して十年以内の攘夷(外国との交易を絶つこと)実行を、上辺だけ約束したことといい【孝明天皇は大の外国嫌いなので、侍従だった岩倉の献策を容れて、攘夷を妹・和宮と家茂との結婚の条件にしたのだが、天皇家との婚姻で幕府の権威付けをしたかった幕臣は、土台無理な話であることは承知の上で、同意した。つまり、孝明天皇の意向をいいかげんにあしらうつもりだった、と言われても仕方ないことをした】、すべて前将軍家茂の代にあったことである。朝廷側に立って見ても、この十ヶ月前に就任した慶喜個人が、そんなに恨まれる謂われはない。
討幕の密勅 鹿児島県黎明館蔵
 だからこの密勅は、偽勅、と言われても仕方ないが、その後のなりゆきからすれば、睦仁天皇は、少なくともその存在は知ってはいたろう。それでいて、日付の一部を書き入れる、などの正式な手続きをさせなかったのは、この過激な内容の責任が天皇にまでいくのを避けるためだったのだろう。それでもともかく長州藩は、この勅に応じて兵を集め、上洛する準備を始めた。同藩は元治元年(1864年)の禁門の変以来、朝敵ということになっていたのだが、これまた秘密のうちに、許されていたのである。
 岩倉自身は、公式には謹慎が12月8日に解かれ、即刻、果断に動いた。この日夜明しで続いた朝議(議題の一つに、大政奉還を認可することもあった)が終わるのを待ち、9日の昼近く、京都とその周辺にいた尊皇方五藩、尾張・薩摩・安芸・越前・土佐の兵力を集結して宮廷の九門を固め、佐幕派の公家を締め出したうえで、前夜から居残っていた中山忠能以下前記三卿と天皇に拝謁、その後新たな三役に就くべき公家・武家の待つ學問所への御出座を仰いだ。
 後に明治天皇と諡(おくりな)される睦仁天皇はこの時十五歳、「卿等國家の爲に儘力せよ」とのみ仰せ出され、詳細は中山から発表された。これが即ち王政復古の大号令である。そして引き続きこの同じ日の夕刻から、慶喜の処分に関する会議を、先ほど任命されたばかりの総裁以下が開く。迅速というより、メチャクチャと言うべきだろう。五つの藩の武力と、天皇の権威を盾に押し切った、クーデターと呼ぶに相応しいやり方だった。

 今日この会議は議場になった宮中の場所から小御所会議と呼ばれている。朝廷の最も重要な会議は天皇の御前で行われること、その際天皇は御簾内にいて姿を明瞭には見せず、発言もしないこと、は旧来からの慣習ではあったろう。大きく変わったのは、出席メンバーと議題の重要性である。
 総裁には有栖川宮熾仁親王、議定には前記三卿の他二人の皇族、武家からは前記五藩を代表する人物、即ち徳川慶勝(尾張)、松平春嶽(越前)、浅野茂勲(芸州)、山内容堂(土佐)、島津茂久(薩摩)が、そして参与には大原重徳、岩倉具視ら公家の他、五藩から三名ずつ選任されることになった。その中には、西郷・大久保の他に、中根雪江(越前)、後藤象二郎(土佐)らがいる。
 議定のうち徳川慶勝は、第一次長州征伐の総大将を務めたが、第二次のそれには反対した、などのふるまいによって、尊皇方に数えられたとはいえ、元来御三家として徳川家の屋台骨を支える存在であった上に、慶勝は慶喜の母方の従弟でもある。また、坂本龍馬の案に基づき、容堂を通じて大政奉還を慶喜に献策したのは後藤象二郎だった。このような出席者を交えて、慶喜の納地辞官について話し合うというのである。一波乱あることは避けられなかった。
 公家たちが慶喜の非を鳴らす折から、山内容堂が真っ向から異を唱えた。論旨は以下。

(1)今日のやり方は非常に陰険である。かつまた、王政復古の初めに多数の兵がつめかけているようでは不吉であり、世が乱れる兆候のように見える。
(2)徳川家には初代将軍家康以来、二百数十年に渡って太平の世を築き上げた功績があり、そのうえで慶喜は、国家のために自ら大権を譲渡した。かつ彼の英明ぶりは天下に知られている。彼を朝議に参加させ、意見を聴くべきである。
(3)このような暴挙を企てた三、四名の公家は、幼沖(幼少、と同義)の天子を擁して、権柄を盗もうとする者ではないか。

