《小浜逸郎氏から由紀草一へ》
由紀草一さんへ、ついでにW.H.さんへ (小浜逸郎)2015-03-28 23:35:48
お返事を書かなければ、と思っているうち、とうとう一ヶ月以上が経ってしまいました。忙しかったから、というのは言い訳になりません。どうお返事してよいのか戸惑っていたというのが正直なところです。
そうこうするうち、W.H.さんからも、この『永遠の0』問題についてのコメントが届き、さらにそれに対する由紀さんのお返事も書かれてしまいました。もうずるずる引き延ばすわけにはいかないなと決断して、以下に思うところを遠慮せず率直に述べます。お気に障ったら、どうぞお許しください(これは、W.H.さんへの呼びかけでもあります)。
まずなぜお返事をためらっていたのか、その理由ですが、次の通りです。
①何回も読み直しましたが、由紀さんの文章は、私の読みでは8割以上、私の見解に賛同してくれているように思われるので、私に対する違和感の所在がなんであるかが判然としないところがありました。これはもちろん、お前に読解力がないからだといえば、それまでですが……。
②それでも、読み返すうち、ほぼこのあたりに違和感を感じていらっしゃるらしいということが見えてきました。それはだいたい次の2点に整理できそうです。
a. 小浜は、「生活を共有する身近な者たちがよりよい関係を築きながら強く生きるという理念を核心に置き、その理念が実現する限りにおいてのみ、国家への奉仕も承認するという考え方」をすべきであると書いているが、これは、「家族など、身近な者たちのためになるなら、国家のためにも戦おう」という意味だと一応考えられる。しかし近代国家はでかすぎるので、これを一団として機能させようとしたら、人情とは別の原理が必要である。「公」と「私」の分裂は、まずこの単純な事実から生じたのであって、それを統一しようというのは無理であろう。つまり「公」と「私」の分裂は、人間の生き方に宿命的に付きまとうものであって、それを克服しようなどと考えること自体が不可能である。
b. 小浜は、「倫理的な問いを、特定の状況に置かれた個人の『心理』としてとらえるのではなく、どうすれば限界状況的な境遇に多くの人を追い込まずに済むか、というように視線変更する必要がある」と書いているが、限界状況を設定してそれについて考えることには意味がある。なぜならそれは人間の根源的な不完全さが鮮明に浮かび上がった状況であり、だとするならそこにはモデルケースとしての普遍性があるからである。我々はどんなよくできた国家の下で、いくら幸福な日常を送っているように見えても、そうした状況にいつ何時直面しないとも限らない。現にわれわれが戦争がもたらす不幸について思いを致すのも、そのことが了解されているからこそである。その了解は、いわば文学的な了解、つまり福田恒存の言う「一匹と99匹」の「一匹」の問題であって、どんなすぐれた政治的な営みも、これを解決することはできない。小浜は、そういう人間の根源的な不完全さに対する感度が甘いのではないか。
このように由紀さんの「違和感」を整理してみた時、その指摘に対する私の違和感はさほどなく、それ自体としては至極もっともであり、反論すべき理由はないように思えたのです(ただし、思考のスタイルやアングルに関してはどうしても違いがあるようなので、これは後述します)。
③このサイトのタイトルを由紀さんは、「国家意識について、小浜逸郎さんとの対話(その1)」としていますが、私は率直に言ってこのタイトルに引っかかるものを感じます。というのは、このタイトルでは、由紀さんと私との間で、ブログ上での対話(往復書簡のようなもの)を続けてやっていこうという合意があらかじめあったかのように読めるからです。なるほど私は、自分のブログでの先のコメントで、「またお話ししましょう」と書きましたが、それは一種の挨拶のようなもので、ブログ上での対話を続けようという具体的な提案ではありませんでした。
私は別に怒ってなどいませんが、このタイトルのつけ方には、付き合い上のルールとして、やや「非礼」があるのではないかと思います。そのことが、私にえっ、ずっと続けなきゃいけないのかなあといった多少の心理的圧迫感を与え、お返事をためらわせた理由の一つにもなっていたようです。
以上ですが、それでは次に、上記②で述べた2点についてお答えします。
まずa.について4点。
①私が上記のように書いたのは、国家あるいは公共性の人倫とは、いかなる条件を備えるべきかという文脈においてであり、それは「倫理の起源」というシリーズの最終項にあたります。倫理学という思考スタイルにしたがう限り、よい国家とは何か、という問いに対する論理的な回答がどうしても要求されるはずで、そこでは、一定の図式的な記述を避けるわけにはいきません。もっとも「奉仕を承認する」という言い方に、個人の態度を問うているかのような誤解の余地があったことは認めます。そのため、由紀さんの言い換えのように、「家族など、身近な者たちのためになるなら、国家のためにも戦おう」といった、個人倫理の表明として解釈される余地があったのでしょう。しかし私の真意は、あくまで「実存的な生の充実のためにこそ、国家はあるのだ」という考えを強調する所にあります。その点で、由紀さんのお考えと一致するのではないかと思っております。
②しかしなお、、私の、「生活を共有する身近な者たちがよりよい関係を築きながら強く生きるという理念を核心に置き、その理念が実現する限りにおいてのみ、国家への奉仕も承認する」という考え方」を、「家族など、身近な者たちのためになるなら、国家のためにも戦おう」という意味だというふうに言い換えてしまったら、それは、国家のあるべき姿をネガティブに限定したはずのロジックが、むしろ国家への個人の奉仕精神をポジティブに意味づけるロジックへと転換されてしまうことになるでしょう。それはむしろ、由紀さんにとっても、不本意なことなのではないでしょうか。
③「近代国家はでかすぎるので、これを一団として機能させようとしたら、人情とは別の原理が必要である。
」とありますが、これはまさに私が『倫理の起源』52および53で、愛国心について説いているところとほとんど一致します。もしよろしければ、もう一度ご参照ください。
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/3230a1bbb6bdfc08be242776ea8d2124
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/76d56535d628db5c7fb0cf8a79603917
④「公」と「私」の分裂は、人間の生き方に宿命的に付きまとうものであるという由紀さんの考え方は、b.にもつながるペシミスティックな人間観ですが、その人間観を批判するつもりは私にはありません。それはまさしく『永遠の0』における宮部久蔵の悲劇が示して余りあります。ただ、そういう悲劇の意義(悲劇に感動する私たちの心の由来といってもいい)をよく思想的に吟味するなら、そこには、悲劇を何とか克服したいという私たちの意志と欲求とが横たわっているのが見られるのではないでしょうか。あるいはむしろ、悲劇に対する感動を通して、私たちの生への意志が初めて発動するのだと言い換えてもよい。悲劇に対する感動は、それ自体としてはけっして欣喜雀躍するような質のものではないのですから。
これは、W.H.さんにも言いたいところですが、あり得ない絵空事や奇跡が描かれているとか、リアリティがないとかいったことは、その作品が不出来であることの条件にはけっしてなりません。ここでは深く踏み込みませんが、多くの人がなぜ「絵空事」に感動するのか、その理由を芸術批評の本質的な問題として考えてみる必要がありそうです。
なお私は、W.H.さんが書かれているように、『永遠の0』が「お国のために」死んでいった多くの人たちの抱えた矛盾を「解決」したなどと一言も言っておりません。戦後的価値観(左派進歩主義に代表されるもの)と戦中的価値観(懐旧型保守層に代表されるもの)との百八十度の対立の問題が、宮部久蔵という主人公の造型のうちに、あくまでフィクションの次元で止揚・克服モデルとして示されているといったまでです。この主人公が実際にはありえないスーパー・ヒーローであることを、私は何度も断っています。しかしそれは、大東亜戦争の評価をめぐっての、戦後言論界の不毛な左右対立を乗り越えるきっかけを提示したという意味で、この70年間のなかで新しいことだったのです。
次にb.について。
ここでも、先に述べたことと同じことを言わなくてはなりません。限界状況の思考実験には普遍的な意味があるということそのものには同意しますが、それはあくまで文学思想の内部で追究すべきことであって、公共体または国家の倫理がどうあるべきかという問題枠組みの内部にそれを取り込もうとすると、的を外してしまうと思います。大岡昇平の『野火』や竹山道雄の『ビルマの竪琴』は、こういう問題を追究したきわめてすぐれた作品ですが、でも、そのことと、「なるべくよい社会にするにはどうすればよいか」という思想課題とは、区別されてしかるべきでしょう。それこそ、一匹と99匹との問題です。しかもまずいのは、限界状況モデルばかりを乱発すると(とかく倫理問題を考える時はそうなりがちなことは、由紀さんも認めていましたね)、文学的な(個人の生き方にかかわる)思想課題だけが倫理学のすべてだと錯覚しやすいことです。
普通の政治的な営為には? 一国の経済運営には? 家庭生活には? 倫理学は必要ないのでしょうか?
