Extract from Ship of Fools (painted c. 1490–1500) by Hieronymus Bosch
前口上(由紀草一)
反知性主義、なる最近の用語は、ある種の、ひと昔前の用語だと「進歩派」なる陣営に属する知識人たちが、自分たちの反対派は「バカ」なんだ、ということを、多少お上品に言ったものです。だから、とてもイヤな言葉になってしまいましたが、元の、小難しいだけでものの役に立ちそうにない理屈や、それを口にする理屈屋に対する反感や不信という意味なら、世界中にあり、日本にもあります。
反知性主義というよりは反知識主義、ですかね。「知性」というのが既に、ブッた言葉ですから。それを、学校の中に取り入れようとする向きがあり、現に一部取り入れられている、と言うと、ちょっと不思議な感じがするでしょう。学校の第一の役割は知識を伝えることにあるはずですから。
でも、これはわりあいと自然なことです。何より、明治時代の草創期から、すべての子どもが学校に通うことは国家の要請だった。子どもを学校へ通わせることは国民の義務なんです。いわゆる、義務教育。子どもの側から見ると、誰もが、一定年限、否応なく行かなくちゃいけない場所、それが学校。ならば、「もうちょっと、オレの役に立つことを教えてくれてもいいじゃないか」という不満も、出てきがちではありますね。
学校側では、上の不満に応えようとした場合、さすがに知識なんて無益だ、とは言えないので、もっともらしく装います。それにはざっと二種類あって、
①学校では個々の知識とは別に、もっと「人として大事なこと」を学ぶべきだ、と。道徳教育がその具体的な方策として出てきました。これに対する批判は、本ブログ、「道徳教育という不道徳」でいたしました。
②従来学校でやる勉強には、何かしら欠けたところがあった。もっと多くの人を幸せにする「真の知識」があるはずだ。
近年、これに呼応した形で進められた「ゆとり教育」は、さんざん批判されて、どうやら頓挫したように見えます。でも、その謂わば双生児である「新学力観」は、名前こそ「問題解決能力」とか「生きる力」とか、いろいろと変わりましたが、依然として学校に居座っています。
①と②の両方とも、一種の反知性主義、あるいは反知識主義だ、というのが我々の、少なくとも私の、見立てです。もちろん、敢えてレッテル貼りをして、人の注目を惹きたいという動機もあることは否定しません。
そして今回の標的は、当然②です。
相方、じゃなくて実質的に「対話」の主である夏木智さんを紹介します。私と同じ茨城県立高等学校の教諭です。たまたま同じ学校で出会ったのですが、教育、というより学校問題について文章を書いたのは彼のほうが先でした。それに触発される形で、私も書いて、二人のを合わせて『学校の現在』というタイトルで出版できたのは、全くの幸運としか言いようがありません。
夏木さんの単著としては他に『誰が学校を殺したか』、『誰が教育を殺したか』、それに小説『不思議の学校のアリス』(これは物語としても面白い、傑作です。もっと知られてもよいのにと、他人の著作で歯がゆい思いをしたのは後にも先にも一度きりです)があります。同人誌『ひつじ通信』の主催者でもあり、ホームページへは左欄の「ブックマーク」中の該当項をクリックすれば行けます。
夏木さんから、久しぶりに学校論を共同でやろうじゃないか、と誘いを受けたのは、第一次安倍内閣の「教育再生会議」が、そろそろ最終答申を出そうかという七年前でした。対話形式がよかろう、でも、本当にしゃべって、その原稿を起こす、なんてたいへんだから、メールでやりとりをしたのをまとめようじゃないか、と決まりました。今回のシリーズはその時、つまり七年前にまとめて、『ひつじ通信』に掲載した「対話」の一部です。本当はメールのやり取りであるため、「対話」にしては、一人の発言部分が非常に長くなっている場合が多いことは、初めて読んでくれる人のためにお断りしておきます。
