1984, 1984, directed by Michael Radford
メインテキスト:ジョージ・オーウェル 田内志文訳『1984』(原著の出版年は1949年。角川文庫令和3年)
サブテキスト:ジョージ・オーウェル 井上摩耶子訳「象を撃つ」(1936年作、川端康雄編『オーウェル評論集 1』平凡社ライブラリー平成21年所収)
今度の新訳は、評判通り読みやすかった。おかげで、学生時分に卒読したときには自分が「何もわかっていなかったのだな」とよく納得された。
この小説は、全体主義・監視社会の恐怖をプロットにしており、その一部は、今も、おそらくは執筆当時も、実現している。しかしその中でオーウェルは、全体主義の原理を精緻に語り、結果、それが完全な形では実現不可能であることまで暗示し得ていると思う。ちょうど、人間が完全に自由になる世界は原理的に決して来ないように。
作中で語られる、(執筆・発表当時では)未来社会についてまず略述する。
1950年の大戦争を経て、地球は三つの超大国によって分割統治されている。ユーラシア・イースタシア・オセアニアがそれで、主人公ウィンストンが棲むロンドンはその最後のものに属する。なんでロンドンがオセアニア? と一瞬戸惑うが、アメリカがイギリスを併合し、ここを含む大西洋の島々、南アフリカ、オーストラリアとその近隣から成る、つまり、大雑把にかつての大英帝国の版図が意識されているようだ。
この地を統治しているのは〈党〉であり、その指導者はビッグ・ブラザー(B・B)と呼ばれる。実際に会った者はほとんどいないが、顔は誰でも知っている。テレスクリーン(東京都内の主要地にある街頭大型テレビのようなもの)に大きく映し出されているからだ。それは動画ではなく画像だが、移動してもこちらから見える限りは向こうがこちらを見ているような印象になるように描かれている。顔の下には《ビッグ・ブラザーはあなたを見ている》の文字。18世紀にジェレミー・ベンサムが考案したパノプティコンは、ミシェル・フーコーによって権力の象徴として取り上げられる前に、このように可視化されていた。
この視線の下で、ウィンストンは〈真理省〉と呼ばれる役所の〈記録局〉という部局に勤め、記録改訂の仕事に従事している。訂正すべき重要案件がこの世界には多いのだ。オセアニアは今イースタシアと同盟してユーラシアと戦争しているのだが、少し前には戦争相手はイースタシアであったような記憶がある。そんな記憶は間違いだ。また、昨年発表された各種生産物増加の予測は大幅に下回ったが、それなら、そんな予測はなかったのだ。党が今正しいと言っていることは、ずっと正しかったのであり、そうではないという記録や記憶は改変あるいは抹消されなければならない。
それなのにあるとき、ウィンストンは決定的な証拠を目にしてしまう。党の草創期には活躍したが、やがて裏切ったとして処刑された三人の男が、重大な背信行為をしたとされるその日に、別の場所にいたことを示す報道写真だ。それはウィンストン自身の手ですぐに棄却されたのだが、彼の記憶には残ってしまう。この世界は欺瞞に基づいて成立している。そこで内面の自由を保つために、ウィンストンは密かに日記をつけ始める。
用心の上にも用心をしなければならない。監視の目は至るところに光っている。子どもたちは、相変わらず両親の手で育てられているが、親子の情愛より党の〈正義〉を優先するように教育されていて、両親に怪しい言動があった場合には、すぐに密告するまでになっている。
怪しい、と言っても違法行為というわけではない。だいたい、法律なんて、もうない。当人にもよくわからぬうちにであっても、党の正しさに疑問を付したような場合には、〈思想警察〉に捕らえられ、多くの場合、その後どうなったかはわからなくなる。その恐怖こそ、党の統治手段なのだった。
しかしウィンストンと同じ省の〈調査局〉で働くサイムによると、こんなのはほんの序の口なのだ。
彼は文献学者で、『ニュースピーク辞典第十一版』の編集に携わっている。これによって新しい言語・ニュースピークは完成するはずだ。最大のポイントは、新しい単語を作り出すのではなく、むしろ古い言語(現在の英語)を削減するところにある。