最後に、W.H.さんにひとこと。全体に、由紀さんと私との思想の共通点を丁寧に見出して、その面を評価してくれていることには、感謝します。ただ、以下の部分――
「それに対し由紀さんは、『家族、愛する人のために』という思いが『国のため』へとつながっていく、そうした、ある意味で幸福な直接性は近代国家の戦争においては難しい。実際には若者は、巨大な国家というものを前にして、個々の人生をどうそれに調和し整合させていったらいいのか解決がつかなかったろう」という部分ですが、この「それに対し」というのは、私がまるで、ここに書かれたことを考えてこなかったかのように読めます。繰り返しになりますが、まさに私は『倫理の起源』シリーズにおいて、人生における様々な局面で、こうした解決困難な矛盾が、従来の倫理学(カント、儒教、和辻倫理学など)では問題にされてこなかったことを最大のモチーフの一つとして追究してきました。優先権を争うような愚かしい轍を踏もうというのではないですが、もし未読でしたら、W.H.さんに、拙稿を詳しく読んでみてくださいとお勧めするほかありません。
以上、いろいろと失礼を申し上げました。
《由紀草一より小浜逸郎氏へ》
御論にからんで勝手にいろいろと申し上げた結果、いらぬご心労をおかけしたようで、まったく申し訳なく思っております。今回はせっかくご回答いただいたことに関して、一番言いたかったことを述べます。
御回答のa.について
私は要するに、「実存的な生の充実のためにこそ、国家はあるのだ」という言い方に違和感が持たれたのです。まるで国家が国民の安定した生活以上の、内面的なところまで踏み込めと言っているように読めますから。小浜さんの真意はそういうことではないと理解していますし、「倫理学という思考スタイルにしたがう限り、よい国家とは何か、という問いに対する論理的な回答がどうしても要求されるはずで、そこでは、一定の図式的な記述を避けるわけにはいきません」と言われると、それまでかな、とも思いますが。でもやっぱりこだわり捨て難く、それは奈辺にあるのか、御迷惑ながら、今一度開陳します。以下、三つに分けまして。
(1)統治機構としての国家を考えた場合、その究極の目的は、小浜さんのおっしゃる通りで、まちがいないと思います。民生を安定させること、それがある程度達成されたら、保ち、さらに拡充するように努めることです。誰もが暴力や飢えの危険から免れている社会、そして、ささやかな「生きる喜び」を追求することができる社会を目指す、それは常に、「国威の発揚」などより上位に置かれるべきである。小浜さんは、善を「日常生活における秩序と平和が保たれている状態を指す」(「倫理の起源 63」)のだとおっしゃいますので、上は政治の目指すべき最高の「善」だということになるでしょう。
もちろんこれだって、完璧な達成は期し難い事業なのですが、私はどうしても次のことが気になるのです。ではいったい、権力の必要性はどこから出てくるのか? 権力という言葉を、ここでは簡単に、「ある人や集団に、好むと好まざるとにかかわらず、あることをさせたりさせなかったりする力」と定義します。家族のような最小の共同体から国家という最大のものまで、そう呼ばれてもいいものは必ずある。それは共同体の安寧秩序を守るために必要だと考えられてきた。なぜか。
これについて長々と述べるのは、拙ブログの「権力はどんな味がするか」シリーズなどでやることにして、やはり簡単に申します。なぜ権力が必要か? それは共同体全体の利益のために、ある特定の個人・団体が犠牲になるのを忍ばなければならない場合があるからです。
大げさな話ではありません。例えば、「ゴミ処理場の建設が必要なことはわかる。が、自分の住居の近くには作ってほしくない」というような要求はわりあいと一般的なものです。もちろんこの要求が完璧に達成できるわけはない。ゴミ処理場が地域社会にとって本当に必要なら、住民の一部には我慢してもらわなければならない。【あるいは、次のような解決策も考えられます。誰も住んでいない山奥にゴミ処理場を作って、その分輸送費が高くつくが、それは住民全部から公平に徴収すれば、特定の誰かにだけ犠牲を強いるということはなくなる、と。これは不満を金に代え、分散することによって目立たなくするということで、うまいやり方かも知れませんが、不満そのものが消えるわけではありません。】
私の考えでは、こういうとき行政側の最低の対応は、「そりゃつまり住民エゴというものだ。みんなもっと公共心を持たなくちゃいけない」などと説教することです。エゴが消えるわけはない、というか、もともと、それを前提として、政治の必要性が出て来るのですから。「エゴを捨てろ」などと統治側が言うのは、自己否定に等しいのです。
つまり、こうです。普通の人は誰しも自分の身近なところにしか目がいかない。そして、身近な幸福をできる限り守り、さらに拡充しようとする。ごく自然なことです。また、それこそ倫理の根底である、という小浜さんのお考えには全く異論がありません。
ただそれが、何か他のものを犠牲にしてでも、にまで至れば(積極的にそうするというより、知らないか、知らないふうをするか、が多いでしょう)、エゴイズムと呼ばれものになる。が、人は、これまたわりあいと自然に、そうなりがちなものです。それに思い至るなら、社会全体を見渡して、その利益、いわゆる公共の福祉のために、他に手段がないなら、強制的に住民を従わせることができる機関もまた、遺憾ながら必要である、と納得されるでしょう。
同時に、その権限は、当然限定されるべきものなのだから、「実存的な生」に関するところなどには踏み込まない、そういう節度も、「公的なもの」が弁えるべき大事な「倫理」だ、とも納得される、のではないでしょうか。
私にとって、公と私のイメージはさっとこのようなものです。だからこの次元の違いが「克服される」なんて原理的にあり得ないのだし、あり得ないと思うことはいかなる意味でも「ペシミスティック」と呼ばれ得るはずはないと考えます。
(2)もう一つ、前回も述べましたことを上に合わせて言い直します。小浜さんのおっしゃる「戦中的なイデオロギーと戦後的なイデオロギーとの妥協不可能な対立」とは、私から見ると次のようなものです。戦中は、戦争遂行のために、個々人のエゴイズムはすべて捨て去ることが求められた時代だった。戦後は価値観が反転して、それこそ国家悪であり、このような巨大な悪をなす統治権力に反対することこそ正義であると、主に知識人と、その予備軍気取りの学生からはみなされるようになった。
どちらも一方のエゴイズムを糾弾することによって、自分の側のは見ないようにしているのですから、妥協点が見つかるはずはないのです。繰り返しますが、政治に必要とされる技術はエゴイズムをなくすことではなく、エゴイズムを調整するところにある。戦後日本だって、政治が、統治がある以上、それは現になされています。それを悪しき強力な権力対善なる無力な庶民、の見取り図でわかりやすく見せようとして、欺瞞的な言を繰り広げてきたのが、戦後の知識人などの生態なのです。
もちろん彼らにも言い分はある。人間ならば誰でもエゴイズムがある。私のような名もなき庶民にも、時の為政者にも。それを抑えようとした場合、普通に言って前者より後者のほうがずっとたいへんなのは事実です。民主主義はそのために、三権分立を初めとする多くのチェック機能を備えているはずであり、またそれが唯一の取り柄なのですが、今までちゃんとうまく機能してきた、とは到底言えない。それは、チェックのための批判精神が足りないからだ、と彼らは言うわけです。
一理あります。権力者にダマされまいとする心構えはあったほうがいい。しかしそれにしたって、統治者側に過剰な要求をするのは控えたほうがよろしい。住民・国民の全員に、100パーセントの満足を与える施策、とか。なぜなら、過大な要求に応えるためには過大な力が必要とされますから、こういうことは権力の強化に結びつくからです。以上は、渡辺京二『近代の呪い』中で最も感銘を受けた指摘であり、小浜さんも同意するところだろうと思います。「対話」ということからは逸脱でしょうが、またしてもこだわりやみ難く、つい申し上げてしまいました。
(3)それでも、共同体が、単にそこで暮らす人々の利害を調整するためにのみある、とは決して言えないでしょう。普通の人なら誰しも家族愛や郷土愛や同胞愛や愛国心をいくらかは持っている。普段は特に意識することはなくても、例えば私でも、日本が貶されるのを聞けば、自分が直接貶された時のような不快感が持たれます。
即ち、自分の属する共同体とは、「自分」を包み込んでいるのと同時に「自分」の一部であり、「実存的な生」を構成するのにも不可欠な要素である。そうでないとしたら、上に述べた「利害の調整」にしても、いかなる智恵者の高等テクニックをもってしても、うまくいかないでしょう。私はただ、施政側が最初からそれをあてにするのはまちがいだ、と申しましたので。
これを言い換えると、人間には本来的に共同性が備わっている。そこから超出した「純粋な自己」などという観念を立てても無益。それは生きる人間の現実を捨象しているので、「人は、そして共同体はいかにあるべきか」についての具体的な指針である倫理を与えることはできない。しかしまた、各種の共同体、和辻哲郎の言う人倫的組織のうち、「大きいもののほうが公共性が高く、ゆえに倫理性も高い」から重要で、優先されるべきだ、などとは決して言えない。むしろ逆に、「人間が具体的に生きる共同態」を充実させること(これが「実存的な生の充実」と言われているものでしょう)を中心にして、すべてのあるべき姿が考えられなければならない。これを示し得たことが、今回の御論考「倫理の起源」の大きな成果です。
それに異論はないのですが、今回のブログ記事のタイトルは、「国家意識について、小浜逸郎さんとの対話」ですので(いったいなんでこんなタイトルにしたのか、時間もたちましたし、議論の焦点も多岐にわたりましたので、もうわからなくなっているのですが。呵々)、これについても云々しておきます。
おっしゃる通り、家族や故郷など、目に見えるものなら、人は愛せますが、国家なんて大きすぎるものは、観念に近いので、普通の意味で愛情の対象にはならない。しかし、これまたおっしゃる通り、特に男性は、観念的なものに惹かれがちな動物である。また、「セブンティーン」で大江健三郎が見抜いたような要素もある。「国家」と一体化したように感じたら、人間は卑小な一個人の段階を超えた、より巨大なものの化身になったように感じられる。それは自我の肥大化であり、究極のエゴイズムなんですが、「国のために命を投げ出す」覚悟が一見自己犠牲的であるため、そのことは易々と見過ごされてしまうという効果もあります。こうして戦前の日本では、二・二六事件や、血盟団によるテロが勃発しました。
それを思うと、為政者が「愛国心教育」を推進しようとするなんて、どうなってるんだろうと思います。ファナティックな国粋主義者がたくさん生まれたりしたら、真っ先に狙われるのは彼らですのに。もしかしたら、彼らこそ、崇高な自己犠牲的精神の持ち主なんでしょうか?