これをまた引っ張りだそうと思いついたのは、次の理由からです。最近またちょっと教育行政について考える機会があり、参考にはなるかな、と思って読み返してみたら、全然古びてない。というか、日本の学校は今日でもまたこの時期の「改革」の流れの中にあるとわかって、唖然としました。流れをなんとか押しとどめているのは、ひとえに教員の「鈍感力」(上からああしろこうしろ言われても、なかなか機敏に、その通りには動けない鈍重さ)の賜物です。
以上が本当かどうかは、読んでくださる人の判断にお任せするしかないでしょうが、あくまで個人的には、新学力観なんたらいう教育行政由来の反知性主義を、今後機会があるごとに批判していきたい、その出発点としてこれが最適、と思えました。最低限の手直しだけして、数回に分けてブログに掲載し、できれば皆様からのご批判を仰ぎたく思いますので、皆様、そして夏木さんも改めて、宜しくお願いいたします。
以下は夏木さんに送ったメールの、ほとんどそのままの引き写しです。
最初に、「ゆとり教育の見直し」から。見直すってことは、よくなかったんだということのはずなのに、どこがどうよくなかったのかの検討は全くなされないまま、中途半端な形で方向転換がなされようとしている。
今次の学習指導要領は小中高すべてで授業時間の一割増をうたっていて、その結果「総合的学習の時間」は節減されたけど、それでもなお週に一時間は残っちゃったというところ(以前のでは、小学校では三年生以上から週当たり三時間程度、中学校では週当たり二~四時間程度、高等学校では卒業までに三~六単位の配当)。よくないと決まったもんなら、すっぱり全部よすがいいのに、それじゃこのために努力した人たち、そこには制度を考えた人も、実施に当たった現場の教師も入るけど、彼らの面子をつぶすことになるから、忍びない、ということらしい。
けれどこんな日本的温情主義(かな?)は、この場合最悪なんだよ。だって、もう総合的学習の時間には概ね意味がない、って公に認めちゃったようなもんでしょ? そうでなかったら削る理由はないんだから。そういうあからさまに無意味な時間が週に一時間、時間割の中にあるってのは、教師にとっても生徒にとっても不幸だよ。
この温情主義は、日本的責任の取り方、それは結局は無責任ってことになるんだけど、その構造を支えるものとしてよく指摘される。今度も、日本的な形で責任を取らされた人がいる。「ミスターゆとり教育」とまで言われた寺脇研。官僚のトップである事務次官候補だったのに、降格されて、文科省をやめちゃったでしょう。今もマスコミにはよく登場するが、ゆとり教育が間違っていた、とは一度も認めていないね。
たぶん、間違っているとは夢にも思っていないんだろうな。信念の人じゃなかったら、当初から学力面に関して危惧の声が高かったゆとり教育の、非常に目立つ旗振り役になんかならないよ。官僚としてはそれは、不必要な危ない賭けだからね。
寺脇がそういう人だってことはそれまでとして、誰も彼を論破できない、っていうか、そもそも政府側では反論しようとする人さえいない、というところが問題でね。彼の言ったこと・したことの正否は棚上げにして、ともかく世間で評判が悪いから、ここは涙を飲んでくれって構図。そこで彼は、正しいことをしたのに、時に利あらず、一身に責を負って野に下った賢臣をいつまでも気取っていられるわけだ。
いや、ゆとり教育は、少なくとも理念としては正しかったんだと言う人は、民間にもけっこういる。実際的にも、学力低下にしたって、文部科学省が実施した「平成一七年度高等学校教育課程実施状況調査」では、高校生の学力はやや向上しているってことだしね。つまり、ゆとり教育体制でも、学力の維持・向上はできていた、ということみたい。ならば、もともと、ゆとり教育で学力が落ちたというのは本当だったのか、という疑問も生じてくる。
問題提起としてはこんなもんでいいだろう。で、夏木さんにバトンタイッチする。
1 ゆとりは効率を奪う(夏木智)
まず、今の方向転換がいかにも場当たり的だということはその通りだね。導入と同様に、何の冷静さも論理も節操もない。では、どうあるべきかということから考えなくてはならない。
