由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

立憲君主の座について その19(皇統の維持のために)

2022年06月29日 | 近現代史
メインテキスト:坂本太郎/井上光貞/家永三郎/大野晋校注『日本書紀 全五巻』(岩波文庫平成6~7年)
        宇治谷孟『続日本紀 全現代語訳 全三巻』(講談社学術文庫平成2~7年)


衣笠貞之助監督「妖僧」(昭和38年)

 先日少人数のweb会議で天皇家について話す機会があった。流れによっては、しばらく前から話題になっている(公的な動きとしては平成16年に小泉純一郎総理の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」から)、天皇家の将来について話題にしたかったのだが、その方向へは行かなかった。
 だから改めてここで、というほどの定見があるわけではないのだが、この問題の淵源は、もちろん天皇家の特質にある。これを整理して、多少の考察を加えて見せるのも、皆様の参考にならないとも限らないと思い、あの折開陳しようかと思っていたこと書きつけます。

 天皇家の特質というと、「万世一系」とよくいわれますね。大日本帝國憲法(明治22年公布、翌年施行)に「第一條 大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあるやつですね。次には「第二條 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所󠄁ニ依リ皇男子孫之ヲ繼承ス」というのがその中身。同時にできた皇室典範は「第一條 大日本國皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ繼承ス」、ここで初めて公式に「男系」が登場し、これは戦後の新皇室典範にまで引き継がれています。
 男系、とは、父親の系統で繋がる、ということで、父が天皇なら女性が天皇になった例も、江戸時代以前には八人十代あったわけですが、その女帝がよそから婿をもらったら、その間にできた子供は女系、ということになります。
 それは一人も天皇にならなかった。というより、そういう子供はいなかったのです。八人の内訳は元皇后三人、元皇太子妃一人(四十三代元明帝。夫の草壁皇子は天皇になる直前に亡くなった)で、夫だった天皇(か皇太子)の間に生まれた子が次の天皇になっている。いずれも在位中は独身。あとの四人は生涯独身で、次の天皇は親族から出ています。
 それから、天皇の男系子孫の男性でも、一度皇籍から降りたら原則として皇位に着く資格を失います。例外は二人。五十九代宇多帝は、元慶8年(884年)源氏となり(賜姓降下)、三年後に、時の権力者・関白藤原基経の思惑で皇籍復帰し、即日、父・光孝帝が崩御したので、即位しました。その子六十代醍醐帝は、父が源氏となった翌年の生まれですが、父とともに皇室に戻りました。
【因みに、五十代桓武帝以後江戸期まで、皇族が臣籍に降りた場合の姓は、源氏と平氏の二つに限られた。
 源氏と平氏と言えば、公家もあるが、もちろん武家になったほうが有名。そして、征夷大将軍や執権として、事実上国の最高権力者となったのは、豐臣を特例として、すべてこの二氏で占められている。北條家は平氏、足利家は源氏の系統。
 ややこしいのだが、氏姓制度で、天武朝の「八色の姓(やくさのかばね)」で整備された「姓(かばね)」とは、「真人、朝臣、宿禰……」など、公侯伯子男の、貴族の称号のようなもの。「源」「平」「藤原」「橘」などが氏。さらにその氏が増えてきて、中で区別する必要が出て来たときに使われたのが、地名などからつけられた、藤原氏だと「近衛、九条、一条……」などの名字。北條や足利も同じことで、これが今では普通に「姓(せい)」と呼ばれている。
 足利幕府末期の争乱を経て、下剋上により武家の名流名家はほとんど没落したが、代わって勢力を得た者も、天下人かそれに近くなると、家の源流を飾りたくなるものらしい。織田信長は平氏を、德川家康は源氏だということにして、朝廷に出す公式文書の署名は「源朝臣家康」などとしている。
 これが事実に基づいてはいないことは、名乗っている本人が一番よく知っていたろうが、最低限の形式であっても、天皇を頂点とした秩序は維持しようとする意識はずっと続いていたことを、ここに見ることができるだろう。】