冗談はさておき、実際問題としては、人がまずまず充実した幸福な生活を送っているのなら、めったに「愛国有理」の過激なテロに走ったりはしませんので、そのためにも、国民個々の生活を第一に考える国家であることは望ましいわけです。
万が一戦争をすることになったら、愛国心に頼るしかないのですが、それが行き過ぎないようにするためにも、目的と限界を、即ち「なんのために、どこまで、やるのか」を明確にして、無用な戦線拡大など絶対にしないように考えるしかない。これは政治の中でも最も難しい事業でしょう。それだけに、原則ははっきりさせておく必要があります。以上は御論を私なりに言い直したものになりました。
ご回答のbについて
「倫理的な問いを、特定の状況に置かれた個人の「心理」としてとらえるのではなく、どうすれば限界状況的な境遇に多くの人を追い込まずに済むか、というように視線変更する必要がある」には戸惑いました。私が考えていたこととはまるで別のことが言われていましたので。今は、小浜さんが時期的に「公共体または国家の倫理はどうあるべきかという問題」に取り組んでいる真っ最中だったので、こういう言い方になったのだな、と了解します。
政治は、人間をなるべく「限界状況」に追い込まないようにするべきものだ、というのはそうですね。上のコメントをいただいた拙ブログでは、ロシアのエスエル党を取り上げました。彼らの「革命のために人を殺しても、可能な限り倫理的でありたい」という意識上の困難な問題は、ロシア帝国末期の圧政がなく、従って革命の必要がなければ生じなかったものです。また、ずっと以前に記した、サルトルに相談に来た学生も、フランスがナチスドイツに占領されなかったら、「祖国のためのレジスタンスに挺身したいが、それでは年老いた母親を見捨てる結果になる。どうすればよいのか」などと悩むことはなかったなかったわけですから。
しかし、そう言った次の瞬間に、「そういう問題かなあ」という気がしてくるのは、私だけですか? これですべて終わりだとしたら、平和日本に生まれたおかげで、彼らのような過激な政治行動に走る必要性などめったに感じずにすむ我々が、「昔の人はたいへんだったんだなあ」という以上の共感を、彼らに対して抱くはずはないのではないですか。
これに対しては小浜さんから、「限界状況の思考実験には普遍的な意味があるということそのものには同意しますが、それはあくまで文学思想の内部で追究すべきことであって、公共体または国家の倫理がどうあるべきかという問題枠組みの内部にそれを取り込もうとすると、的を外してしまう」のだという回答をいただきました。そりゃショバが違うよ、というわけですね。私は、倫理には自分なりの興味はあっても、「倫理学の構築」などには、興味がないというより、身の丈に合わないと感じておりますので、そのへんの志の高低差に由来する温度差はどうにもならないようです。
また小浜さんは、「倫理の起源 34」に次のように記しておられます。
人間相互の「決断」や「行為」には、過去から未来へ向かって自己を投企するというその特質上、必然的に不信や不安がつきものである。この不信や不安は、それらが実現してしまうこと、つまり約束や誓約や信頼の情が裏切られてしまうことを予定している。そしてその「裏切られること」は、究極的には「死」=相互の別離に結びついている。だからこそ、私たちはその不信や不安を克服するために人倫精神を必要とするのである。
つまり、可能な限り信頼を裏切ることのないような個人であり、社会であるべきである、それを心がけるのが「人倫精神」である、というわけですね。お説の通りです。しかしそれでも、人間は絶えず新たに具体的な関係性の中に入っていくものである以上、「不安や不信」が完全に解消されることはあり得ません。それを扱うのは文学であり思想であって、倫理学ではない、ということでしたら、もし別の機会がありましたら、思想家小浜逸郎に改めてうかがうしかないのでしょう。
「何を言ってるの?」という読者のために、具体例を挙げましょう。年老いたお母さんを見捨てなければならないほどの政治的な急迫は我々にはない。一方、「仕事が忙しすぎて、十分に面倒が見られない」なら、今でもよく聞きますが、それが事実だとしたら、「もっと余裕をもって働けるような社会にすべきだという」要請が倫理的なものとして議論されねばならない、とこれは「倫理の起源 46」で言われていることです。実際には経済的時間的な余裕はあっても、お母さんを放っておく人は相当数いると思いますが、それはこの際相手にしないことにして。
さらに、余裕があり、かつまた孝心もあって、現にできるだけお母さんの面倒をみている人でも、次のような問題を抱える場合はあります。その人が男性で、結婚したら、奥さんとお母さんの折り合いが悪く、ちゃんと面倒を見ようとすればするほど、どちらか一方か、両方に精神的な負担をかけてしまう、という場合。
いわゆる嫁姑題で、今でもありがちですから、「限界状況」とは言えないんですが、ここに一般的な解決策はありますか? もちろん、信頼できる人に相談するのはいい。お母さんが家庭内にのみ閉じこもらないように、地域の老人向けカルチャーセンターなどを充実させるのもいいことだ。さらにボケてしまったときのために、介護施設がなくてはどうにもなりませんから、こういうのは行政の重要な仕事として、どうしてもやってもらわなければならない。
しかし、どうであれ、家庭内でどうふるまうか、最後には自分で決断して実行しなければならない。類例なら他にいくらもあっても、個別具体的なその母・その妻・その家庭は常に唯一のものですから。これはおそらく、人類が家庭という集団を作って以来一貫して変わらなかった事実です。そして集団が地域共同体から国家へと大きくなるにつれて、具体性は見えづらくなりますが、ある個人が、常に新たな状況に直面して、不安を感じつつある決断をする、という事情は変わりません。
文芸では悲劇と呼ばれるジャンルが主に取り上げた限界状況とは、このようなときに人が陥りがちなジレンマを、最も端的な形で表現したものです。そこに普遍性があります。主人公は自分の置かれた状況である決断をして、行動し、そしてたいては破滅という結末に至る。古代の作品だと、それは逃れがたい宿命だという説明がなされたり、さらには(舞台上では機械に乗って)天上から舞い降りた神によってそれこそ取ってつけた解決に至る場合もありますが、それは作品をまとめための口実(pretext)に過ぎず、人々の心に残るのは、結果はどうあろうと、迷いつつ前へ進まなければならない人間の姿です。人が生きる上での普遍的な困難が、そこに明瞭に見てとれるからです。
と言ってみると、なるほどこれは「人はいかにあるべきか」を追求する倫理学には取り込めないのだな、と半分は納得されます。しかしもう半分では、このような、人の「かくある」姿を見つめる部分を含んだ倫理があってもいいのでは、とも夢想されます。夢想ですから、それで小浜さんや他の人を批判するなんてできた義理ではありませんが。
最後にもう一つ、いや二つばかりご回答に応じておきます。
①あらためて申します。「限界状況を乱発することの危険」や「視線変更の必要」をおっしゃるのは、倫理問題は個人にのみ関わるものとされ、「正しく生きよ」なんぞというお説教ですべて終わりになる危険性を感じておられるからでしょう。「人はパンのみにて生きるにはあらず」を強調しすぎると、パンの重要性が忘れられがちになりますものね。ただ私は、それについては、上の(1)で述べた、政治の領域と個人の領域の峻別がなされれば充分ではないかと考えているのです。
②「そういう悲劇の意義(悲劇に感動する私たちの心の由来といってもいい)をよく思想的に吟味するなら、そこには、悲劇を何とか克服したいという私たちの意志と欲求とが横たわっているのが見られるのではないでしょうか」。ウーン、どうかなあ、ここには最大の違和感が持たれます。
私の悲劇観の入口は前述の通りです。より深くは、これまた拙ブログ中の「悲劇論ノート」で展開することにしまして、入口付近の落ち葉を拾ってお目にかけますと。
宮部久蔵タイプのスーパーヒーローのうち、世界で一番有名なのは「レ・ミゼラブル」の主人公ジャン・バルジャンでしょう。彼らは何ものも裏切らず、周囲の救うべき人間はすべて救って見せる。その意味で悲劇を克服した、男の理想です。しかし彼らの物語は悲劇ではない。人間の本源的な不条理に触れていないからです。「本源的な不条理」とは、もちろん私がそう思っているものというだけですが、その中には、「彼らのようになりたくても決してなれない」も含まれます。だからと言って、「その作品が不出来であることの条件にはけっして」ならないのはそうで、現に私もとても好きです。
