橋本周延・画 於鹿鳴館貴婦人慈善会之図 明治20年
メインテキスト:山田風太郎「エドの舞踏会」(初出:『週刊文春』昭和57年1月7日~10月14日/文藝春秋社昭和58年刊/文春文庫昭和61年/ちくま文庫『山田風太郎明治小説全集 八』平成9年)
正月でもあるし、たまには華やかな話をしてみたくなりました。それで、山田風太郎の傑作小説を元に、文明開化期の日本に彩りを添えた女性たちについて、漫然と語ってみます。
鹿鳴館は、外務卿(明治18年の内閣制度発足後は外務大臣)井上馨の案で、明治16(1884)年、内山下町の旧薩摩藩邸跡地にできた、敷地面積100坪ほど、洋館二階建ての豪奢な社交場である。
幕末に結ばれた不平等条約、特に治外法権制度の撤廃を目指して、日本は野蛮国ではない、と欧米各国にアピールするために、あちらの上流階級の風俗である女性中心の夜会だか舞踏会、それにチャリティ・バザーなるものもやってみせよう、そのための会場として作られた。
いやあ、文明開化から20年も経っていない時期に、よくやったなあ、と感心半分呆れ半分に思う場合が今も昔も多いことだろう。特に舞踏会は。
大人数相手の饗応や宴会はもちろん日本でも昔からあり、江戸時代には一般に芸者と呼ばれるプロの女性が歌や踊りやおしゃべりで雰囲気を盛り上げる要員をしたことはあっても、彼女たちはあくまで脇役。
だいたい、冠婚葬祭は別として、身分の高い女性が着飾って酒席へ出てくることも、夫婦同伴で招かれるようなこともなかった。レディ・ファーストとか言って、少なくとも表面上、女性が重んじられる、などというマナー(社会的行動規範・様式)なんて、てんから必要性が感じられていなかった。
西洋風のパーティで最重要視された、女性に期待される一番のアトラクティヴ・ポイントは優美さであり、二番目は会話を盛り上げる当意即妙の機転である。
日本女性は、一番目の点で、洋服を着慣れていない。それもシンプルなものではなく、夜会服は、当時フランスで流行していたというバッスル・スタイルというやつ(今もありますか?)。
ヒップラインを強調するのだというけれど、スカートの中に鯨のヒゲや鉄板(これがバッスル)を入れて後ろに大きく突き出したもので、とても重いのだそうだ。踊るどころか歩くのもたいへん、いやその状態で椅子に座れたのか? なんて余計な心配までしてしまう。
そこまでして、これ、カッコいいかしら? 私のようなファッションセンスがゼロの男の目から見たら、だけでなく、蜂みたいだ、いや、鶏か、云々の悪口は昔からけっこうあったと聞く。
二番目の点では、おもてなしの主な対象は外国人なわけだが、彼等に気の利いたことを言える言えない以前に、外国語が話せない。
例外として、夫の赴任に同行して2年間欧米に滞在し、語学だけではなく社交術も学んだという井上馨夫人・武子や、日本最初の女子留学生の一人として津田梅子らと渡米して彼の地で11年間過ごし、ヴァッサー大学を卒業して日本の女性学位取得者第一号となった大山巌(日露戦争時の元帥・陸軍大将)夫人・捨松など、他にも何人かいたが、あくまで例外。
勢い鹿鳴館に集められた日本の貴婦人たちは、文字通り「壁の花」よろしく、ただいるだけの存在になるしかなかった。
それでいていわゆる鹿鳴館外交が所期の目的に役立ったのかと言うと、明治20年には条約改正交渉はいったん打ち切られて井上は辞任、23年からは鹿鳴館自体が華族会館となって、その後大きな催しには使われなくなったのだから、この試みは失敗と言うしかないようだ。
所詮は欧米の単なるサル真似を演じたに過ぎない、などと、当時から今まで、日本人からも外国人からも批判されている。
しかし私は、新時代の日本の面目をなんとか立てようとする必死の努力を、特にそのために無理に駆り出された女性たちの苦労を、嗤う気にはなれない。数々の無益と有害を重ねた果てに、現在の日本があるのは確かなのだから。
「エドの舞踏会」は、明治18年、海軍少佐・山本権兵衛(ごんべえ、が元の読み方だが、偉くなってからは、ごんのひょうえ、と呼びならわされている)が、自分が艦長を務めていた横須賀に停泊中の軍艦・天城を夫人に見せに行った帰途、新橋駅前で陸軍中将・西郷従道(西郷隆盛の弟、大山巌の従兄弟)に呼びとめられ、夫婦で馬車に同乗させられたところから始まる。