 以上二つの原則からして、現在皇位継承権があるのは三人。年齢的に次代を担うと言えるのは秋篠宮悠仁様お一人で、さら次々代となると、悠仁様に男子がお生まれになるとは限らないので、危ういことになります。前述の「皇室典範に関する有識者会議」は、悠仁様ご生誕前の、次代に関してすら危機感が持たれた時期に開かれたのです。
 皇統存続についての不安を払拭するために皇室典範を変える、としたら、方策は二つしかありません。上に述べたところから自然に分かるでしょう。①女系を認める。②昭和22年、GHQの指令で臣籍降下した宮家が十一あるので、それを皇族に復帰させる。
 いずれも、実在がほぼ確定している天皇(十五代應神帝あたり)から数えても1500年以上続いてきた皇統の伝統を変えることになります。特に①は、一度女系の天皇が即位したら、その後は男系で続けたとしても、皇統は一度断絶した、という思いは残ってしまいそうです。
 これはどれほどの重大事であるのか。ひるがえって、なぜこのような伝統が生まれたのか、をできるだけ遡って考えてみましょう。

 隋の史書「随書東夷傳俀國傳」に、607年のこととして、東夷の倭国から国書が来たという、次の記述があるのは有名ですね。

其の國書に曰く、「日出ずる處の天子、書を日没する處の天子に致す。恙無きや云云」と。帝(煬帝)、之を覧て悦ばず。鴻臚卿(外務担当)に謂ひて曰く、「蠻夷の書無禮なる者有り。復た以つて聞するなかれ」と。

 この時、もうこんな無礼な奴からの書は取り次ぐな、とまで怒った煬帝ですが、その後何があったのか、翌年には向こうから使者を送って来ています。その時携えてきた国書の書き出しは「皇帝問俀皇」。こちらからの返礼の書き出しは「東天皇敬白西皇帝」。
 ここで、公式な文書としては初めて「天皇」の文字が見えるのですが、これは「日本書紀」の記述で、隋側の記録はなく、事実この通りの文言が取り交わされたかは疑問の余地があります。ただ、7世紀初めの帝だった推古帝(日本最初の女帝)ではないとしても、「日本書紀」(完成は720年)の編纂を命じた天武帝からは、天皇の称号は存在していたのでしょう。
 その意味は以下でしょう。支那の中原(当時の感覚では世界の中心)の周辺は、北狄・東夷・南蛮・西戎などと呼ばれる劣った国として、支那の皇帝に(定期的に貢物をして、もっと価値の高いものを下賜される「朝貢」以外は、かなり形式的にだが)臣従するのが当然だとする、いわゆる華夷秩序が当時の東アジアの常識でした。そこから離脱・独立までは無理としても、できるだけ距離を置きたい、という意欲の現れがひとつ。
 もう一つ、天皇には、天の皇帝・北極星の意味もあるので、「確固不動の存在」のアピールでもあったでしょう。時の権力者が自分たちをそう思いたい・思わせたいのは至極当然と言えますが、この後の成り行きが、この時点で暗示されていたような感じにもなります。
 それというのも、例えば、孟子に由来する「湯武放伐(とうぶほうばつ)」という言葉があります。
 支那の伝説上の三皇五帝は、血統に拠らず、人物と業績から次の皇帝が選ばれたことになっています。その最後の禹(う)が、姓を夏または夏后とし、子の啓から世襲による王朝が始まります。夏王朝は十四代目の桀(けつ)に至って暴虐にして人心が離れ、商国の湯王によって滅ぼされ、湯が創始した王朝・殷はまた、三十代目の紂(ちゅう)が悪逆の王だったので、周の武王によって打倒されました。
 天命を受けて天下を治める者が「天子」なのであり、周辺諸国の「王」は何人いてもかまわないが、天子は絶対に一人でなくてはならない。これが、先の文書で煬帝が怒った理由です。
 この天命は子孫に受け継がれて、王朝となる。しかし、天命≒徳を失えば天子たる資格も失うので、潔く他に位を譲るか、そうでなければ武力で打倒されてもしかたがない。前者を「禅譲」、後者を「放伐」と言います。
 孟子はそれを当然、としたわけです。そう言わないわけにはいかないでしょう。殷を滅ぼして新王朝を開いた周の初期の政治こそ、儒教の祖・孔子が理想としたものだったのですから。
 禅譲・放伐いずれかで王朝が替わることは「易姓革命」と言います。姓が変(=易)わって天命が改(=革)まること、明治期以後の日本でrevolutionの訳語にされる前には、革命とはそういう意味だったのです。
 日本にはこれは起きなかった。皇帝である天皇家は、家臣に氏姓を与えますが、自分たちには氏も姓もない。だから、易姓革命は起こりようがない。だから、起こらない。そういう願いで、この制度は作られたのでしょうが、それから1500年以上、一応はその通りになったというのは、驚嘆すべきことです。
 もっとも、放伐は絶対にいけない、とまで言うのは少し具合が悪く感じられたかも知れません。天武帝は兄の遺児である大友皇子(明治になってから、一度は即位したことが公式に認められて、三十九代弘文天皇と諡号された)を壬申の乱で倒して、帝になったのですから。血統こそは変わらないけれど、その血統内部での相当血腥い闘争はあったわけです。支那にもありますが、儒者も、それもいいんだ、とは言いません。
 とはいえ、こういうこともあまりあからさまには言挙げされませんでした。朝廷が安泰の時なら、それをも含めて、わざわざ言う必要も感じられないのは当然でしょう。危機の時代に、皇統の大原則が、改めてある人々に発見される感じになります。
 「この日本国は初より王胤はほかへ移ることなし」と言っている「愚管抄」が九條家出身の天台座主・慈圓によって書かれたのは、武家によってそれまでの朝廷政権の存続が危ぶまれた承久の変(1221年)前後のこと。
 それから百年ほど経ち、鎌倉幕府滅亡後の南北朝の争乱期に、南朝の重臣・北畠親房が書いた「神皇正統記」(1339年頃完成)は、「大日本(ヤマト)は神国(かみのくに)なり」で始まります。なぜなら「天祖(あまつみおや)初めて基(もとい)を開き、日神(ヒノカミ)長く統を伝へ給ふ」、つまり、創造神の系統が途絶えることなく現在まで伝わっているからだ、と言うのです。
 ただし、以前にも書いたことですが、親房は次のようにも言っています。