とはいえ、上記二作品には、主人公たちの自己犠牲はある。そうではなく、なんの代償もなく、悲劇的状況が丸く収まって、ハッピーハッピーだったら、さまざまな不如意感を抱きつつ日々を送る私のような凡庸なオヤジからしたら、「世の中そんなにうまくいくんなら誰も苦労しないよ」と肩を竦めるしかありません。
一方で、「いや、現実がうまくいかないから、せめてフィクションの世界では幸せな夢を見たいんだよ」という需要も当然あります。前述の「デウス・エクス・マキナ」など、ご存じのように、安易な結末のつけ方の代名詞として、軽蔑語として使われてきたわけですが、これを逆に見れば、なんであれ「ハッピー・エンド」が見たいという願望は古代からあったということであり、文芸の専門家をもって任ずる人々が何を言おうと、どうなるものでもないのです。で、現在のTVドラマに至るまで、その手の作品は絶えることなく製造されています。まして私が何を言っても、よきにつけ悪しきにつけ、どんな影響力もないので、言うだけは言おうと思って、言っています。
それから、乱発されると危険なのは、むしろこちらではないでしょうか。「いくらフィクションでも、こういう立派な実例が示されているんだから、それをお手本にすればいいんじゃないか」などと言って、すべての問題解決を個人に負わせるような危険性は。仮定の話ではなく、「教師がみんな金八先生を見習えば、学校はよくなるはずだ」なんて真顔で言う人は現にいます。念のために、金八のところに、斉藤喜博や大村はまなどの実在の人物を代入したって、「お手本」と考えられた時点で彼らの現実は捨象されたお話になってるんだから、同じことですよね。
今度は短くしようと思っていたのに、余裕がなくて、逆にまた長広舌を揮ってしまいました。お許しください。愚考に対して、小浜さんのほうから「これだけは言っておかねば」ということがあるならもちろん別ですが、そうでなければ、今回の「対話」はこれまでとしましょう。特に文芸に関するところでは、これに懲りず、口頭であっても、またお話願えればと思います。
御文運のますます盛んなることを祈念いたします。
由紀草一さんへ、ついでにW.H.さんへ (小浜逸郎)2015-03-28 23:35:48
お返事を書かなければ、と思っているうち、とうとう一ヶ月以上が経ってしまいました。忙しかったから、というのは言い訳になりません。どうお返事してよいのか戸惑っていたというのが正直なところです。
そうこうするうち、W.H.さんからも、この『永遠の0』問題についてのコメントが届き、さらにそれに対する由紀さんのお返事も書かれてしまいました。もうずるずる引き延ばすわけにはいかないなと決断して、以下に思うところを遠慮せず率直に述べます。お気に障ったら、どうぞお許しください(これは、W.H.さんへの呼びかけでもあります)。
まずなぜお返事をためらっていたのか、その理由ですが、次の通りです。
①何回も読み直しましたが、由紀さんの文章は、私の読みでは8割以上、私の見解に賛同してくれているように思われるので、私に対する違和感の所在がなんであるかが判然としないところがありました。これはもちろん、お前に読解力がないからだといえば、それまでですが……。
②それでも、読み返すうち、ほぼこのあたりに違和感を感じていらっしゃるらしいということが見えてきました。それはだいたい次の2点に整理できそうです。
a. 小浜は、「生活を共有する身近な者たちがよりよい関係を築きながら強く生きるという理念を核心に置き、その理念が実現する限りにおいてのみ、国家への奉仕も承認するという考え方」をすべきであると書いているが、これは、「家族など、身近な者たちのためになるなら、国家のためにも戦おう」という意味だと一応考えられる。しかし近代国家はでかすぎるので、これを一団として機能させようとしたら、人情とは別の原理が必要である。「公」と「私」の分裂は、まずこの単純な事実から生じたのであって、それを統一しようというのは無理であろう。つまり「公」と「私」の分裂は、人間の生き方に宿命的に付きまとうものであって、それを克服しようなどと考えること自体が不可能である。
b. 小浜は、「倫理的な問いを、特定の状況に置かれた個人の『心理』としてとらえるのではなく、どうすれば限界状況的な境遇に多くの人を追い込まずに済むか、というように視線変更する必要がある」と書いているが、限界状況を設定してそれについて考えることには意味がある。なぜならそれは人間の根源的な不完全さが鮮明に浮かび上がった状況であり、だとするならそこにはモデルケースとしての普遍性があるからである。我々はどんなよくできた国家の下で、いくら幸福な日常を送っているように見えても、そうした状況にいつ何時直面しないとも限らない。現にわれわれが戦争がもたらす不幸について思いを致すのも、そのことが了解されているからこそである。その了解は、いわば文学的な了解、つまり福田恒存の言う「一匹と99匹」の「一匹」の問題であって、どんなすぐれた政治的な営みも、これを解決することはできない。小浜は、そういう人間の根源的な不完全さに対する感度が甘いのではないか。
このように由紀さんの「違和感」を整理してみた時、その指摘に対する私の違和感はさほどなく、それ自体としては至極もっともであり、反論すべき理由はないように思えたのです(ただし、思考のスタイルやアングルに関してはどうしても違いがあるようなので、これは後述します)。
③このサイトのタイトルを由紀さんは、「国家意識について、小浜逸郎さんとの対話(その1)」としていますが、私は率直に言ってこのタイトルに引っかかるものを感じます。というのは、このタイトルでは、由紀さんと私との間で、ブログ上での対話(往復書簡のようなもの)を続けてやっていこうという合意があらかじめあったかのように読めるからです。なるほど私は、自分のブログでの先のコメントで、「またお話ししましょう」と書きましたが、それは一種の挨拶のようなもので、ブログ上での対話を続けようという具体的な提案ではありませんでした。
私は別に怒ってなどいませんが、このタイトルのつけ方には、付き合い上のルールとして、やや「非礼」があるのではないかと思います。そのことが、私にえっ、ずっと続けなきゃいけないのかなあといった多少の心理的圧迫感を与え、お返事をためらわせた理由の一つにもなっていたようです。
以上ですが、それでは次に、上記②で述べた2点についてお答えします。
まずa.について4点。
①私が上記のように書いたのは、国家あるいは公共性の人倫とは、いかなる条件を備えるべきかという文脈においてであり、それは「倫理の起源」というシリーズの最終項にあたります。倫理学という思考スタイルにしたがう限り、よい国家とは何か、という問いに対する論理的な回答がどうしても要求されるはずで、そこでは、一定の図式的な記述を避けるわけにはいきません。もっとも「奉仕を承認する」という言い方に、個人の態度を問うているかのような誤解の余地があったことは認めます。そのため、由紀さんの言い換えのように、「家族など、身近な者たちのためになるなら、国家のためにも戦おう」といった、個人倫理の表明として解釈される余地があったのでしょう。しかし私の真意は、あくまで「実存的な生の充実のためにこそ、国家はあるのだ」という考えを強調する所にあります。その点で、由紀さんのお考えと一致するのではないかと思っております。
②しかしなお、、私の、「生活を共有する身近な者たちがよりよい関係を築きながら強く生きるという理念を核心に置き、その理念が実現する限りにおいてのみ、国家への奉仕も承認する」という考え方」を、「家族など、身近な者たちのためになるなら、国家のためにも戦おう」という意味だというふうに言い換えてしまったら、それは、国家のあるべき姿をネガティブに限定したはずのロジックが、むしろ国家への個人の奉仕精神をポジティブに意味づけるロジックへと転換されてしまうことになるでしょう。それはむしろ、由紀さんにとっても、不本意なことなのではないでしょうか。
③「近代国家はでかすぎるので、これを一団として機能させようとしたら、人情とは別の原理が必要である。
」とありますが、これはまさに私が『倫理の起源』52および53で、愛国心について説いているところとほとんど一致します。もしよろしければ、もう一度ご参照ください。
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/3230a1bbb6bdfc08be242776ea8d2124
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/76d56535d628db5c7fb0cf8a79603917
