BBC News 2014/5/3
メインテキスト:「【演説全文】ウクライナ侵攻直前 プーチン大統領は何を語った?」(NHK NEWS WEB 令和4年3月4日)
映画監督の河瀬直美さんが4月12日に東京大学の入学式で祝辞を述べ、そこで言われたことがけっこう話題になりました。その部分を引用しますと、
例えば「ロシア」という国を悪者にすることは簡単である。けれどもその国の正義がウクライナの正義とぶつかり合っているのだとしたら、それを止めるにはどうすればいいのか。なぜこのようなことが起こってしまっているのか。一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか? 誤解を恐れずに言うと「悪」を存在させることで、私は安心していないだろうか?
これにはいろいろ批判が出たようですが、一応妥当な意見と言っていいようです。そこを敢えてつっこむ、というか、いささか絡むような言い方になるのですが、「~は簡単だ」というのは、ある見方をクサすときによく使われるんですけど、それだけに、とても「簡単」な言い方ですね。簡単だからまちがい、複雑だから正しい、ということはありませんので、実際は、その見方は表面的な、安易なものである、と言いたいわけでしょう。でも、どこがそうなのかを言わないんだったら、これは一方的な、安易、というよりは、単なるイヤミに過ぎないものになる。
「『悪』を存在させることで」云々は重要で、世の中、善悪はそう簡単にわかるものではないのに、いやむしろ、だからこそ、そう決めつけて、とりあえず自分の精神を安定させる。対立するどちらにも言い分はあるんだから、云々というようなのは、何か曖昧で、不得要領で、まちがいを恐れて判断を留保する、狡さのように感じられることもある。
そこに罠がある。そうですね。でも、そう言って、「ロシアは悪である」という言い方にケチをつけるだけなら、こちらのほうがはるかに狡い、と言ってもいい。どこまで行っても、人間の言葉って、こういう回路のどうどう巡りを繰り返すしかない宿命にあるようです。
河瀬さんは結局、「自分の頭で考えろ」という、こう言ってしまうとまた、かなりよくある、安易にも聞こえることを勧めていますんで、ウクライナ情勢という、世界史的な大事件について、素人はこんなふうにも考えるんだ、の一例を述べてみましょう。
地上波TVや大新聞をざっと見ると、「これはロシアによる侵略だ」「悪いのはプーチン大統領だ」一色のようですが、必ずしもそうではない。
例えばロシア軍が民間人も殺害している、これは「人道に対する罪」にあたる、れっきとした犯罪である、という欧米発の見解は確かに大きく報じられますが、いや、あれはウクライナが作ったフェイクだ、画像や動画も、劇映画のように、演出されたうえで撮られたものか、あるいは、ウクライナ人をウクライナ軍自身が殺したものを、ロシア軍の犯行だと主張しているんだ、というものもある。後者を信じ込み、ウクライナを悪と決めつけて、「安心」しているような人も、フェイスブックやユーチューブなどの、SNS上ではよく見かけます。
高度情報化社会とは、偽の情報を作って流す技術も進歩する社会で、情報が増えれば増えるほど、情報ゼロと同じになる、わけではありませんが、とんでもない錯誤に導かれる恐れは大きくなります。今起こっていることの真相は、私などにわかるはずがない、という曖昧で卑怯にも見えるかも知れない態度に留まるしかない、と感じます。
ある程度は確かではないか、と思える始まりの部分をここでは振り返ります。
指標にすべきものとして、二つの「約束」があります。
まず時期的に近いほうから。ドンバス戦争とも呼ばれるウクライナでの紛争を収めるために、2014四年と15年の二回にわたって、ベラルーシのミンスクで結ばれた、通称「ミンスク合意」という停戦協定。
ロシアとウクライナの因縁は、それこそ千年を越える歴史があるわけですが、今回のことに直結しているのは、マイダン(正確にはユーロ・マイダン、「ヨーロッパ広場」の意味で、ロシアからの独立運動の本拠地)革命と呼ばれるものから、でいいのでしょう。プーチンに言わせるとそれは「2014年にウクライナでクーデターを起こした勢力が権力を乗っ取り、お飾りの選挙手続きによってそれを(訳注:権力を)維持し、紛争の平和的解決を完全に拒否した(下略)」こと。
大略は、親ロシア派のヤヌコーヴィチ大統領が、暴動にまで(銃の乱射事件もあった)発展した反対運動で逐われると、これに反発した親ロ派はロシアの軍事的な援助でクリミアの分離独立を果たした。その後に続いて、ドネツク州とルガンスク州、一般にドンバスと総称される地域の一部でウ政府に抗する勢力が蜂起した。ウクライナの民族主義者側では、今は日本の地上波TVでも名が呼ばれるアゾフ大隊という民間武装組織が結成され、ロシア系の住民に対して圧迫を加え、時には虐殺も敢行した。