この原理は、作者が巻末にわざわざ「付録」をつけて詳述するぐらい力を入れており、優れた考察が示されている。以下では、付録中、日常言語に関する「A語彙群」での例を紹介する。一言で、大雑把に言うと、「必要性」からみた単語の整理統合である。
例えばgood(善/よい)に対してungoodという言葉を発明すれば、bad(悪/わるい)は不要になり、捨てることができる。「とてもいい」はplusgoodと言えばよく、「とてもとてもいい」はdoubleplusgoodと言うことにする。逆に、「とてもよくない」はplusungood、「とてもとてもよくない」はdoubleplusungood。すべての名詞・形容詞にこの接頭辞を適応し、副詞形語尾は一つとする。
これで英語はどれくらい簡便になることか。善悪に関する全概念はたった六語で現わされ、しかも元は一語で、あとはその変化、というか、接頭辞か接尾辞を付け加えて、しかも常に同じ辞で作られるるのだ。
別にいいんじゃない? 簡単で、便利になるんでしょ? とおっしゃいますか。考えてもみよう。この原則では、nice, fine, virtue, vice, evil, wonderful, excellentなどの類義語が削られることが予想される。そのうちにはkind/kindness, beauty/beautiful, cruel/crueltyのような、けっこう違う意味の単語でも、要するに「いいこと/悪いこと」のうちなんだろ、ということで葬られるかも知れない。
【福田恆存の戦いがどうしても心に浮かぶ。例えば、戦後の国語国字改革の流れの中で、「狼狽した」が読めなかった、どうして「あわてた」と書いてくれなかったのか、と思ったなどと言う者がいた。それに対して福田は、「狼狽」の語を使ってはいけないということは、「さすがに狼狽の色は隠せなかつた」という文体の死を意味する。そんなことを要求する権利が誰にあるのか、と批判した。『私の國語教室』所収「陪審員に訴ふ」による】
これによって、複雑な表現はほぼ不可能になる。ならば、まず文学が、次に思想が死滅する。言うまでもなく、人間は言葉によって思考する者だからだ。それはサイムにもよくわかっており、むしろそれこそがニュースピークの本当の狙いなのだ、と誇らかに言う。
ニュースピークの目的は総じて、思考の範囲を狭めることにあるというのが分からないか? 最終的には思想を表現する言葉がなくなるわけだから、従って〈思想犯罪〉を犯すのも文字通り不可能になる。
思想警察や監視なんてことが必要なのは、まだまだ支配が完璧ではない証拠だ、というわけだ。
しかしここには、ウィンストンやサイムが、インテリであるがゆえについ見逃してしまう要素がある。それは人間存在のどうしようもない猥雑さであり、いいかげんさである。
ジュリアという〈創作局〉に勤める若い女性を、ウィンストンは最初嫌う。女としての魅力に溢れていながら、党是を心から信奉し、例えば〈二分間ヘイト〉(党の敵とされた人物への憎悪を集団で示す集会)のときには熱狂的な怒りをスクリーン上の〈人民の敵〉にぶつける。もし自分の内心を知られでもしたら、たちまち密告されてしまうだろう、と思うから。
ところが思いもかけず、彼女から「愛しています」というメモをもらう。罠ではないかと疑いながらも、会ってみると、向こうの気持は本物で、彼らは逢瀬を重ねるようになる。
ジュリアの行動原理は簡単明瞭、人生を楽しむことだ。ウィンストンのように、党のあり方に論理的に疑惑を抱く、なんてことはない。ただ、面白くもないことを押しつけられて、面白いことを禁じられるのは我慢ならない。それでも、正面切って反抗する、なんてしない。最も面白くない結果を招くことは明らかだから。党の目を盗んで楽しいこと、例えば気に入った男と楽しいひとときを過ごすのが一番だわ。