君は尊くましませど、一人(いちにん)をたのしましめ万民をくるしむる事は、天もゆるさず神もさいはひせぬいはれなれば、政(まつりこと)の可否にしたがひて御運の通塞(とうそく、運の善し悪し)あるべしとぞおぼえ侍る。

 二つの皇室が存在するという未曾有の混乱の時代には、改めて皇帝の「徳」が持ち出されたわけです。しかしそれだと、どちらの側により徳があるかという、決して完全な決着はつかない論議を呼び込みます。何が本当の「徳」であるのかにしてから、いつでも誰でも納得できるような原則はまず見つからないでしょうから。
 実際にはその議論が盛り上がることはなく、この争いを収めたのは武力と政治力でした。それで、南朝正閏論なんてものがその後現在まであることはあるようなんですが、私もよく知りませんし、知らなくて困ることはまずなないです。
 明徳の和約(1392年)によって最終的に皇統が再統一されると、君主には徳がなくてはならない、という論理は、君主がいてしかもその地位が世々同一家系に受け継がれている事実から、家系ぐるみでその君主(たち)には徳があるんだ、という論理、否むしろ心情に、わりあいとすんなり入れ替わります。価値があるから長持ちするのではなく、長持ちしていから価値があるのだ、と
 だいたい日本人には本来、それ以上の道徳も、何が道徳的に正しいなんて賢しらな議論もいらないんだ、と江戸時代の国学者・本居宣長が「直毘霊(なおびのたま)」(1771年成稿)で言っています。「古の大御世(オホミヨ)には、道といふ言擧もさらになかりき」「故古語(フルコト)に、あしはらの水穗の國は、神ながら言擧せぬ國といへり
 ならば、そういうこともわざわざ言挙げしなくてもよさそうなのですが、ここには他国との優劣比較が意識されているのです。文中ではそれは、異國(アダシクニ)と呼ばれ、端的に、支那のことです。

異國は、天照大御神の御國にあらざるが故に、定まれる主(キミ)なくして、狹蠅(サバヘ)なす神ところを得て、あらぶるによりて、人心あしく、ならはしみだりがはしくして、國をし取つれば、賤しき奴(ヤツコ)も、たちまちに君ともなれば、上(カミ)とある人は、下なる人に奪はれじとかまへ、下なるは、上(カミ)のひまをうかゞひて、うばゝむとはかりて、かたみに仇(アタ)みつゝ、古より國治まりがたくなも有ける。其が中に、威力(イキホヒ)あり智(サト)り深くて、人をなつけ、人の國を奪ひ取て、又人にうばはるまじき事量(コトバカリ)をよくして、しばし國をよく治めて、後の法ともなしたる人を、もろこしには聖人とぞ云なる。