プーチン大統領がネオナチと呼んでいるのは彼らであって、ウ政府は現大統領も首相もユダヤ系なのにな、と日本では皆戸惑ったのですが、つまり反ロシアということです。今回の戦争の第一の目的は、こういう人たちからロシア系及び親ロ派を救援することだ、とプーチンは言いました。
元々、マイダン革命には、アメリカの、特にネオコン(neoconservatism、新保守派、反ロシア派)と呼ばれる勢力の関与があった、というよりは黒幕であった、ということはよく言われています。
一方、ドンバスの親ロ派・分離独立派の後盾には、ロシアがあった。武器供与の他、ロシア軍もいくらか、非公式に派遣されていた。それがなければ、ドンバス戦争はとうに終わっていたろう、とも。すると、今の戦争はロシアとアメリカ(ネオコン)との代理戦争だ、とも言われますが、代理戦争はもう8年前に始まっていたことになります。
そこでミンスク合意ですが、要点は、①二つの州の「特別な地域」で戦闘に従事している違法な武装集団や傭兵は逮捕するか、国内から撤退させる。そのうえで、②この二州は、分離独立させる必要はないが、「特別の地位」を認め、ウクライナは連邦制にする。こうすることで、国内での新ロ派の発言権が強くなるから、ウクライナがEUやNATOに加盟することは恒久的に阻止できる、これがロシアの本当の狙いであったのでしょう。
これによってウクライナ側が得ることは、「紛争地域全体での国境の管理を回復すること」のみです。「回復」(restore)ですからもとにもどるだけのこと。一方、ロシアは紛争当事国であることも否定していましたから、新たな義務は一切負わない。そこからしても、ロシア側に有利な取り決めであったことは明白です。
ウクライナにはこれを遵守する気はなく、ドンバスでの戦闘は続きましたし、アゾフ大隊はアゾフ連隊として正式な国軍に編入されました。プーチンはこれらの状況を受けて、本年2月21日に、ミンクス合意はもはや存在しないとし、ドネツク共和国とルバンスク共和国を国家承認して、24日の侵攻に踏み切ったのです。
大国の軍事力を背景にした一方的な取り決めであったにしても、約束は約束、ウクライナがミンスク合意を守れば、今回の事態には立ち至っていなかった、という人もいます。そうかも知れません。しかし翻って、だからと言って今回のロシアの本格的な軍事侵攻が多少は正当化されるかというと、どうでしょうか。
プーチンが正当性の根拠として挙げているのは国連憲章第7章51条(あとはロシア国内の規約と、ロシアが新たに承認した前記二つの「共和国」間の条約)です。その前の部分を引用します。
この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。
つまり、武力を伴う国際紛争が生じた場合、その当事国は国連安保理に訴えて処理を委ねなければならない、しかし現に戦力が行使されているのに、安保理で協議され、なんらかの処置がとられるまでの間、何もしないというわけにはいかないので、個別であれ集団であれ、自衛手段をとることができる、というものです。
それで、ウ政府から攻撃されているドンバス地方の(ロシアだけが認めている)二国からの援助要請に応じて、「集団的自衛権」による「防衛戦争」をするのだ、というのがプーチンの主張であるわけです。
ならば何より、安保理への提起が必要とされるわけで、それはあったのかというと、ありました。
『ウォール・ストリート・ジャーナル』2月17によると、ウ政府はロシア系住民の大量虐殺を企てている、という報告は出ています。英米は、これはウクライナを侵略しようとする口実をでってあげたものだ、として一蹴しました。ロシア側からすれば、門算払いを食わされたかっこうで、ウクライナ東部で起きているすべての騒乱の責任をこちらに押しつけようとしている何よりの証しだ、ということになります。
それでは、2014年から足かけ8年にわたる紛争で、責任はどちらの側が重いのか。これについても、最近の、キーウやブチャ、それにマリウポリで起きていることと同様に、いろいろな情報が錯綜していて難しいのです。一例だけ述べますと。
ウクライナの民族主義者たちがロシア系住民に対して行った非道として最も有名なのは、2014年5月、ミンスク合意前に起きた「オデッサ(オデーサ)の惨劇」です。南西の街オデーサ(19世紀に、ポグロムと呼ばれる、ロシア人によるユダヤ人の大規模な迫害が最初に起きた場所としても名高い)で、ヤヌコーヴィチを追放した後のウ新政権に抗議する親ロシア派が立て籠もった労働組合の建物が、極右民族派に放火され、四十六人が死亡、二百人以上が負傷した事件です。