 いずれも正論、と言うべきであろう。しかし最後の言葉は無思慮であった。
 これに岩倉具視が噛みついた。「御前會議なり、宜しく謹粛なるべし、聖上は不世出の英主にましまし、今日の舉悉く宸斷に出づ、幼沖の天子を擁し奉りてなどゝは何等の妄言ぞ」。これで容堂は天皇に詫びざるを得なくなった。
 この後松平春嶽が容堂と同じ趣旨の発言をし、それを岩倉と大久保一藏が反駁する。反対側の要点はこうであった。幕府は従来朝廷を蔑ろにする行為が多く、ただ政権を渡すと言ったのみでは信ずるに足りない、官位も領地もすべてお返しするという行為をもって、初めて信頼するに足るものとなる。これに対してさらに後藤象二郎が反対する。あとの三侯は沈黙しているので、議長格の中山が質すと、島津のみが岩倉に賛成、慶勝と浅野は容堂・春嶽に賛成した。
 会議は膠着した。中山忠能はつと立って、他の公家達と何やら内々の話を始めようとした。これをまた、岩倉が咎めた。「聖上親臨ありて群議を聽き給ふ、諸臣宜しく肺肝【=真情】を吐露して論辯すべきに私語とは何事ぞ」。資料によってはもう少し穏やかな言い方も記されているが、内容は同じ、私語は聖上に対して無礼であろう、というものだ。大号令には「見込(見解、と同意)ある向は、貴賤に拘らず忌憚なく建言致すべし」と言われてはいるが、まだ身分制が撤廃されたわけではない。聖上の外祖父でもある中山に対して、よく言えたものだ。
 澁澤榮一はこれを、中山は元来慶喜に対する厳しい処分には反対だったからだろう、と推測しているが、何をもってそう考えるのか、私にはわからない。倒幕の密勅で、署名者の筆頭は彼になっている。容堂がこのへんの事情にどれほど通じていたかは不明だが、幼沖の天子を擁して権柄を盗もうとする者の一人は、まちがいなく彼であった。また、和宮降嫁に際して江戸へ赴き、討幕派の反発を買った点でも岩倉と共通しており、個人的な親疎の感情はともかく、中山は岩倉にとって欠かすことのできない朝廷内の協力者であったはずだ。ただ、堂上人の気弱さから、場を丸く収めようとして妥協に走る恐れはあり、岩倉はそれを危惧したのだ、ということはあり得る。
 
 この後の会議の成り行きについては、真偽は定かではない話が有名になっている。西郷隆盛は、宮中につめかけた兵士の指揮に当たったので、会議には出席していなかった。休憩中に相談を受けた時に、「こんな時には短刀の一振りが役に立つ」などと答えた。これを聞いた岩倉は、自分には非常な覚悟がある【道理を引っ込めて無理を通そうとするのだから、尋常な手段では埒が明かないのは自明であるとは言え、天皇の御前を血で汚すなんぞということになったら、それこそ大化の改新以来例のない大罪である。それをも敢て辞さない、ということをほのめかしたものらしい】ことを、安芸藩を通じて後藤に伝える。後藤は、これ以上正論を固守して、慶喜と同腹のように思われるのも損だ、云々と容堂を説き、ために休憩後は彼らが沈黙したので、岩倉たちの思い通りの結論が出た。
 ただしもちろん、そう簡単にことが運んだわけではない。翌日慶勝と春嶽から決定を聞いた慶喜は、内大臣辞任については自分一身のことなのですぐにでもできるが、領地没収となると、大勢の家臣たちに直接関わることなので、しばらく待っていただきたい、と答えた。その後春嶽たちの巻き返しはあったものの、政治的な決着より先に、討幕派の横暴に耐えかねた幕臣たちが兵を起こし、歴史は鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争へと突き進む。それは西郷・大久保・岩倉らにしてみれば、やむを得ぬこと、否むしろ好都合だった。戦争無しで新時代が迎えられるなどとは、初手から信じていなかったのだから。

 改めて天皇について考える。問題は、天皇その人が何を考え、何を言うか、などより、天皇が存在していること、その存在を誰もが無視し得ない、という日本の通念なのである。それに則りさえすれば、七年にも渡る謹慎が解けたばかりの岩倉が、少し前なら対等に口もきけぬはずの土佐侯や前中納言中山忠能を叱りつけるような真似もできる。【鳥羽伏見の戦いのとき、官軍が三倍の兵力を擁する旧幕府軍に大勝できたのは、これまた岩倉が玉松操に命じて急拵えにでっちあげた錦の御旗の威力も、ある程度はあったかも知れない。旧幕軍総大将の慶喜は、元来水戸藩出身で尊皇の志篤く、賊軍となる戦には最初から消極的であったのだから。】天皇は、体制の維持よりむしろ、体制変革の原理として使える、と三島由紀夫が説いたのは、ここのところである。
 しつこいようだが、近代天皇論には重要なところだと思うので、もう一度繰り返す。重要なのは、天皇の「存在」であって、それは「叡慮」より、「宸断」より、勝る。十五歳の少年天皇が、幕府や摂政・関白の廃止とか、慶喜の辞官納地を自分から思いつく、なんて、嘘に決まっているが、それを嘘だと言い立てるようなのは不躾で、非礼で、不敬な振る舞いとなる。その程度の遠慮は当然だと、皆に思われていること、それが肝心なのである。
 すると逆に、天皇が単なる「存在」であることに止まらず、意志を明確にした場合には、やっかいなことにもなる【三島にとっては、二・二六事件がそのような場合であった】。孝明天皇は慶応2年に三十六歳の若さで急死し、ために十四歳になったばかりの陸仁が即位した。先帝は毒殺されたのではないかと噂されている。彼は公武合体に賛成していたのだから、確かにあと一年余長生きしていたら、岩倉たちの企ては著しく成就困難になっていたろう。毒殺されたとしたら、犯人は岩倉だ、というのは俗説であるにもせよ、上記の事情が古くから多くの人々の意識に映じていたからこそ出てきた噂であろう。
 噂と言えば、近年、山内容堂の「幼沖の天子」発言は、実際はなかったのではないか、という説もあるようだ。それが事実なら、天皇の存在こそ最重要、という通念は、明治時代に創り上げられたものかも知れない。いずれにしろ、このような至高の存在と不即不離の関係を保ちながら政府を運営する課題に、伊藤博文ら明治の指導者たちは取り組まなければならなかったのである。

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