車中権兵衛は西郷から思いもかけないことを依頼される。鹿鳴館の夜会が盛り上がらない、殊にご婦人がたの集まりが悪くて困る。ついては山本夫妻を初め、他の海軍士官にも呼びかけて、出席してもらえないか、というもの。
権兵衛はにべもなく断る。海軍では、陸軍も同じことだが、旧幕時代の武士の気風を色濃く残していて、軟弱極まるダンスなんぞやっていられるか、という思いが一般であり、権兵衛自身もその点では全く同意見だったのだ。
しかしこの年の暮れ、内閣制度が発足すると、なんと西郷が海軍大臣となり(陸軍中将がいきなり海軍大臣というのは、その後例がない)、権兵衛はその伝令使(後の大臣秘書官に当る)に抜擢される。
兄・大西郷と同様何事も鷹揚で細かいことには口を出さないこの大臣の下で、権兵衛が辣腕を揮い、日本海軍の基礎を築いたのは歴史家の認めるところだが、この小説中のフィクションとして、彼はまた鹿鳴館がらみの仕事を命じられる。
直接には大山捨松のことだ。
今で言う帰国子女、それも非常に稀少な存在だった時代に、他のご婦人方にダンスや簡単な英語や夜会の場での作法を教え、井上武子と並ぶ鹿鳴館外交の女性リーダー格だった人が、そのために国粋主義者の怒りを買い、脅迫状も来れば実際に襲撃計画もたてられたところから、閉口して鹿鳴館に姿を現さなくなってしまった。
これは日本にとって一大事だ。権兵衛は彼女に付き従って護衛をするとともに、ご婦人方のダンスの練習相手もつとめるように、と。
護衛はともかく相変わらずダンスは渋る権兵衛に、西郷は「西洋の猿真似と言えば、海軍も陸軍もそうではなかか」「この件、この際、お国にとって、敵艦何隻かを撃沈するにまさる大功じゃ」と叱り飛ばす。
直接の上官から言われたのでは依頼ではなく命令だ。やむを得ず捨松を訪ねると、こちらはこちらで、「帰ってから日本で、そんなことをするために、向うの大学で勉強したのじゃなかったのですわ」とぼやきつつも、権兵衛の朴訥な率直さにうたれて、とりあえず西郷主催の会を成功させるべく、権兵衛同道の上で、顕官夫人たちの説得に廻ることにする。
大山捨松
これが発端で、以後読者はこの二人に案内されるかっこうで、井上馨、伊藤博文、山縣有朋、黒田清隆、森有礼、大隈重信、陸奥宗光、ル・シャンドル、の各夫人に出会う。小説全体は、彼女たちを主人公にした短編連作と見るのが一番適当。
そこでの一番の問題は、当然、国際外交などではなく、夫婦関係であった。
時代は日本のジャーナリズムの草創期でもあった。横浜毎日新聞(明治3年)、東京日日新聞(5年)などの、政論主体のインテリ向け大(おお)新聞の他に、庶民向け娯楽本位の小(こ)新聞としては、読売新聞(7年)、朝日新聞(12年)などが既に出ていた。
この二つの区分はすぐに消えていったが、後者の分野で、一番のウリと言えば、今も変らない、スキャンダルだ。それも著名人の、下半身絡みのゴシップは、いつも需要があった。
ただ身分社会では、上流階級への遠慮は当然のことで、活字、ではなくて版木を彫って刷るような際には、名前はもちろん、場所も時代も変える粉飾を施さなくてはならなかったが、五箇条の御誓文以来、たてまえ上皇室以外の四民は平等になっていた。
そこへ貴婦人たちが、鹿鳴館外交のおかげで、お飾りではあっても社会の表舞台に出てきたのだ。さらに都合がいいこと(でしょう?)に、明治初期の高位顕官の妻女には、庶民の、それも花柳界出身者が珍しくなかった。
なにしろ維新の元勲と言えば旧来の藩内では中流か下流の武士で、上流家庭から嫁を娶ることなど望めない身分の者で占められていたので、特定の芸妓と馴染みになると、そのまま結婚するのにもあまり抵抗はなかったからだ。
古くは維新三傑の一人木戸孝允夫人・松子が幾松の名で京の芸妓をしていたのは有名。その他に伊藤博文の二度目の夫人・梅子や陸奥宗光夫人・亮子も元芸妓である。また井上武子と大隈重信夫人・綾子は、ともにれっきとした旗本の家出身だが、維新後零落したため、若い頃同じ茶屋で奉公していたという噂があった。
【今気がついたのですが、維新政府における長州閥の有力者の、有名な夫人の名前を読みで並べると、マツ・タケ・ウメになりまして、なんとなくお目出度い。呵々。】
一番ドラマチックな結婚をしたのは、最初に登場した山本権兵衛夫妻である。夫人の登喜子は新潟の貧農出身で、品川の遊女に売られたものを、権兵衛が見初めて、なんと夜間、海軍の仲間とボートで品川沖から侵入して、彼女を強奪したのだ。