④「公」と「私」の分裂は、人間の生き方に宿命的に付きまとうものであるという由紀さんの考え方は、b.にもつながるペシミスティックな人間観ですが、その人間観を批判するつもりは私にはありません。それはまさしく『永遠の0』における宮部久蔵の悲劇が示して余りあります。ただ、そういう悲劇の意義(悲劇に感動する私たちの心の由来といってもいい)をよく思想的に吟味するなら、そこには、悲劇を何とか克服したいという私たちの意志と欲求とが横たわっているのが見られるのではないでしょうか。あるいはむしろ、悲劇に対する感動を通して、私たちの生への意志が初めて発動するのだと言い換えてもよい。悲劇に対する感動は、それ自体としてはけっして欣喜雀躍するような質のものではないのですから。
これは、W.H.さんにも言いたいところですが、あり得ない絵空事や奇跡が描かれているとか、リアリティがないとかいったことは、その作品が不出来であることの条件にはけっしてなりません。ここでは深く踏み込みませんが、多くの人がなぜ「絵空事」に感動するのか、その理由を芸術批評の本質的な問題として考えてみる必要がありそうです。
なお私は、W.H.さんが書かれているように、『永遠の0』が「お国のために」死んでいった多くの人たちの抱えた矛盾を「解決」したなどと一言も言っておりません。戦後的価値観(左派進歩主義に代表されるもの)と戦中的価値観(懐旧型保守層に代表されるもの)との百八十度の対立の問題が、宮部久蔵という主人公の造型のうちに、あくまでフィクションの次元で止揚・克服モデルとして示されているといったまでです。この主人公が実際にはありえないスーパー・ヒーローであることを、私は何度も断っています。しかしそれは、大東亜戦争の評価をめぐっての、戦後言論界の不毛な左右対立を乗り越えるきっかけを提示したという意味で、この70年間のなかで新しいことだったのです。
次にb.について。
ここでも、先に述べたことと同じことを言わなくてはなりません。限界状況の思考実験には普遍的な意味があるということそのものには同意しますが、それはあくまで文学思想の内部で追究すべきことであって、公共体または国家の倫理がどうあるべきかという問題枠組みの内部にそれを取り込もうとすると、的を外してしまうと思います。大岡昇平の『野火』や竹山道雄の『ビルマの竪琴』は、こういう問題を追究したきわめてすぐれた作品ですが、でも、そのことと、「なるべくよい社会にするにはどうすればよいか」という思想課題とは、区別されてしかるべきでしょう。それこそ、一匹と99匹との問題です。しかもまずいのは、限界状況モデルばかりを乱発すると(とかく倫理問題を考える時はそうなりがちなことは、由紀さんも認めていましたね)、文学的な(個人の生き方にかかわる)思想課題だけが倫理学のすべてだと錯覚しやすいことです。
普通の政治的な営為には? 一国の経済運営には? 家庭生活には? 倫理学は必要ないのでしょうか?
最後に、W.H.さんにひとこと。全体に、由紀さんと私との思想の共通点を丁寧に見出して、その面を評価してくれていることには、感謝します。ただ、以下の部分――
「それに対し由紀さんは、『家族、愛する人のために』という思いが『国のため』へとつながっていく、そうした、ある意味で幸福な直接性は近代国家の戦争においては難しい。実際には若者は、巨大な国家というものを前にして、個々の人生をどうそれに調和し整合させていったらいいのか解決がつかなかったろう」という部分ですが、この「それに対し」というのは、私がまるで、ここに書かれたことを考えてこなかったかのように読めます。繰り返しになりますが、まさに私は『倫理の起源』シリーズにおいて、人生における様々な局面で、こうした解決困難な矛盾が、従来の倫理学(カント、儒教、和辻倫理学など)では問題にされてこなかったことを最大のモチーフの一つとして追究してきました。優先権を争うような愚かしい轍を踏もうというのではないですが、もし未読でしたら、W.H.さんに、拙稿を詳しく読んでみてくださいとお勧めするほかありません。
以上、いろいろと失礼を申し上げました。
《由紀草一より小浜逸郎氏へ》
御論にからんで勝手にいろいろと申し上げた結果、いらぬご心労をおかけしたようで、まったく申し訳なく思っております。今回はせっかくご回答いただいたことに関して、一番言いたかったことを述べます。
御回答のa.について
私は要するに、「実存的な生の充実のためにこそ、国家はあるのだ」という言い方に違和感が持たれたのです。まるで国家が国民の安定した生活以上の、内面的なところまで踏み込めと言っているように読めますから。小浜さんの真意はそういうことではないと理解していますし、「倫理学という思考スタイルにしたがう限り、よい国家とは何か、という問いに対する論理的な回答がどうしても要求されるはずで、そこでは、一定の図式的な記述を避けるわけにはいきません」と言われると、それまでかな、とも思いますが。でもやっぱりこだわり捨て難く、それは奈辺にあるのか、御迷惑ながら、今一度開陳します。以下、三つに分けまして。
(1)統治機構としての国家を考えた場合、その究極の目的は、小浜さんのおっしゃる通りで、まちがいないと思います。民生を安定させること、それがある程度達成されたら、保ち、さらに拡充するように努めることです。誰もが暴力や飢えの危険から免れている社会、そして、ささやかな「生きる喜び」を追求することができる社会を目指す、それは常に、「国威の発揚」などより上位に置かれるべきである。小浜さんは、善を「日常生活における秩序と平和が保たれている状態を指す」(「倫理の起源 63」)のだとおっしゃいますので、上は政治の目指すべき最高の「善」だということになるでしょう。
もちろんこれだって、完璧な達成は期し難い事業なのですが、私はどうしても次のことが気になるのです。ではいったい、権力の必要性はどこから出てくるのか? 権力という言葉を、ここでは簡単に、「ある人や集団に、好むと好まざるとにかかわらず、あることをさせたりさせなかったりする力」と定義します。家族のような最小の共同体から国家という最大のものまで、そう呼ばれてもいいものは必ずある。それは共同体の安寧秩序を守るために必要だと考えられてきた。なぜか。
これについて長々と述べるのは、拙ブログの「権力はどんな味がするか」シリーズなどでやることにして、やはり簡単に申します。なぜ権力が必要か? それは共同体全体の利益のために、ある特定の個人・団体が犠牲になるのを忍ばなければならない場合があるからです。
大げさな話ではありません。例えば、「ゴミ処理場の建設が必要なことはわかる。が、自分の住居の近くには作ってほしくない」というような要求はわりあいと一般的なものです。もちろんこの要求が完璧に達成できるわけはない。ゴミ処理場が地域社会にとって本当に必要なら、住民の一部には我慢してもらわなければならない。【あるいは、次のような解決策も考えられます。誰も住んでいない山奥にゴミ処理場を作って、その分輸送費が高くつくが、それは住民全部から公平に徴収すれば、特定の誰かにだけ犠牲を強いるということはなくなる、と。これは不満を金に代え、分散することによって目立たなくするということで、うまいやり方かも知れませんが、不満そのものが消えるわけではありません。】
私の考えでは、こういうとき行政側の最低の対応は、「そりゃつまり住民エゴというものだ。みんなもっと公共心を持たなくちゃいけない」などと説教することです。エゴが消えるわけはない、というか、もともと、それを前提として、政治の必要性が出て来るのですから。「エゴを捨てろ」などと統治側が言うのは、自己否定に等しいのです。
つまり、こうです。普通の人は誰しも自分の身近なところにしか目がいかない。そして、身近な幸福をできる限り守り、さらに拡充しようとする。ごく自然なことです。また、それこそ倫理の根底である、という小浜さんのお考えには全く異論がありません。
ただそれが、何か他のものを犠牲にしてでも、にまで至れば(積極的にそうするというより、知らないか、知らないふうをするか、が多いでしょう)、エゴイズムと呼ばれものになる。が、人は、これまたわりあいと自然に、そうなりがちなものです。それに思い至るなら、社会全体を見渡して、その利益、いわゆる公共の福祉のために、他に手段がないなら、強制的に住民を従わせることができる機関もまた、遺憾ながら必要である、と納得されるでしょう。
同時に、その権限は、当然限定されるべきものなのだから、「実存的な生」に関するところなどには踏み込まない、そういう節度も、「公的なもの」が弁えるべき大事な「倫理」だ、とも納得される、のではないでしょうか。
私にとって、公と私のイメージはさっとこのようなものです。だからこの次元の違いが「克服される」なんて原理的にあり得ないのだし、あり得ないと思うことはいかなる意味でも「ペシミスティック」と呼ばれ得るはずはないと考えます。