いくつかの考え方の基本から確認することにしよう。一つ目は、この問題については、本当は目標がかなりはっきりしているし、人々の意見も一致していると言うことだ。「学力」の中身は後で議論するとして、学校とは、その本来の目的は学力を身につけるためにあって、それこそ人々ののぞんでいることだと言うことだ。
「学力」の中身が何であるかは議論の余地があるが、とにかく、それは今現に学校で教えられている数学や国語の内容であり、それによって問題が解ける力であることは、多くの人が漠然とではあれ、賛成していることだ。言論の世界では何とでも言える。しかし、現に社会を見れば、多くの一流大学が「学力」を元に入学者を決定していることは現実だ。社会を見れば、話はもっと複雑だが、しかし、少なくともその入り口の部分において「学力」がものを言っていることは現実だ。
たとえば「理科離れ」が憂慮されている。もし、学力が価値のないものだったら、こんなことを憂慮する理由はないはずだ。社会は、若者に学力を身につけてもらうことをのぞんでいるし、子どももまた社会で価値ある存在と認められるために学力を身につけることを望んでいる。そして、学校とはその学力を身につけてくれるところであるからこそ、人々は学校へ通うのだ。こう考えれば、学校がまず果たすべき役割は、子どもたちに「学力」をつけさせることなのだ。それをこそ、最優先させなくてはならない。
こんなことは、私には当たり前のことに思える。しかし、少なくとも、文部科学省を初めとする教育行政、教育学者、教育評論家、教員達にはちっとも当たり前のことではないようなのだ。
今初中等教育において私立が人気を博している。その最大の原因は「いじめ」の問題だが、それに次ぐ大きな問題として、私立はこの学力の問題に正直だと言うことがあげられる。うちの近くの私立の宣伝は「塾へ行かなくても学力をつけられます」だという。つまり、公立学校へ行くなら、塾へ行かないと学力はつかないということが、かなり広く共有された認識だということなのだ。
「ゆとり教育」の名で批判されたものは何かといえば、それは、一言で言えば、公立学校の経営者の「学力軽視の姿勢」だったのだと言える。それに関しては、議論の余地なく明らかだと私は思う。授業時間の削減、内容の3割カット、その代わりに「総合学習」をしますなどといっても、そもそもその中身さえ「現場の努力」などと繰り返しているのだから、誰がどう見たって明らかじゃないか。親も子も学力を身につけるために、少なからぬ苦労をして学校へ通っているのに、授業時間は減らしますよ、内容もやさしくしますよ、これで落ちこぼれはいません、楽しく学校へ通えますよ、なんて言われて黙っていられますか。そんなんじゃ、何のために学校へ通っているのか分からないと多くの親子は考えるはずだよ。
結局、そうした危機感が、教育施策の問題を指摘するための証拠として飛びついたのが「学力低下」問題であって、本当に「学力低下」しているかという問題はむしろないがしろにされているとさえ言ってよいと思うよ。まあ、私に言わせれば、それでよいと思うんだがね。というのも、「ゆとり教育」そのものが間違っているのだから、学力低下の証拠を探すのはむしろ本末転倒だと思うくらいなんだ。
ゆとり教育の問題点は次のことにつきる。すなわち、それまで子どもたちは学校の中だけでいわば勤務時間内の労働でかなり多くの学力を手に入れていたのに、ゆとり教育というシステム変更によって、子どもたちは多くの時間外労働によって前より少ない学力をようやく手に入れるような貧困生活に陥らされてしまったということだ。
ゆとり以前は、勉強は(宿題はもちろんあったが)、それなりに学校内で完結していたのだ。詰め込みすぎという批判はあったかも知れないが、学校で教えてくれないので、塾で教えてもらうというような本末転倒は存在しなかった。ところが、ゆとり教育によって、授業内容がすかすかになり、教える時間も削られたために、足りない分を子どもたちが時間外労働で補わなくてはならなくなったのだ。
これは、実は教員の側もそうだ。学校の授業時間では、それこそ総合学習や、体育や徳育に力を注がなければならなくなり、教科教育に時間を割けなくなった分、宿題をだすことで、教科教育を行わなければ学力を保てない状況に陥っているのだ。