いわゆる「女郎の足抜け」。明治5年には太政官布告・人身売買禁止令と司法省達・芸娼妓解放令が出て、強制的な売春は名目上禁止されたが、売春そのものが非合法になったわけではなく、金銭による縛りの点では年季奉公が前借金に変わっただけで、江戸時代からの遊里の慣習は実質的には残っていた。
それからしたら権兵衛のやったことが無事に済むわけはなかった。しかし、遊郭側としても上得意の海軍と正面から揉めるのは避けたかったらしく、結局は金を払って身請けの形にして収まった。最初からそうすればよかったんじゃないか、と思えるけれど、権兵衛としては、登喜子をそんな場所から一日も早く救い出したかったのだろう、とこれは私の想像。
その後「夫婦むつまじく生涯たがいにふわ(不和)を生ぜざる事」などの誓約を交わして二人は結婚。社会的に成功した男はよそに女を作るのが当り前だった時代(例えば後述の陸奥宗光など、アメリカ人にbrilliant womanとよばれたことさえあるという妻を持ちながら、艶福家として有名だった)に、権兵衛は固く約定を守り、鴛鴦夫婦として生涯添い遂げた。
以上は鹿鳴館外交を進める上でも有利なことではないかと思えるだろう。文字通りほぼずっと家の奥にいる「奥方」より、酒席に出て、そういう場での男とのやり取りも経験しているほうが、言葉の問題さえ克服できたなら、洋風のパーティには明らかに向いていそうだから。
ただし、今までなんとなく芸妓とか茶屋奉公とか呼んできたが、江戸から明治まで、接客業の女性にもかなりはっきりした等級があった。大きく分けて、芸者と遊女の違いがある。
陸奥亮子
例えば陸奥亮子がそうだった新橋の芸者の場合。
こちらは花街であっても遊郭ではなく、芸事中心の遊び場として知られていた。亮子は、父は武士だが母は妾で、父の顔はほとんど見たことがなく、小さい頃から置屋(芸者を抱えている店)に入って歌舞音曲の稽古はもちろん、和歌を中心とした古典の知識も仕込まれた。教養のある、いわゆる粋人を相手にするのがたてまえだったのだ。
彼女は小鈴の源氏名でお座敷に出て、板垣退助の愛人になった(正妻にはならなかった)小清と並ぶ人気芸者になってからも、「男嫌い」の評判があったそうで、「芸は売っても身は売らぬ」が、ある程度は通用する世界だったのである。
結婚後には大山捨松などから英語を習い、鹿鳴館の華と謳われた後、明治21年に駐米公使となった夫について渡米、その美貌と才知によってかの地でもたいへんな評判を得たそうだ。不平等条約改正の第一の功労者は陸奥宗光だが、その傍らにいた亮子の力も、何かと大きかったろう。
一方落語にもよく登場する品川の遊女は、「宿場女郎」で、江戸時代でも幕府に公式に認められた公娼ではなく、お目こぼしされていた私娼である。三大遊郭(江戸吉原、京都島原、大坂新町)などより、安価にまた気軽に遊べるのがウリだった。山本登喜子は、短い間でも男から手軽に扱われる立場だったことを恥じる気持ちもあってか、人前に出ることを嫌った。
「エドの舞踏会」の最後は、西郷主催の夜会に、「立派なご婦人たちを見せるために」と、権兵衛が妻を鹿鳴館へ連れて行くところで終わっているが、これはフィクションであろう。
この小説で取り上げられた大きなスキャンダルは二つ、初代文部大臣・森有礼夫人の常子と、第二代総理大臣・黒田清隆についてのものである。
最初のは、常子が女子を産むと、それは紅毛碧眼であったために森家を離縁されたというもので、スキャンダルより今で言う都市伝説に近い。
森は、英語を今後の日本の共通語にしようと一時唱えるなど、井上馨などをはるかに超えた欧化主義者として知られ、非難を浴びることが多く、とうとう暗殺された。この話もそんな彼への反発から出てきたものだろう。
常子は、士族、つまり武家の出身。外交官だった森と日本最初の契約結婚(山本夫妻のように、約定に基づいて夫婦になること。福澤諭吉が証人を務めた)をしてから、公使となった夫に付いて、清で3年、イギリスで4年半過ごした。西太后とヴィクトリア女王両方に拝謁した唯一の日本人女性となったのである。