他と同様、享楽も表だって禁じられているわけではない。現にジュリアは、プロレ(←プロレタリアート、実質的には下層民)向けの三流ポルノの制作に携わっている。その程度の性的放縦は許される、いやむしろ推奨されているに近いことは、何しろお役所が作って配布しているところからわかる。売春も、こっそりチマチマやるならOK。労働者階級は全人口の85%に及ぶが、どうせ何もわからず、何もできないのだから、放っておいてもよい、と考えられているのだ。サイムも、「プロレどもは人間じゃない」と言う。
党に属している者たちには、禁欲主義が押しつけられている。もちろんジュリアはそんなものを信じていないし、厳格に守る気もさらさらない。性的なことだけではなく、食物や嗜好品についても。酒も煙草もチョコレートも、配給されるのはすべて不味いまがいものなのだが、彼女はあるとき本物の砂糖やパンやジャムやミルクやコーヒーや紅茶を持ってくる。
どこにあった? 党の内局、つまり幹部連中ならみんな持っていて、自分たちだけで楽しんでいる。どうやって手に入れた? についてははっきりとは説明しないが、たぶん、彼女の性的な魅力を使ったのだろう。お偉いさん達のお楽しみが、食の分野にのみ限定されているとは思えないから。
実際の社会主義国でざらにあったし、今もある党中枢の堕落だ。そもそもこんな快楽は、〈ブルジョワ的〉と呼ばれ、否定されたのではなかったか? しかし、せっかく苦労して革命を成し遂げたのに、ささやかな楽しみさえダメというのは、あんまりではないか? 下の者への示しをつけるためなら、こっそりやればいいのだろう? と言って、どんなにうまく秘匿しようとしても、この〈堕落〉はやがて、例えばジュリアがやったであろうような手段で、外部に漏れ、党の〈正義〉を疑わせ、ひいては体制の崩壊をもたらす。
だから、党の綱紀を引き締めなければならない、などと言うのは簡単だが、実際にうまくいったためしはない。そんなんでは、人生が、少しも面白くないからだ。
この実例として、ウィンストンの結婚生活が描かれる。
妻の名はキャサリンという。すらりとした美人だが、頭はからっぽで、党の言うことしか入っていない。セックスは嫌い、なのに、党は子どもを作れ、と要求するので、週に一度、よほどのことがない限り、ウィンストンを強制して、やる。ウィンストンにとって、他のすべてには我慢できても、これには耐えられなかった。離婚は許されていなかったので、すぐに別居した。
いやなのに、義務としてだけ行うセックス。労苦というよりは拷問に近い。男女の立場が変わっても、同じ事だろう。
【オルダス・ハックスリー「すばらしき新世界」は、「1984」より前の1932年に書かれているのに、試験管ベイビーの発明によって、この問題を理論的に解決している。この世界ではセックスは、まるでスポーツのような、純粋な娯楽になっている。それですべてうまくいくかと言うと……、については、この作品に直接あたってください。】
話は個人的なところでは終わらない。サイムの理想は、すべての人間をキャサリン化することだ。いや、それ以上だ。党が正しいということ以外は、想像もできない、思いつくことさえない人間にしようとするのだから。
人間が快楽を知り、快楽を求める以上、決して完全に実現することはないと思うが、もし実現したら、そこにいるのはもはや人間とは言えない。ロボットだ。
即ち、完璧な支配とは、支配される側をロボット化してその上に君臨することだ。
しかし、そんな支配になんの喜びがあるのだろう? これが、私が以前に述べた「ピグマリオンのジレンマ」である。
作中のラスボスである党の指導者(B・Bよりは下)は、「いかなる瞬間であろうと、そこには勝利の興奮が、無力な敵を踏みにじる愉悦がある」と言うのだが、これは相手が無力ではあっても人間だからではないか。子どもがおもちゃを壊す快楽もあるにはあるが、そんなに長続きするものではない。
それだけではない。完璧な支配が実現したら、支配者、即ち「踏みにじる」側も、人間である必要はなくなる。いやむしろ、そうでなかったら完璧ではない。現に、このラスボス氏も執筆者の一人であるという文書には、こう書いてある。