もちろんこれ自体が悲惨ですが、さらに問題なのはその後の処理です。放火と殺人の実行犯たちは、いまだに捕まって刑事罰を受けていないのです。この事件はそもそもウ政府の差し金であった、とまで言われると、どうだかわかりませんが、疑われても仕方がない状況はあるのです。
私は最近、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の「ウクライナ人権報告書2016 年版」を見つけました(日本の法務省入荷国管理局の「仮訳」を通して)。これには以下のように書かれています(拙訳)。
(訳注:ウクライナの)政府は一般に、虐待を犯したほとんどの役人を訴追し処罰するための適切な処置を講じず、結果として不処罰の風潮を生んだ。人権団体と国連は、政府治安部隊が行った人権侵害に関する調査、特にウクライナ治安局(SBU)が実行したとされる拷問、拉致、恣意的な拘束、その他の虐待の申し立ての調査には、著しい欠陥があることを指摘した。2014年のキーウでのユーロマイダンの銃乱射事件や、オデーサでの暴動の実行犯は、未だに責任を問われていない。
この状態が続いたのだとすれば、ロシアの侵攻の是非はともかく、怒りはもっともだ、とも思えます。しかし、この報告にはまた次のようにも書かれているのです。
ドンバスではロシアに支援された分離派が誘拐、拷問、 違法な勾留などを行い、児童兵を採用し、反対意見を押さえ込み、人道的援助を阻害した。これより程度は低いが、政府軍によるこのような行為のいくつかも報告されている。
少なくともドンバス戦争では、親ロ側のほうがより悪い、と。ロシアに言わせれば、国連もまた英米の走狗にすぎないからだ、ということになるのでしょうが。
離れた立場から見たら、個々の事例の真偽や程度はともあれ、双方に憎しみが溜まっていく過程ばかりは、強く印象に残り、胸が苦しくなります。それでも、大国ロシアの軍事侵攻が許されるわけではないですが、どちらかに、あるいは双方に、ただ「引け」、と言っても栓のない話ではあるでしょう。
というところで、時間切れ、エネルギー切れです。次回はもう一つの大きな軸であるウクライナとNATOとの関係を、もう少し詳しく見ることにします。
その場合の火付けは、憎しみをお互いに植え付けることになるので、この戦争は、恨みを晴らすという目的になりますので、結果はとても悲惨なことになります。いくら殺しても、誰も気が晴れることがない、殺戮が続きます。
一方で、戦争は外交手段のひとつであるとすると、戦争するぞ、と脅して、それでも引かない場合は、戦争しながら、お互いの妥協点を探ることになります。
以下は、私の妄想です。
ご笑覧下さい。
ウクライナの戦争が、8年前から始まっていると考えると、どうも、常套手段である、暴力団を使って、国民同士を争わせて、国力が削がれたところで、「助けてあげるから、言うことを聞きなさい」と収めようとしたところ、ロシアの介入のために、それが出来なくなった。
ロシアから欧州への天然ガスのパイプラインのバルブがウクライナにあるので、ウクライナを味方に付けておけば、大いなるメリットがある。
少なくともロシアは、資源大国ですので、どんどん天然ガスを買って欲しい、それなのに、この紛争に巻き込まれて、悪者扱いされ、世界から孤立されたり、不本意なから、苦しい状況に追い込まれてしまっています。
このシナリオでは、ゼレンスキー大統を、ウクライナのリーダーである、とは、私は、全く認めておりません。国内の内紛を国法に従って、収めたり、犯罪を取り締まったすることで、内紛は収まるはずです。普通、難民というと、その国の政府に追われて逃げ出したり人であり、ロシア軍に襲われて、逃げ出す場合、外国ではなく、政権を頼りにするはず。政権は何をしているのか、と思います。
ロシアにとっては、この戦争は、何のメリットもないはず、外交手段としての戦争の目的が何か、解らないですね。
ウクライナのNATO加入、EU加盟を阻止するために、戦争しますかね。
ロシアは、共産国家ではなく、プーチンは、単なる反グローバルであり、グレートリセットにも反論していて、まともな政治家だと思うのです。
世の中の風潮として、戦争は悪、人の命は大事、だから、戦争を起こした人は悪だ、人としての許せない、という単純な論理で、誰も反論できない、
如何にも正しいことを言っているので、中学生や高校生も、素直に賛同して、戦争反対活動に組み込まれたりします。
でも、一国のリーダーが、感情的に戦争をするのか、そんなことはありませんね。じゃ、誰が最初に殴りかかったのか、手を出したほうが悪い、それがわからない場合は、喧嘩両成敗だ、というようなことになります。