明治17年に帰国すると、大山捨松が主催した鹿鳴館のチャリティ・バザーに参加している。英語力の点だけでも、捨松の片腕たるに相応しい人物のようだが、その後の活動の記録はなく、明治19年によくわからない理由で離婚してから、杳として消息を絶った。これも上の伝説が生まれた基だろう。
実際は、静岡事件と呼ばれる伊藤博文の暗殺計画に常子の実家を継いでいた養子が加わっていたことから、有礼及び森家に迷惑をかけることを恐れて身を引いたのだ、とする説が有力。すると常子の犠牲的な精神から出たことになるが、小説では、敢えて、外国人の子を産んだというフィクションを生かし、日本と西洋の精神的な間隙に落ち込んだ夫婦の悲劇を描こうとしている。
全体の調子は一種の怪異譚になっているので、そういう、事実とは違うお話として愉しめばよい。
題材にされた二番目のスキャンダルのほうがずっと大きく、今でもけっこう有名。何しろ、総理大臣まで務めた人の妻女殺害疑惑なのだ。こういうのは世界的にみてもあまり例がないだろう。
西南戦争終結直後の明治11年、樺太開拓使次官として、実質的に北海道・樺太の開発と統治の最高責任者だった黒田清隆の妻・清(せい)が23歳の若さで亡くなった。元々患っていた肺病の悪化によるものだと届けられたが、実際は酔って帰宅した黒田が彼女と口論になり、斬り殺したのだろうという風評がたち、新聞にも書かれた。
黒田は普段は思慮も人情もある人物だった。戊辰戦争では政府軍を率いて、函館五稜郭に立て籠もって最後の抵抗をした幕臣・榎本武揚と戦ったが、榎本が降伏すると、「航海術にかけては日本随一の人物で、殺すには惜しい」として頭を丸めて助命嘆願した。
また、今後の日本のためには海外留学経験者が必要不可欠だと唱えて、大山捨松らを送り出す献策をしたのも彼だった。
しかし酒量が一定限度を超えると人が変って暴れ出す。二年前にも酔って軍艦から大砲を発射し、誤って民家を破壊、死傷者まで出している。この時には金を払って示談にした。このへん、四民平等とはいえ、現在とは感覚が違う。しかし清のときは、伊藤・井上ら長州閥の有力者が騒ぎ出した。
これに対して西郷隆盛亡き後の薩摩閥の重鎮・大久保利通が黒田を庇う。それでも、墓を掘り返して検屍して、他殺の形跡はない、と報告が出るまでには至ったのだが、その任に当った大警視(現在の警視総監)・川路利良は大久保の腹心として知られていたから、疑惑は消えなかった。
この二ヶ月後には大久保も暗殺され、黒田が薩摩閥のトップとなって、明治21年には伊藤の後を襲って二代目の内閣総理大臣に就任。むしろそれだからこそ、この嫌疑は長く残り、彼の妻殺しは明らかな事実であるように書く人が現在もいる。
「エドの舞踏会」に登場するのは、清ではなく、後妻の瀧子。元博徒で江戸の本所で材木商として成功した丸山傳右衛門の娘、というのは名目で、実際は深川の芸者だった者を黒田が惚れ込んで、傳右衛門の養子ということにしてもらい受けたという、これも当時の噂が使われている(これは嘘だろう。上述の情況で、妻が元芸者であることを隠さねばならぬ理由などないのだから)。
黒田とは23歳の年齢差がある。夫の死後、「不行跡」があったとして黒田家を離縁されていて、これが小説の発想の基になっている。
妻を殺した自責の念に苦しめられている黒田を見て、榎本武揚が「あれは今後の日本のために大事な男だから」と瀧子に両手をついて結婚を頼み込んだ。惚れた女と一緒になれば精神的に安定するだろうというわけで。とはいえやはり黒田の酒乱は心配ではあったので、瀧子の幼馴染みで榎本家の馬丁をしていた山代源八に、いざというときには瀧子を守ってやるようにと言い含めて、黒田の馬丁として送り込んだ。
それを知った黒田は、二人の仲を疑い、酔うとそれをネタに理不尽なDVを奮うようになった。瀧子はそれにじっと耐えていたが……。
これ以上は実際に小説を読んでいただきたい。絢爛たる性の残酷話は、谷崎潤一郎に匹敵する迫力で、この短編連作中第一の傑作になっている。谷崎はヴァンプ(ヴァンパイアからきているようだ)と言われた悪女が好きなので、このヒロインのような、一途な烈女は描かなかったことを思うと、余計に感銘深い。
以上、虚実取り混ぜた日本近代初期女性伝に浸ってみました。
それぞれが置かれた時と場所で懸命に生きて輝いたご婦人たちには、改めて深甚な敬意を表します。
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