(2)もう一つ、前回も述べましたことを上に合わせて言い直します。小浜さんのおっしゃる「戦中的なイデオロギーと戦後的なイデオロギーとの妥協不可能な対立」とは、私から見ると次のようなものです。戦中は、戦争遂行のために、個々人のエゴイズムはすべて捨て去ることが求められた時代だった。戦後は価値観が反転して、それこそ国家悪であり、このような巨大な悪をなす統治権力に反対することこそ正義であると、主に知識人と、その予備軍気取りの学生からはみなされるようになった。
どちらも一方のエゴイズムを糾弾することによって、自分の側のは見ないようにしているのですから、妥協点が見つかるはずはないのです。繰り返しますが、政治に必要とされる技術はエゴイズムをなくすことではなく、エゴイズムを調整するところにある。戦後日本だって、政治が、統治がある以上、それは現になされています。それを悪しき強力な権力対善なる無力な庶民、の見取り図でわかりやすく見せようとして、欺瞞的な言を繰り広げてきたのが、戦後の知識人などの生態なのです。
もちろん彼らにも言い分はある。人間ならば誰でもエゴイズムがある。私のような名もなき庶民にも、時の為政者にも。それを抑えようとした場合、普通に言って前者より後者のほうがずっとたいへんなのは事実です。民主主義はそのために、三権分立を初めとする多くのチェック機能を備えているはずであり、またそれが唯一の取り柄なのですが、今までちゃんとうまく機能してきた、とは到底言えない。それは、チェックのための批判精神が足りないからだ、と彼らは言うわけです。
一理あります。権力者にダマされまいとする心構えはあったほうがいい。しかしそれにしたって、統治者側に過剰な要求をするのは控えたほうがよろしい。住民・国民の全員に、100パーセントの満足を与える施策、とか。なぜなら、過大な要求に応えるためには過大な力が必要とされますから、こういうことは権力の強化に結びつくからです。以上は、渡辺京二『近代の呪い』中で最も感銘を受けた指摘であり、小浜さんも同意するところだろうと思います。「対話」ということからは逸脱でしょうが、またしてもこだわりやみ難く、つい申し上げてしまいました。
(3)それでも、共同体が、単にそこで暮らす人々の利害を調整するためにのみある、とは決して言えないでしょう。普通の人なら誰しも家族愛や郷土愛や同胞愛や愛国心をいくらかは持っている。普段は特に意識することはなくても、例えば私でも、日本が貶されるのを聞けば、自分が直接貶された時のような不快感が持たれます。
即ち、自分の属する共同体とは、「自分」を包み込んでいるのと同時に「自分」の一部であり、「実存的な生」を構成するのにも不可欠な要素である。そうでないとしたら、上に述べた「利害の調整」にしても、いかなる智恵者の高等テクニックをもってしても、うまくいかないでしょう。私はただ、施政側が最初からそれをあてにするのはまちがいだ、と申しましたので。
これを言い換えると、人間には本来的に共同性が備わっている。そこから超出した「純粋な自己」などという観念を立てても無益。それは生きる人間の現実を捨象しているので、「人は、そして共同体はいかにあるべきか」についての具体的な指針である倫理を与えることはできない。しかしまた、各種の共同体、和辻哲郎の言う人倫的組織のうち、「大きいもののほうが公共性が高く、ゆえに倫理性も高い」から重要で、優先されるべきだ、などとは決して言えない。むしろ逆に、「人間が具体的に生きる共同態」を充実させること(これが「実存的な生の充実」と言われているものでしょう)を中心にして、すべてのあるべき姿が考えられなければならない。これを示し得たことが、今回の御論考「倫理の起源」の大きな成果です。
それに異論はないのですが、今回のブログ記事のタイトルは、「国家意識について、小浜逸郎さんとの対話」ですので(いったいなんでこんなタイトルにしたのか、時間もたちましたし、議論の焦点も多岐にわたりましたので、もうわからなくなっているのですが。呵々)、これについても云々しておきます。
おっしゃる通り、家族や故郷など、目に見えるものなら、人は愛せますが、国家なんて大きすぎるものは、観念に近いので、普通の意味で愛情の対象にはならない。しかし、これまたおっしゃる通り、特に男性は、観念的なものに惹かれがちな動物である。また、「セブンティーン」で大江健三郎が見抜いたような要素もある。「国家」と一体化したように感じたら、人間は卑小な一個人の段階を超えた、より巨大なものの化身になったように感じられる。それは自我の肥大化であり、究極のエゴイズムなんですが、「国のために命を投げ出す」覚悟が一見自己犠牲的であるため、そのことは易々と見過ごされてしまうという効果もあります。こうして戦前の日本では、二・二六事件や、血盟団によるテロが勃発しました。
それを思うと、為政者が「愛国心教育」を推進しようとするなんて、どうなってるんだろうと思います。ファナティックな国粋主義者がたくさん生まれたりしたら、真っ先に狙われるのは彼らですのに。もしかしたら、彼らこそ、崇高な自己犠牲的精神の持ち主なんでしょうか?
冗談はさておき、実際問題としては、人がまずまず充実した幸福な生活を送っているのなら、めったに「愛国有理」の過激なテロに走ったりはしませんので、そのためにも、国民個々の生活を第一に考える国家であることは望ましいわけです。
万が一戦争をすることになったら、愛国心に頼るしかないのですが、それが行き過ぎないようにするためにも、目的と限界を、即ち「なんのために、どこまで、やるのか」を明確にして、無用な戦線拡大など絶対にしないように考えるしかない。これは政治の中でも最も難しい事業でしょう。それだけに、原則ははっきりさせておく必要があります。以上は御論を私なりに言い直したものになりました。
ご回答のbについて
「倫理的な問いを、特定の状況に置かれた個人の「心理」としてとらえるのではなく、どうすれば限界状況的な境遇に多くの人を追い込まずに済むか、というように視線変更する必要がある」には戸惑いました。私が考えていたこととはまるで別のことが言われていましたので。今は、小浜さんが時期的に「公共体または国家の倫理はどうあるべきかという問題」に取り組んでいる真っ最中だったので、こういう言い方になったのだな、と了解します。
政治は、人間をなるべく「限界状況」に追い込まないようにするべきものだ、というのはそうですね。上のコメントをいただいた拙ブログでは、ロシアのエスエル党を取り上げました。彼らの「革命のために人を殺しても、可能な限り倫理的でありたい」という意識上の困難な問題は、ロシア帝国末期の圧政がなく、従って革命の必要がなければ生じなかったものです。また、ずっと以前に記した、サルトルに相談に来た学生も、フランスがナチスドイツに占領されなかったら、「祖国のためのレジスタンスに挺身したいが、それでは年老いた母親を見捨てる結果になる。どうすればよいのか」などと悩むことはなかったなかったわけですから。
しかし、そう言った次の瞬間に、「そういう問題かなあ」という気がしてくるのは、私だけですか? これですべて終わりだとしたら、平和日本に生まれたおかげで、彼らのような過激な政治行動に走る必要性などめったに感じずにすむ我々が、「昔の人はたいへんだったんだなあ」という以上の共感を、彼らに対して抱くはずはないのではないですか。
これに対しては小浜さんから、「限界状況の思考実験には普遍的な意味があるということそのものには同意しますが、それはあくまで文学思想の内部で追究すべきことであって、公共体または国家の倫理がどうあるべきかという問題枠組みの内部にそれを取り込もうとすると、的を外してしまう」のだという回答をいただきました。そりゃショバが違うよ、というわけですね。私は、倫理には自分なりの興味はあっても、「倫理学の構築」などには、興味がないというより、身の丈に合わないと感じておりますので、そのへんの志の高低差に由来する温度差はどうにもならないようです。
また小浜さんは、「倫理の起源 34」に次のように記しておられます。
人間相互の「決断」や「行為」には、過去から未来へ向かって自己を投企するというその特質上、必然的に不信や不安がつきものである。この不信や不安は、それらが実現してしまうこと、つまり約束や誓約や信頼の情が裏切られてしまうことを予定している。そしてその「裏切られること」は、究極的には「死」=相互の別離に結びついている。だからこそ、私たちはその不信や不安を克服するために人倫精神を必要とするのである。
つまり、可能な限り信頼を裏切ることのないような個人であり、社会であるべきである、それを心がけるのが「人倫精神」である、というわけですね。お説の通りです。しかしそれでも、人間は絶えず新たに具体的な関係性の中に入っていくものである以上、「不安や不信」が完全に解消されることはあり得ません。それを扱うのは文学であり思想であって、倫理学ではない、ということでしたら、もし別の機会がありましたら、思想家小浜逸郎に改めてうかがうしかないのでしょう。