子どもの話だが、小学校のある担任は、授業ができるときには、生徒に自習させ、そのあいだに宿題の点検をしているという。確かにそうでもしなければ、膨大な宿題のチェックをやっている時間は小学校の教師には存在しないのだ。昼休みでさえ給食指導をしているのだから。しかし、勉強は宿題でさせ、授業時間は自習にしておいて宿題の点検というのでは、本末転倒もいいところだろう。もちろん、一部の話を全体に広げられないが、しかし、本質的な部分では同じ構図だということは認識しておいていい。
ゆとり教育の生み出したものは、「学力低下」というよりは、むしろ、「効率性の悪さ」なのだ。子ども、保護者の立場に立ってみれば、以前は少ない時間で、比較的安上がりに手に入れていた「学力」を、ゆとり教育によって、多くの時間と費用をかけてやっと手に入れられるような状況にされてしまったということなのだ。
実はこれこそ、学力の二極分化をもたらしたものでもある。平坦で走りやすい道を走っていれば、体力、能力に劣るものもそれほど遅れないでついていけるだろう? しかし、でこぼこでおまけに起伏も多いとすれば、よいシューズをもっていなかったり、足が痛かったりするものにとって、ついていくのに多大の障害があることは間違いない。
もちろん、ゆとり教育そのものはこういう状況を目指して導入されたものではない。しかし、経営者たるもの、ある改革がどういう効果をもたらすか、きちんと見通してその正否を論じるべきだし、まして、すでに現実となったこういう状況をきちんと把握さえできないとしたら、完全に失格だろう。
「学力低下」というのは、基本的には、社会が子どもたちの労働の結果だけしか見ていないということだ。子どもたちに長時間労働を強いてかまわない、子どもたちの学力さえ上がってくれれば、という態度が、真に子どもたちや保護者、ひいては社会全体のために誠実な態度だと言えるだろうか。
だが、最近の教育改革は、子どもたち(と教員)の労働時間を増やすことが、正しい改革だと信じて疑わないように思えるがね。全く、子どもたちを見ていない、自分さえよければいいという、典型的な思い上がったワンマン経営者だね。やるべき改革は全く逆だ。必要なことは、ゆとり教育によって奪われたゆとりを取り戻すことなのだ。
これをもう少し具体的に言うには、ゆとり教育というシステムがどのようなもので、なぜ、このような状況を生み出すことになったかを、もう少し具体的に見ていかなければならない。
屋上屋を重ねる説明はかへつて誤解を生むもとになりさうですので、これで打ち切りとします。
ご質問にお答へします。
1 「各自の基準」を作れといふことを願つてゐました。しかし、それを求めるのは酷だといふのはなるほどその通りですね。福田恆存は日本に宗教のない悲劇を言ひ、その代用品を教育に求めてしまつたと書きましたが、私も同じ過ちをしてゐたやうです。
2 軸は、私の用語です。「理想」とは具体的なものではなく、結果与へるものでもありません。さういふものを持つ必要性を伝へるといふことです。北極星が道案内をしてくれるやうなイメージではどうですか。さういふ星を見つけるといいよ、といふことは示せると思ひます。私が北極星でないのはもちろん、私が作つたものでもありません。これまた宗教のない日本には酷な話かもしれませんでした。
悪しからず。
連載を楽しみに拝読します。
前もって言い訳。どうも私はこの分野になると遠慮ということができなくなります。もしかすると失礼な言い方になるのは、できたら、ご容赦願います。
>制度として、「もう一つの基準」を考へてはゐませんでした。学歴を相対化するものを各自が持てと言つた程度のことです。
それなら、「もう一つの」じゃなく、たくさんあるわけですから、「各自の基準」とか言うべきではないでしょうか。
表現はともかく、内容的には、それがあるなら、学歴主義でも、反知性主義教育でも、なんでも大丈夫でしょうから、確かに「作ればいいだけのこと」ですよね。
しかしこれ、「私たちさえしっかりしていれば(大丈夫)」と同じではないですか?