国同士の場合、感情論ではなく、誰が一番得するのか、裏に何が悪たくみを考えている輩がいるのではないか、ということですね。
すみません、結論は出ていません。現状では、頼りになる真実がどこにも出ていない、何が真実かも、わからない状況で、
結論、先送りです。
戦争のプロバガンダとして、以下の考えが、プーチンにもゼレンスキーにも当てはまります。
「戦争プロパガンダ10の法則」の目次です。
1章 「われわれは戦争をしたくはない」
第2章 「しかし敵側が一方的に戦争を望んだ」
第3章 「敵の指導者は悪魔のような人間だ」
第4章 「われわれは領土や覇権のためではなく、偉大な使命のために戦う」
第5章 「われわれも意図せざる犠牲を出すことがある。だが敵はわざと残虐行為におよんでいる」
第6章 「敵は卑劣な兵器や戦略を用いている」
第7章 「われわれの受けた被害は小さく、敵に与えた被害は甚大」
第8章 「芸術家や知識人も正義の戦いを支持している」
第9章 「われわれの大義は神聖なものである」
第10章 「この正義に疑問を投げかける者は裏切り者である」
アンヌ・モレリ『戦争プロパガンダ10の法則』は読みました。良書ですね。すべてのイデオロギーは偽であるとして、にもかかわらず多くの人間・国民全体を巻き込むのは言葉のテクニックの問題だとすれば、それはこういうのだ、の例示として適確なものでしょう。
問題は、よくあるように、前提の部分です。イデオロギーというより、もっと広く、集団に関する観念(≒共同幻想)と言ったほうがいいですかね、それなしでいられる人がいるのかどうか。例えば「日本的なものの見方・やり方」とか。
そんなものを普段から意識している人はあんまりいませんよね。鋭く意識されるのは、それが危機に瀕していると感じられるときで、それの一番端的な状態が戦争なわけで。
その意味では、こういうものを、モレルの言う「偉大な使命」だなんて、思い込ませないようにするのがよい政治だ、と言えるでしょう。しかし、特定の「~的なものの見方・やり方」=「文化」には、なんの価値も認めない人がよその世界にはいる以上、危機の可能性は常にあります。
危機の時に、必要以上に危機感を煽る人・アジテーターは必ずいて、それは広い意味の政治家でしょう。もっとも、権力者とは限らない。二・二六事件の青年将校は直接的な暴力で、蓑田胸喜のような右翼の活動家は圧力団体の力を背景にして、社会に影響を与える。
もちろん彼らのほうでは、「日本的なもの」の価値を命がけで守ろうとしているつもりなんです。それに同意しない者はバカか、あるいはもっとすすめば、排除すべき敵だ。こういうところでモレルが分類・例示したテクニックは存分に活用される。
問題は次です。こういう人たちが一般国民・大衆を扇動し、圧迫して、戦争に駆り立てる、ということは確かにあるにしても、事態はそれだけなのか? 大衆とはただ操られるだけの、無力な、愚鈍な存在なのか?
私は今、趣味で、日本の近代史・戦争の歴史をポツポツ勉強しているんですが、そこでは大衆の声、いわゆる輿論の力で、日本という国が危険な方向へと舵をきったと見える局面はあります。
それはマスコミであって、朝日新聞など、大東亜戦争前にはずいぶん戦争熱を煽ったのだが、イコール大衆の意向、ではないだろう、と言われればそうですが。しかし、今でもそうですが、ここを二つに、截然と切り分けられるものではない。
マスコミは大衆に迎合した論調で報道する/大衆は報道の論調に応じて動かされる。この二つは要するに、同じものの両面ではないですか?
さらにもう一段階上げることができる。権力者は大衆を自分の都合のいいようにあやつろうとする/大衆は自分たちにとって都合のいいような者を権力者として認める。このような回路は、絶対王制でさえ見出すことができるものでしょう。
そしてまた、一国の中で、本当に価値あるものに関する意識が明瞭に分裂する、つまり、一方に「なんの価値も認めない人」がいると、その対立は最も深刻になる。ウクライナは、ロシアとは言語も文化も宗教も近い「兄弟の国」だとロアシアや親ロシア派は言い、いや、ホロドモールを典型として、その「兄弟」によってどれほど酷い目に合わされてきたかを考えれば、とてもいっしょにやっていくなんてできない、と反ロシア派は反発する。
後者を利用して、ロシアの力を削ぎ、プーチン体制を打倒してやろうと画策する者(ネオコンがそうで、自由と民主主義を力づくでも押しつけようという、あからさまに矛盾した望みを抱く原理主義者らしいです)も、武器を売って儲けようとする者もきっといるでしょう。しかし、それが大元だとは思えない。
たとえそうだとして、それが暴かれたとしても、上の対立感情が解消するわけはなく、機会があればまた燃え上がるでしょう。
ざっと以上が、私が今感じているウクライナの悲劇の根本です。いかがですか?