 時を超えて定まった皇帝がいないので、湯武放伐なんてことも起き、人心も乱れるし、国が治まらない。中で国を奪い、奪われないためのうまい方策も考え出した人を、彼の国では聖人というのだ、と。日本がそうならないのは、天照大御神以来連綿として続く天皇家があればこそだ、というわけです。
 このような見解の正否を問うのは、それこそ無駄な言挙げというものでしょう。信念・信仰に属する話だからです。
 とはいえ、世々の帝もそれに仕えた人々も、生きた人間である以上、いろいろなことが置きます。古代日本でも、上の信念を揺るがすような出来事がありました。それを先人はどう乗り越えたのか。二例ほど見て、「万世一系」の内実に少し踏込んでおきましょう。

 系図1は、記録上最も遠い血筋に皇位が譲られた例です。
 十六代仁徳帝は、人家から立ち上る竃の煙の乏しさから、民の窮乏を察し、最初は三年間、されに二年間加えて、宮殿がぼろぼろになるのも構わず調(税)を停止したとされるいにしえの聖王です。その後この系統からは、雄略・武烈という、悪行で知られる帝が出ます、そして、二十五代武烈帝には子がなく、その後は、仁徳帝の父・應神帝まで遡って、その五世孫の繼體帝に受け継がれます(507年)。
 五代前の祖先が同じ、と言えば、おじいさんのおじいさんのそのまたお父さんが、ということですから、一般庶民なら「他人」というのでしょう。しかし、そういうことより、次のような二つの特徴が、個人的には興味を惹きます。
 第一に、偉大な聖王が開いた王朝が、後に悪逆な王を出し、天命を失って、次の王朝に取って代わられるという、前記「易姓革命」と同じ型の物語がここには見られます。実際はここで王朝の交代があったのではないかと考える人もいますが、しかし表だってそうは言われません。
 第二に、繼體帝は、武烈帝の姉妹である手白香皇女(たしからのひめみこ)を后とし、この人が二十四代欽明帝の母なのだから、女系なら仁徳帝の系統は現在まで続いていると言えます。名家に女子しか生まれなかった場合、遠縁から婿をもらって家を継がせる、という話は昔はよくありましたが、天皇家については、表だってあまりそうとは言われません。
 因みに、明治以降の皇室典範では、天皇家は、養子が禁じられています。

 系図2は、女帝の中でも際立った存在感を放つ四十六代孝謙帝(後に重祚して四十八代稱德帝)を中心にしたものです。日本史上全部で十代八人の女帝のうち、七代五人がこの時期に集中して登場しているところからみても、皇統の危機が感じられます(三十六代孝德帝は、皇極・斉明帝の弟で、早期に系統が途絶えたので、この系図からは省かれている)。
 この中で孝謙帝は、皇太子となった、つまり前代の聖武帝の在位中から次代の天皇として指名されたただ一人の女性です。聖武帝には生後一年を待たずに亡くなった基王(もといおう)の他に、安積親王(あさかしんのう)という男子がいたにもかかわらず、この空前で、今のところ絶後の措置がとられました(738年)。たぶん実母の藤原光明子(藤原不比等の娘で、臣下から初めて正式な皇后となった。安積親王の生母ではない)を中心とした、藤原氏の策動が最大の要因だったのでしょう。
 聖武帝は生前に孝謙帝に譲位し、太上天皇となった(749年)初めての男性ですが、是非娘の血統に天皇位を継がせようというまでの気持ちは最終的にはなかったらしく、遺詔(遺言である詔)で、天武帝の孫の道祖王(ふなどおう)を次の皇太子にするように命じています(756年)。因みに天武帝は孝謙帝の高祖父になりますので、この時点で次の帝は血統を四代遡ることになりました。
 父・上皇の没後、孝謙帝は強引なことをやり出します。
 まず、立太子後一年も経たないうちに、道祖王の行状が悪いことなどを理由に、廃嫡します。代りには、彼の従兄弟の大炊王(おういおう)を立て、四十二代淳仁帝とし、自らは退位しました(758年)。
 しかし、四年後に出家すると同時に、「政事は、常の祀と小事は今の帝が行ひ給へ。国家の大事と賞罰は朕が行ふ」と詔(みことのり)を出し、淳仁帝から行政・司法権を取りあげています。実際にその通りになったとすれば、事実上の院政の最初です。当時院宣という言葉自体がなかったのでしょうが、それにしても、上皇であっても天皇ではない人がおおっぴらにこんな詔を出せただけでも驚きです。
 その後、淳仁帝は太政大臣藤原仲麻呂と組んで乱を起こした、わけではないのですが、ごく親しい仲だった、という理由で、皇位を取り上げられ、淡路島に流されて、やがて亡くなります(764年。殺された疑いあり。当時の皇室には、安積親王を初め、不審死した人が多い)。
 もう一つ、弓削の道鏡との逸話は、戦前の人ならみんな知っていたでしょうが、今はどうでしょうか。
 上皇時代に病気になった孝謙→稱德帝を。献身的に看護した僧・道鏡を寵愛し(淳仁帝がそれを諫めたのが、この義理の母子の不和の原因だという話もあります)、重祚してから、彼と結婚して皇位も譲りたい、と言い出したのです。「續日本紀」には、露骨に書いてあるわけではないですが、その後の成り行きから、そうとしか思えません。
 記録されていることの概要はこうです。宇佐八幡宮から、道鏡を天皇にすれば世は治まるという神託があった、と報告された。確認のために、官人・和氣清麻呂が派遣され、聴いた神のお告げは、