前田さんがどれほど人間的に優れた生徒さんに出会ってきたのかはもちろんわかりません。
しかし一般的に言えば、
私たちはしっかりしていないのです。
早い話が、「作ればいいだけのこと」だと言われてすぐに作れるほど、強くはないんですよ。
これを、教育を初めとして、すべての制度を考えるうえでの大前提にすべきなんです。
(上は何からのパクリであるかは、もちろん前田さんにはおわかりですね)
そして、皆で話し合うべきなのは、大なり小なり皆に関係する、広い意味での制度の話だと思います。
マイスター制度のような、国家資格である必要はないけれど、世間一般で一応認められている、を含んで、「広い意味」と言うのですが。
世間一般にあまり認められない価値観でも、「自ら反みて縮くんば千万人と雖も吾往かん」という気概で、胸底に抱き続けられるような人ばかりなら、最初から何も問題にする必要はないでしょう?
>にもかかはらず、やれ英語の四技能だ、プログラミング能力だと言つて、どう考へても全国民が学ぶ必要などない、しかも現代といふ極めて短い時間枠の中だけで通用する手段を教へるといふ現状の「学歴」社会が問題ではないかと考へます。
目先の実用にのみ走り、「知性」や「教養」は軽視され忘れられがちだという意味なら、賛成です。
これを軽視したうえでの「学歴」なんで、本質的に危ういところがありますね。
しかし、これをうまく人に伝えるのは、難しいですねえ。
>X軸が学年進行の学習内容。Y軸が学習の目標。そしてZ軸が理想です。そこで自分の位置を定める。それが立体化といふことです。
初めて聞きましたが、教育学ではよく知られた用語なんですか?
なんにせよ、こういうのには私は違和感を抱かずにはいられません。
理由は、上の「もう一つの基準」のところで半ばは申しましたが、尚言葉を重ねると、
私立であれ公立であれ、社会制度である「学校」が、苟も「理想」と呼ぶに足るものを与えようとするのは、慎むべきだ、
というのが私の信念です。少し妥協しても、抑制的であるべきだ、と。
これについての私の論点は、本ブログ「道徳教育という不道徳 その3(何かが伝わり、残る)」に書きましたので、どうぞご覧ください。
実際上も、私には無理でしたが、前田さんは生徒に「理想」と呼ぶに足るものを与えたか、気づかせたことがあるのかも知れません。
でも、それは前田さんが教師だったからではなく、もともと立派な人物で、そのうえで、それに感応するだけの人間性を持った人がたまたま生徒のうちにいたからではないでしょうか。
それを「学校といふ場所」一般にまで広げるのはお門違いではないか、と思うのです。
もちろん、私の意見など、無視しても全然かまわないことですから、これについての議論はこれまで、でもかまいません。
お互いに信じる道を行くだけです。
ご一考いただいて、これに関する前田さんのご意見をなおいただければ、幸甚、ではあります。
妄言多謝。
「もう一つの基準」について
制度として、「もう一つの基準」を考へてはゐませんでした。学歴を相対化するものを各自が持てと言つた程度のことです。教へてゐる生徒で成績優秀ではなくても「こいつどこでも生きていけるな」と思ふ生徒は結構ゐるものです。さういふ生徒には「学歴」で箔をつける必要もないので、行きたい大学に進めるか、何か別の方向を見つけるかで進路相談に乗ります。さういふことです。マイスター制度といふもう一つの基準を作るのではなく、少なくとも当該生徒が生きてゐる空間に学歴を相対化するものがあればいいのではないか。さういふ空間が幾重にもできればいいのではないかと思つてゐるだけです。にもかかはらず、やれ英語の四技能だ、プログラミング能力だと言つて、どう考へても全国民が学ぶ必要などない、しかも現代といふ極めて短い時間枠の中だけで通用する手段を教へるといふ現状の「学歴」社会が問題ではないかと考へます。
もう一つの問題。「教育の立体化」についてです。これは、分かりにくい言葉でした。
X軸が学年進行の学習内容。Y軸が学習の目標。そしてZ軸が理想です。そこで自分の位置を定める。それが立体化といふことです。
船が日本からアメリカに行くとして、船の航行距離がX軸。アメリカに行くことが目的ですからその方向が正しいかどうかを測るのがY軸。そして、その船旅を通じて自分が追求すべき理想を測るのがZ軸です。ところが、多くの場合、アメリカに行くことが目標であり理想になつてしまつてゐる。物理的移動では平面移動となり、単なる目標達成でしかありません。それを防ぐためには、理想と目標との峻別が必要で、どうしてもZ軸が必要になる。それで立体化といふ言葉を使ひました。学校といふ場所は、その三つの存在を気づかせる場所だと思ふのです。
反論というわけではないですが、おっしゃることに関連して、年来考えていることの一部を披瀝して、また、後ほどでいいですから、お考えをいただきたく思います。
>学歴社会は学歴社会で認めた上で、もう一つの基準を作ればいいだけのこと。
いかにも、そうなればいいんですが。実際問題として、けっこう難しくないですか?