ヒエラルキー的構造が不変のままであれば、誰が権力を掌握しようが問題ではないのである。
支配―被支配のシステムの作り出すヒエラルキーがあれば、権力者という〈個人〉は、むしろいないほうがいい。これがパノプティコンの要諦なのである(フーコーの言う、「権力の没個人化」)。現に、B・Bという最高指導者は、画像だけで、たぶん実体はこの世にない。
生きている人間も似たようなものだ。ウィンストンが捕らえられ、ラスボス氏と対面して、「あなたも捕まったのか!」と問うと、彼は正体を現し、「捕まったのはずいぶんと昔の話だよ」と言う。これは、彼がシステムにほぼ完全に絡めとられていることを暗示している。
ただ、「ほぼ」であって、完全に「完全」なのではない。「無力な敵を踏みにじる愉悦」に浸る変態性という、かろうじて人間的な部分を残している。彼はウィンストンを、いわゆる人間性へのこだわりを抱いているという意味で、「最後の人間」と呼び、その部分の抹殺を図る。拷問を使って、それには成功するのだが、本当に完全を目指すなら、自分自身がヒエラルキーの最上位というシステムの純粋な一部になりおせなくてはならない。憎しみも、変態的な喜びも、感情はすべて、余計な夾雑物なのだ。
ところで、支配がこんなものだとしたら、古今東西繰り返された血みどろの権力闘争はなんのためか、そんなつまらない地位を得て、維持するために、どうしてそんなに人を殺さねばならなかったのか、と疑問が生じるかも知れない。
その理由は、既に15世紀、シェイクスピアが「マクベス」や「リチャード三世」で余すところなく描いている。一度「やるかやられるか」の闘争の世界に入ったら、もう止まることはできなくなる。止まれば、弱気を見せたとみなされ、やられるからだ。実際はどうでも、自己の恐怖心からは逃れられない。何より、自分が今まで、反対側で、さんざんやってきたことなのだから。
恐怖そのものは人間的な感情だと言える。しかし、まちがいなく惨めなものだろう。このため、時代が下るに従って、殺人も圧迫も、強制収容所(≒パノプティコン)などを使ったシステマティックなものになっていった。「1984」では〈愛情省〉という役所がそれだ。
もっと大きな矛盾がある。闘争を止めるためには、ホッブスが「リヴァイアサン」で説いたように、大きな力による支配が必要になるところ。権力を完全に否定することはできない。「1984」の世界はすぐ隣にある。人間世界に、「正/不正」(good/ungood?)の概念しかないなら、だが。
元に戻って、支配システムの本当の怖さを、オーウェルは支配する側として体験していた。彼の数あるエッセイの中でも特に名高い「象を撃つ」は、極めて簡潔に、これを伝えている。
1920年代前半、オーウェルはイギリスの植民地だったビルマで警官をしていた。「南(ロワー)ビルマのモールメインでは、私はたくさんの人々に憎まれていた――たくさんの人々に憎まれるほど重要な存在となったことは、私の生涯でこの時だけである」。まずこのアイロニーに満ちた書き出し、doubleplusgoodですな。
話はいたって単純で、どこからか逃げ出した象が市場であばれているので、なんとかしてくれないか、という依頼を受けたオーウェルが、古いウィンチェスター銃を持って現場に赴き、この象を撃ち殺す。以上。
問題はこの過程での彼の心理にある。オーウェルは象を殺したくなどなかったのだし、その必要もなかった。最初のうちこそ暴れまくって、店を壊し、人も一人ふんずけて死なせていたが、彼が着いたときにはもう弱っていて、危険はなかった。象の持ち主が来るのを待って、引き渡せばよかった。
しかし、この一番簡単なことができなかった。なぜなら、少なくとも二千人はいる野次馬のビルマ人のうち、誰一人それを望んでいなかったからだ。
この時私は悟った。白人が暴君と化すとき、彼は自らの自由を破壊するのだと。彼は、見せかけだけの、ポーズをとったかかし(ダミー)の一種、型にはまった旦那(サーヒブ)となってしまう。なぜなら、白人が「土民たち」を感服させようと努めながら一生を費やすことこそ、白人支配の条件であり、それゆえ重大な場面ではつねに、白人は「土民たち」の期待に応えるようにふるまわねばならないからである。彼は仮面をかぶる。すると、しだいに顔のほうが仮面に合うようになってくる。