「何を言ってるの?」という読者のために、具体例を挙げましょう。年老いたお母さんを見捨てなければならないほどの政治的な急迫は我々にはない。一方、「仕事が忙しすぎて、十分に面倒が見られない」なら、今でもよく聞きますが、それが事実だとしたら、「もっと余裕をもって働けるような社会にすべきだという」要請が倫理的なものとして議論されねばならない、とこれは「倫理の起源 46」で言われていることです。実際には経済的時間的な余裕はあっても、お母さんを放っておく人は相当数いると思いますが、それはこの際相手にしないことにして。
さらに、余裕があり、かつまた孝心もあって、現にできるだけお母さんの面倒をみている人でも、次のような問題を抱える場合はあります。その人が男性で、結婚したら、奥さんとお母さんの折り合いが悪く、ちゃんと面倒を見ようとすればするほど、どちらか一方か、両方に精神的な負担をかけてしまう、という場合。
いわゆる嫁姑題で、今でもありがちですから、「限界状況」とは言えないんですが、ここに一般的な解決策はありますか? もちろん、信頼できる人に相談するのはいい。お母さんが家庭内にのみ閉じこもらないように、地域の老人向けカルチャーセンターなどを充実させるのもいいことだ。さらにボケてしまったときのために、介護施設がなくてはどうにもなりませんから、こういうのは行政の重要な仕事として、どうしてもやってもらわなければならない。
しかし、どうであれ、家庭内でどうふるまうか、最後には自分で決断して実行しなければならない。類例なら他にいくらもあっても、個別具体的なその母・その妻・その家庭は常に唯一のものですから。これはおそらく、人類が家庭という集団を作って以来一貫して変わらなかった事実です。そして集団が地域共同体から国家へと大きくなるにつれて、具体性は見えづらくなりますが、ある個人が、常に新たな状況に直面して、不安を感じつつある決断をする、という事情は変わりません。
文芸では悲劇と呼ばれるジャンルが主に取り上げた限界状況とは、このようなときに人が陥りがちなジレンマを、最も端的な形で表現したものです。そこに普遍性があります。主人公は自分の置かれた状況である決断をして、行動し、そしてたいては破滅という結末に至る。古代の作品だと、それは逃れがたい宿命だという説明がなされたり、さらには(舞台上では機械に乗って)天上から舞い降りた神によってそれこそ取ってつけた解決に至る場合もありますが、それは作品をまとめための口実(pretext)に過ぎず、人々の心に残るのは、結果はどうあろうと、迷いつつ前へ進まなければならない人間の姿です。人が生きる上での普遍的な困難が、そこに明瞭に見てとれるからです。
と言ってみると、なるほどこれは「人はいかにあるべきか」を追求する倫理学には取り込めないのだな、と半分は納得されます。しかしもう半分では、このような、人の「かくある」姿を見つめる部分を含んだ倫理があってもいいのでは、とも夢想されます。夢想ですから、それで小浜さんや他の人を批判するなんてできた義理ではありませんが。
最後にもう一つ、いや二つばかりご回答に応じておきます。
①あらためて申します。「限界状況を乱発することの危険」や「視線変更の必要」をおっしゃるのは、倫理問題は個人にのみ関わるものとされ、「正しく生きよ」なんぞというお説教ですべて終わりになる危険性を感じておられるからでしょう。「人はパンのみにて生きるにはあらず」を強調しすぎると、パンの重要性が忘れられがちになりますものね。ただ私は、それについては、上の(1)で述べた、政治の領域と個人の領域の峻別がなされれば充分ではないかと考えているのです。
②「そういう悲劇の意義(悲劇に感動する私たちの心の由来といってもいい)をよく思想的に吟味するなら、そこには、悲劇を何とか克服したいという私たちの意志と欲求とが横たわっているのが見られるのではないでしょうか」。ウーン、どうかなあ、ここには最大の違和感が持たれます。
私の悲劇観の入口は前述の通りです。より深くは、これまた拙ブログ中の「悲劇論ノート」で展開することにしまして、入口付近の落ち葉を拾ってお目にかけますと。
宮部久蔵タイプのスーパーヒーローのうち、世界で一番有名なのは「レ・ミゼラブル」の主人公ジャン・バルジャンでしょう。彼らは何ものも裏切らず、周囲の救うべき人間はすべて救って見せる。その意味で悲劇を克服した、男の理想です。しかし彼らの物語は悲劇ではない。人間の本源的な不条理に触れていないからです。「本源的な不条理」とは、もちろん私がそう思っているものというだけですが、その中には、「彼らのようになりたくても決してなれない」も含まれます。だからと言って、「その作品が不出来であることの条件にはけっして」ならないのはそうで、現に私もとても好きです。
とはいえ、上記二作品には、主人公たちの自己犠牲はある。そうではなく、なんの代償もなく、悲劇的状況が丸く収まって、ハッピーハッピーだったら、さまざまな不如意感を抱きつつ日々を送る私のような凡庸なオヤジからしたら、「世の中そんなにうまくいくんなら誰も苦労しないよ」と肩を竦めるしかありません。
一方で、「いや、現実がうまくいかないから、せめてフィクションの世界では幸せな夢を見たいんだよ」という需要も当然あります。前述の「デウス・エクス・マキナ」など、ご存じのように、安易な結末のつけ方の代名詞として、軽蔑語として使われてきたわけですが、これを逆に見れば、なんであれ「ハッピー・エンド」が見たいという願望は古代からあったということであり、文芸の専門家をもって任ずる人々が何を言おうと、どうなるものでもないのです。で、現在のTVドラマに至るまで、その手の作品は絶えることなく製造されています。まして私が何を言っても、よきにつけ悪しきにつけ、どんな影響力もないので、言うだけは言おうと思って、言っています。
それから、乱発されると危険なのは、むしろこちらではないでしょうか。「いくらフィクションでも、こういう立派な実例が示されているんだから、それをお手本にすればいいんじゃないか」などと言って、すべての問題解決を個人に負わせるような危険性は。仮定の話ではなく、「教師がみんな金八先生を見習えば、学校はよくなるはずだ」なんて真顔で言う人は現にいます。念のために、金八のところに、斉藤喜博や大村はまなどの実在の人物を代入したって、「お手本」と考えられた時点で彼らの現実は捨象されたお話になってるんだから、同じことですよね。
今度は短くしようと思っていたのに、余裕がなくて、逆にまた長広舌を揮ってしまいました。お許しください。愚考に対して、小浜さんのほうから「これだけは言っておかねば」ということがあるならもちろん別ですが、そうでなければ、今回の「対話」はこれまでとしましょう。特に文芸に関するところでは、これに懲りず、口頭であっても、またお話願えればと思います。
御文運のますます盛んなることを祈念いたします。
小浜さんのコメントを読んで
今回、自分の言葉で要約したのは、そうしなければ、お二人の争点を理解するのが困難だったためですが、その結果、私の理解の程度がよくお二方に露呈されたと思います。また、そのお蔭で自分の理解不足にも気づくことができました。まづは、今の改まった理解を再度自分の言葉で呈示し、次に自分の感じたことを書こうと思います。
『永遠の0』においては、臆病でありながら国のために戦うヒーローが創造された。臆病なヒーローとは今までになかったキャラクターである。そうした意味で画期的だと言える。彼の臆病とは何を意味するのか。それは生命を大切にする心、ひいては家族を大切に思う心である。生命を大切にしながら、国のために勇敢に戦う人物像、それはフィクションではあっても矛盾ではない。それは何かしらの可能性を暗示するものではないか。こう小浜さんの主張を捉え直してみました。
考えてみれば、もし私が『永遠の0』以外で、臆病なヒーローの登場するアニメなどを目にしていたならば、たとえそれが荒唐無稽なものであっても、それに注目しただろうという気もします。私は、現代のアニメ、小説等をよく知らないので何とも言えませんが、臆病なヒーロー像というのは、現代の停滞を打破する何ものかを秘めているのかも知れない、そのように思いました。別な話になりますが、以前、どうみてもかっこうの悪いヒーロー、単なるオッサンが活躍する香港映画『カンフー・ハッスル』を見たときの感動を思い起こします。そこに日本にはない中国の大きさを感じたのを覚えています。今回、小浜さんがほめ、また由紀さんが溜飲を下げたという理由が今、少し分かるような気がして、感ずるところがあったのでした。