以下は西尾幹二先生がずいぶん前に言っておられたことです。ドイツにはマイスター制度がある。いわゆる職人の、一定以上の技能を習得した人を国が認めるもので、学士と同等のステータスがあった。しかし、今ではその地位が下がり、学歴・学校歴が個人の能力の、ほとんど唯一の社会的なメルクマールとみなされるようになった結果、彼の地も日本と同じような学歴社会になり果ててしまった、と。
ドイツの事情はよく知りませんが、表面上、日本と似たところがあるようです。
日本でも、「プロジェクトX」で取り上げられたような職人芸は、日本の誇りでもあることには異論がないですし、今後すっかり消えてしまうこともないでしょう。例えば最新型のロケットを作るにしても、手作業に頼らざるを得ない、頼ったほうが良い部分は必ず残る。
しかし、それにしても、それを社会的に広く認められる「基準」とするには無理がありませんか?
例えば大工さん。今はユニット工法で、昔に比べればはるかに簡単に家が建つようになった。それは結局何年保つものか、なんて話はよくありますが。一方、昔ながらの日本家屋を作ろうとしたら、もう法外な金が要るようですね。材料費も高いし、技術のある大工さんの手間賃も高い。
繰り返しになりますが、伝統的な技能がすっかり無用になることはなく、ならばその技能の持ち主がいなくなることもないでしょう。一流の技能者は、収入の点では、たいてい一般サラリーマンより高い、という意味では、社会的に報われている、と言ってもよい。だからと言って、これを目指す子ども・若者は増えるか?
この世界で一人前になるには長い年月と努力と、たぶん才能も必要で、無理は承知で敢えて比較すれば、東大に入るほうがまだしも簡単なように思えます。それでいて、収入以外のメルクマールである社会的な認知度は低い。結果、親も子も、一般にはあまりこのような職を目指さないようになり、それがまた原因となって、職人芸の認知度はますます下がる。
といったわけで、学校以外の場で今日まで伝えられてきた技能は、お言葉の、「もう一つの基準」の候補としては、社会的にどれほど広く行き渡り、認知されるか、の点で、不可能とまでは言わなくとも、けっこう無理がありそうです。
他に「基準」の候補はありますか?