我が国家は開闢より以来、君臣定まりぬ。臣を以て君と為すことは未だこれ有らざるなり。天つ日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃除すべし

 「君」には必ず皇緒、つまり天皇家の血縁を立てよ、という、万世一系に近い概念が公式の史書に登場するのは、これが最初ではないでしょうか。都(平城京)に戻ってこれを奏上した清麻呂は、名を別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)に変えろ、と言われ、流罪にされました(769年)。彼はこの一事をもって、日本史上の英雄の一人に数えられています。一身を賭して皇統を守った、ということで。
 これに対する反論、とでも言えそうなことは、女帝のそれ以前の詔にあります。
 まず、淳仁帝を追放するとき、「王(おおきみ)を奴と成すとも奴を王と云ふとも、汝の為(せ)んままに」せよと、父・聖武天皇から言われていたのだ、と。次に稱德帝になってから、同じく父帝から言われたこととして、次のように述べています(769年)。

此の帝の位と云ふ物は天の授け給はぬ人に授けては保つことも得ず、亦(また)変へりて身も滅びぬる物ぞ。朕が立てて在る人と云ふとも、汝が心に能(よ)からずと知り、目に見てむ人をば、改めて立ててむ事は、心にまかせよ。

 天意に適わぬ人が帝となっても、位を保つことはできず、自分の身を滅ぼしてしまうばかりだ。だから、あなたから見てよくないと思えたら、たとえ自分(聖武帝)が選んだ者であっても、自由に変えてよい、ということです。
 本当に聖武帝がそう言ったのかどうかは、何しろ女帝の言葉しか残っていないので、わかりません。それでもここには、支那伝来の「天命」思想がはっきりと出ているのは注目されます。血統より、天命が、それに適うほどの徳のほうが大事だ、というわけですから。
 しかし結局、稱德帝の思い通りにはなりませんでした。道鏡を帝にすることはできず、上の詔を発した翌年に、独身のまま崩御しています。五年後には姉の井上内親王も子(一時は皇太子になった)とともに横死し、ここに天武帝の血統は完全に絶たれて、皇位は天智帝の系統に受け継がれて今日に到ります。

 以上から、皇位が原則として男系男子に受け継がれてきた意味を考えると、次のようなことではないでしょうか。
 神武天皇以来のY染色体の保持、なんてことを昔の人が思っていたわけはありませんから、これは、「家」の存続が重要視された結果なのでしょう。
 そうは言っても、前述のように、相当な名家であっても、子供がいなかったら養子をもらうのは、どこでも当り前です。特に娘に婿を貰った場合には、男系女系にこだわらなければ、血統はちゃんと繋がっているのだから、特に問題にされません。
 問題になるのは、これに天皇位が絡んでくるからです。家はそこに生まれた男のものであって、女は嫁に来たらそこの家の者になる、という観念は、「家」だけの話なら目を瞑ることもできます。
 その家が、代々天皇という日本における至高の存在を出すのだとなると。他家から来た男がそれを受け継いだ場合、天皇位も以後その男の家、弓削の道鏡なら弓削家へ移ってしまう。これは「(易姓)革命」である。その感覚は、男系が続けば続くほど、どんどん大きくなって、捨て難くなるのです。
 現在は、家観念自体がずいぶん小さなものになりましたので、そんなものにこだわる理由はないように思えます。しかし、日本の伝統の中核を担う天皇家だけは別かも知れない。すると?
 どうなるか、どうするのがいいのか、皆さんもお考えになってみて下さい。

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