しかしここで、私が『永遠の0』を読んで、なぜお二人と同様な感銘を受けなかったのか,と考えてみました。確かに、臆病なヒーローという逆説は新鮮でおもしろみがあると思います。何かしらの進むべき方向を示しているのかも知れません。理性と臆病とには大いに通ずるものがあるのだろうし、勇気を粗暴と区別しなければならないこともわかります。また、現実に臆病というほどにものごとを考え、かつ勇敢な人物が存在していたろうことも間然しがたいことです。先ごろ読み終えた小瀬甫庵『太閤記』において高い評価が与えられているのは、ふだんは女性のようにおとなしく、大言壮語をしないにもかかわらず、戦場において活躍する人物でした。この戦国時代のリアルな人物評は臆病といった例ではありませんが、勇気をことさら正面に出さないでも、目の前に死がちらつく場面で、活躍できた人物がいたことを我々に教えています。とは言うものの、どうも今の私の関心はそうした人物にはないようなのです。少なくとも大東亜戦争時における前線の将兵にそうしたものを求める気持ちをもたない。前線の日本軍に対しての肯定の念、その度合いが、私にお二人とは違う感想をもたせた理由なのかも知れません。
虎にたいし素手で向かい、大河を泳いで渡ろうとするような乱暴者、馬鹿者をよしとする風は、何も昭和の軍に特有なものではなく、戦前日本に通有なるものでしょう。何もそれが真の勇気であるとは誰も思っていなかったに違いありません。しかし、中庸は言うに易く行いがたいものであるし、いくぶん天性に依るものが大きい気がするからでしょうか、男子の蛮風はさほど問題にされなかった。というのも、たいていの人間は臆病であるし、少々頭のおかしい者以外は恐怖感に圧倒されるのが常であるからでしょう。なんといっても相手は、死や生涯にわたる不自由です。臆病は人の性であり、放っておけば自然にそちらへ流れていきますが、勇は「偽」すなわち「人為」であり、努力しなければ得ることのできないものです。そこで「勇」の徳が常に説かれ、男はそちらへ強要されるという、今風に言えばジェンダーによるハラスメントが行われてきたわけでしょう。
一般に、勇気の過剰は将兵として望ましく、それ以上を望むのは酷である気がします。そして私は「勇気過剰たる」日本軍を愛するのです。またかなしく思うのです。彼らは”狂”でした。理性を軽んじたというよりは、勇なきを忌み恥ぢた。こうした体質への偏愛から前線における宮部久蔵の臆病の勧めは、私にとっては余計なものと感じられたようです。
月並みな言辞になりますが、私が思うのは後方に問題があったということです。蛮勇よりも理性が絶対に必要であった後方に理性、いや、真の勇気・誠実が足りなかった。野蛮な旧軍にあって一人臆病を堂々と表明するほどの勇気は大勇であって、一般に望むべきものではないと思われます。しかし、軍指導部にはそれが要求された。そこにこそ一個の宮部久蔵が必要だったことは否めません。そして宮部が特攻すべき相手は、特攻を生みだした自国の司令部だったとひそかに信ずるものです。しかし、この件は措きましょう。
現代の一般的な日本人男子に求められているものは理性なのでしょうか。いのしし武者的な勇気、もしくは少し肯定的に言って気概なのでしょうか。私は、直観的に後者の方が難しいと感ぜられるせいか、後者に意を注いできた気がします。そのせいか、私の旧軍への評価は一般とは若干異なるものになるようです。繰り返しますが、いわゆる軍指導部に必要な理性が不足していたことは否めないことですが、このことは十分糾弾されており、少なくとも私が何かを言う必要はないようです。しかし、前線の日本軍の「勇気過剰たる」に、然るべき評価がなされているのかといえば、そうは思わないのです。
この平和で天国のような日本に齢を重ねてゆくとき、自分のバランス感覚に疑いをもつことはあります。しかし、私には日本人男子全員が大勇といって韓信の如く人の股くぐりばかりしているように見える。そして子路の如き暴虎馮河(無謀で命知らずな行動)を嘲笑っているように見えてならない。そうした私にとって『永遠の0』の主人公のキャラクターは必ずしも面白いものとは映らなかったのです。
長期の戦いには理性が必要でしょう。ここに必要な勇気はひとつの覚悟であって、どちらかと言えば老人の得意とするものです。そしてそれは、由紀さんのいうところの合理主義につながっていくのでしょう。しかし、それでもって勇を語りおえたとするならば、やはり違うとおもったのです。
ところで「リアリティがない」という云い方に関してですが、私の表現力の無さを示しているようです。もう少し考え、言い直してみようと思います。
『永遠の0』はリアリティにその魅力をもらい受けながら、都合のいいところだけを部分的に改変している。勇ましい日本軍の戦闘シーンを描きながら、ちゃっかり一般受けする軍人批判を織り込んでいる。そうした印象を受けました。普遍的なレヴェルでの真理をとり扱いたかったら、実際戦場にいた人が僅かながらも生存している航空隊ではなく、銀河星軍団でもいいわけです。それに対し『永遠の0』はきわめて直近の出来事であり、事実が大いに問題となる時代を舞台としています。戦後生まれといっても、読者は身体レヴェルで知っているものがあるわけです。よって軍歌を歌いながら育った私も三十年代生まれなりに緊張感をもって読むことになりました。
「これは仮構であるのだ」という共通の了解がフィクションを成立させ、虚偽との差異を作るのだとすれば、きわめて近い時代に舞台を設定し、多くそれらしいものが入っている、こうした作品は難しいものを含んでいるのではないでしょうか。多くの文献を渉猟して造り上げられた世界は、事実を多く含むだけに創作した部分との見分けがつきにくい。士官と兵隊との関係はどうだったのか。それほど乖離していたものなのか。単純な若年層の位置にいた私の父などには、士官などは神さまのように見えたと聞きますが、航空隊ではどうだったのか。旧軍の巨大な組織のなかで、末端において何らかの自由可動部分があったのか。どうしようもない歴史の大勢の中で、矛盾の中で、十分すぎるくらいによく戦ったのではないか。『永遠の0』は普遍性のレヴェルにおける真理とともに、事実的なレヴェルにおいての真理もその魅力の一部として有している小説です。そうしたなかで、きっと若い世代は、この小説で七十年前の世界を知る人たちは、微妙なところで私と違った理解をしていくのだろうなと思うと、何かいやな気がしたのです。もちろん私自身が真実の姿を知っているわけではないのですが、それでも平成生まれとは違うのではないか、と思うのです。「紫の朱を奪うを悪む」、これが私の言おうとした「リアリティの無さ」の中身であるのかも知れません。
次に小浜さんの、私の「それに対し」に対する指摘に関してですが、「倫理の起源52、53」を精読し、よく理解できました。対比の接続語は撤去しなければなりません。実を言えば、こうした結果はいくぶん予感をもっていたことでした。この程度のことを小浜さんが前提としていないはずがないという意識は持っていましたが、ASREADの該当箇所から読み取れる限りでまとめた、ということでお許しください。
ただ、少し言い訳をさせていただくと、私は小浜さんの倫理学を読んでいないのではなく、私が問題意識をもつ幾つかの部分にのみ意識を集中しているわけで、そこに関して自分なりの意見が言えるように準備作業を何年もおこなっていたのは確かです。私は私のレヴェルで、またペースで、絶えず小浜倫理学と対決し続けていたことを理解していただければと思います。
今回のコメントは小浜さんに宛てたものですので、私がお返事する筋合いはないか、と思って控えておりました。が、小浜さんも何かとお忙しそうだし、拙ブログの数少ないコメント欄使用について、お礼は申し上たほうがよいでしょう。
それにしても、ただ「ありがとうございます」だけでも曲がないので、一応、御文章に絡んだことを申しますと。
(1)宮部久蔵は、用心深いですが、決して臆病ではないんじゃないですか。旧日本軍の中で、彼がそう評されたという件は、そのまま旧日本軍批判になっていると思います。
(2)「「勇気過剰たる」日本軍を愛するのです。またかなしく思うのです」は、W.H.さんらしい純粋さに溢れたところで、好感が持てます。しかし、ずっとひねこびた私は、これはジェンダー・ハラスメントというよりは、タテマエであったろうと考えます。「武士は喰わねど」なんとやら式の。まあ、戦後、このような、タテマエを保つための「痩せ我慢」は、おっしゃる通り、嘲笑の的になり、これまたおっしゃる通り、それがいいとばかりは思いません。それでも、ノスタルジー自体は決して建設的ではない。それには同意していただけますか?
やっぱり、これまでのやりとりの繰り返しになってしまいますな。ただ、沈思黙考より、言葉が外部へ出る分、いくらかでも前進しているような気がします。
そういうわけで、今後ともよろしくお願いします。