本ブログの他のシリーズ(「子どもはどこにいるのか」最終回)でも書きましたが、昭和35年に、日本の産業別人口比率で、第一次産業と第三次産業の逆転が起こり、今や後者の就業人口率が七十パーセント近くになっていることが大きいです。ここで学校の果たした役割は大きかったようで、同じ頃に、高校進学率が五十パーセントを超え、後の推移は周知の通りです。
すべてはここから始まったのです。学校が当たり前の場所になり過ぎて、改めて、「じゃ、学校って結局何よ?」という問いが、一般的なものとして立ち上がってきた、ということなんでしょう。おかげで、「18歳になるまで、学校へ行かなくちゃいけないのに、役に立つことはほとんど教えてくれないじゃないか」なる不満は、昔からありましたが、これに配慮したような、「反知性主義的教育」が、「新たな時代にマッチする」なんて押し出しで、当の学校を運営する側にも取り入れられたのです(因みに、ですが、お言葉中の「教育立体化」とは、教育内容をもっと実際の役に立つようなものにする、という意味ではないですか? まちがっていたらご教示ください)。
これは無益なだけではなく、有害だ、というのが我々の主張なわけです。職人芸に代表される、それこそ実際の場で磨かれ、深められ、代々伝えられてきた「智恵」については、深く尊敬しますし、もっとみんなが尊敬すべきだとは思います。また、名教師の知識伝授法の中には、それに共通するものがあることも認めます(名人芸のような授業、ですね)。
そのうえで、しかし、普通教育で伝えられるべき知識は、すぐに実際にモノを作り出すようなものではないし、それもまたその有用性の一部であること、これがすっかり忘れられたりする社会は、決してよいものではないだろう、というのが我々の主張であるわけです。
これは、「無用の用」というようなことで、うまく人を説得するのは難しいですね。まあ、私たちが完全に正しい、と思い詰めているわけでもありませんし、何しろ、様々な人との対話はきっと有効でしょうから、前田さんにも、できたらお願いしたいです。
学力コンプレックスといふのでせうか。ちょつと言葉はきついが、さういふものが背後にあるやうな気がしてなりません。学歴社会は学歴社会で認めた上で、もう一つの基準を作ればいいだけのこと。学歴社会を敵視して、それを破壊する方向での「改革」は教育自体を破壊してしまひます。
知識を伝へるといふことに目標を限定することで、それ以上のものが伝はるといふことがきつと分からないのだらうと思ひます。
教育立体化、あるいは立体的教育観が必要だと感じてゐます。
そういえば、ピアジェの構成主義、でしたか、昔習ったような気がしますね。
体験主義(の学習)という言葉も聞いたことがあります。両者は違うかも知れませんが、今小学校でやっているアクティヴラーニングとか、ほとんどその範囲のもののようですね。
体験の中で人は学ぶんだ、とか。学校の学習は、少なくともいわゆる座学の、リベラル・アーツに属するものは、普段の生活の中では例外的にしか学べない知識を学ぶためにあるわけですが。これを変更するのにどういう意味があるのか。
どうも、学者の、悪い意味でのお遊びとしか思えません。この実態を、広く伝えて、多くの人の注意を喚起したいもんです。
前田さんに、それを手伝え、なんてまさか言いません。ご自分の立場で、頑張ってやっていやだいて、時々伝えていただければ。「ここに同志がいる」と思えるだけでも、心強いですから。
行動主義と構成主義についてのご説明ですが、心理学の用語です。知識を、固定したものとしてとらへるのが前者、関係の中で知識の意味が変化していくととらへるのが構成主義と言へるでせうか。アクティブラーニングは後者の代表的な手法です。
http://awarenesscare.secret.jp/lernen/lernen06.html
そんなことは知つてゐるよとの見当違ひの説明だつたかもしれません。
官主導による学校(観)の混迷は深いですね。
「ゆとり教育」のほうは、教える内容の三割減を打ち出した結果、国民の多くが本当は子どもに「ゆとり」を与えることなど望んでいなかったこと、学習する知識量が減ることも好ましくは思えないことが明らかになりました。逆説的に言うなら、それが寺脇たちの唯一の功績であったようです。
しかし、その亜種である「新学力観」、ではなくて、どうも「ゆとり教育」こそ「新学力観」から発生している、と見た方がいいような気がするのですが、こちらはほとんど批判されないまま、しぶとく残っています。
どちらが主か、というのは置くとして、この親和性に気づいてくれる人が増えるとよいと願い、敢えて七年前の作物を披瀝しました。
反応していただいて、うれしく思います。
ただ、私は無知で、教育における「行動主義」とか、「構成主義」とは何か、わかりません。できたら、ご教示願います。