この事件の前から、オーウェルは帝国主義はまちがっているという確信を抱くようになっており、一日も早く仕事を辞めてイギリスへ帰ろうと考えている。心情的には、ビルマ人の味方だった。しかし、そんなのは問題ではない。彼は支配者としてそこにいる。実態は支配機構の端くれなのだが、そうであればなおのこと、支配者として相応しく振る舞わねばならない。そうでなければ、彼の存在価値は、ゼロというよりマイナスになってしまう。
冒頭の一文にあったように、支配者はこの国の人々に嫌われている。そりゃ、力で無理矢理支配しているんだから、当然だ。支配者らしい振る舞いをすれば、一時は「感服させ」られても、結局はますます嫌われるだろう。そうかと言って、相応しくない振る舞いをするなら、そこに「変な、だらしない奴」という軽蔑がつけ加わるだけなのだ。支配―被支配のシステムの外へ出ることは決して出来ない。これがオーウェルの実感した「帝国主義の本性――専制政府を動かしている真の動機」なのだった。
植民地から収奪する富は大きいに違いない。しかしそれも所詮は抽象物で、支配者と被支配者が顔をつき合わせている具体的な場では口実以上の意味はない。儲ける奴は他所にいるのだから、「具体的な場」にいるのは双方とも犠牲者だ、というのも、そのレベルの正しさだ。そういうものは個人の究極的な支えにはならない。ウィンストンは「1984」の最後に、それをとことん思い知らされる。
「希望があるとするならば……それはプロレたちの中にある」とウィンストンは秘密の日記に書く。それは正しいのだが、やっぱり少し方向がズレている。現在の党の支配は欺瞞に満ちた不当なものであり、やがてはそれに気づいた大衆の手で打倒されるだろう、というお馴染みの希望がそれで、そういうことは、絶無ではないにしろ、めったに起こらないものだ。ボルシェヴィキでも中国共産党でも、民衆そのものとも、民衆の代表とも、すんなりとは呼べないでしょう? ここをよく見定めないから、各国の革命運動は成功してもしなくても、おかしなことになってしまうのだし、「1984」はその事態の究極を描いているのである。
最大のポイントはやはり言語の統制だ。本当にそれができるだろうか? プロレたちは、貧しくてもそれなりに生き生きと生きていることは少しだが描写されている。もちろんそこには淫行もあれば犯罪的なこともあるだろうが、それをも含めて。
日常言語とは、我々庶民が生活の中で抱く、あまりにも種々雑多で、完全にはまとめようもとらえようもない感情の表象なのだ。そこで、古いとか、めんどうくさいとか、なんとなく気分にそぐわないとか、誰にもよくはわからない理由で使われなくなる言葉がある。一方、狭い共同体や、若者階層でのみ流通する言葉があって、後者は今はSNSのおかげですぐに全国的に広まる。それを使えば、いわゆる大人とは一線を画した若者の世界ができるような気がするので、あるものは一時期好んで使われ、大人たちは「言葉の乱れ」に眉をしかめる。
私も眉をしかめる側だが、こういうものを完全になくすことなどできないぐらいは知っている。いいも悪いもない。人間が生きている限り、自然に歳をとるように、自然に変わるというだけの話だ。そしてこの「自然」が完全に破壊されないなら、どのように整備されたシステムも、内部から相対化され、揺らいでいくことは免れない。人間の生活実感は、必ずシステムをはみ出してしまう、と言ってもよい。
ただし、これだけだったら人の世は完全な無秩序状態になってしまうので、箍(≒システム)をはめるための権力が必要になる、というところで話はくるくる回ってしまい、決着はつかない。それでも、元来、正義も、法も、人間が生きて行くために必要とされるのだ。今後どのような世の中になろうと、この基本だけは忘れてはならないと思う。
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