由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

近代という隘路Ⅱ その3(大陸へ)

2021年07月31日 | 近現代史

The Boxer Rebellion by Cecil Doughty

メインテキスト:波多野澄雄編著『日本外交の150年【幕末・維新から平成まで】』(日本外交協会令和元年)

 20世紀初頭、日本ガ進出した「世界」は、どのような秩序の、正確に言うとどのような秩序が構築されようとしている場所だったのか、もう少し確認しておきたい。

 国際平和秩序模索の動きは19世紀から始まっていた。それはヨーロッパが、ナポレオン戦争(1792~1805)、クリミア戦争(1853~56)、普墺戦争(1866)、普仏戦争(1870~71)、露土戦争(1877~76)と、特に後半、ヨーロッパの大国同士の戦争が相次いだからだ。その戦後処理のための国際会議も、ウィーン会議(1815)、パリ会議(1856)、ベルリン会議(1885)などがあって、国際法が整備されていった。
 しかしそれにもまして、兵器も進歩し、被害の数も度合いも増え、それは第一次世界大戦の全体戦争で極点を迎えた、と思ったら、第二次世界大戦から振り返ると、それもほんの序曲みたいなものだったことがわかってしまった。このような悲惨な歴史の流れを背景にして、個々別の紛争解決を超えた、「恒久平和」への希求も具体化してきた。

 のっけに、素人の、庶民の強みを発揮して簡単に言ってしまうと、ウェストファリア条約(1648年)以来国際法の基底となった主権国家(国内で何をするかの決定権はその国にある)がある限り、「武力を伴う国際紛争」=戦争の可能性は決してなくならない。マックス・ウェーバーの国家の定義「ある一定の領域の内部で正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体」(「職業としての政治」)を思い出していただいてもよい。国家とは、暴力の管理のために正当化された暴力を行使できる唯一の機関なのである。そして誰もが知るように、何が「正当な暴力」か、知ることはいつも難しい。
 平和を保つためには、人々の不断の努力が必要だ、ということである。何かの国際的な条約が結ばれたらそれがゴールなのではなく、むしろ出発点と考えるべきなのであろう。意地悪く見れば、多くの場合、決め事の裏をかいて相手を出し抜くつもりで、条約などを作る、ようにも見える。それをも含めて、我々は平和へのlong and winding roadの途上にある。絶望に陥らないためには、そう思うしかない。

 希求の具体化の最初は、1864年のジュネーブ条約で、正式には「傷病者の状態改善に関する第一回赤十字条約」。その名の示す通り赤十字社の創設者アンリ・デュナンらの呼びかけで十六ヵ国が参加して審議・採択された、戦場での傷病者救護を目的としている。日本は1886年加入。その後第二次世界大戦を経た1949年に大改訂されてジュネーブ四協定となり、さらに1977年に追加議定書ができて、現在に至るまで最も重要な戦争に関する国際法規になっている。

 次に、二度にわたってオランダのハーグで開かれた平和会議がある。第一回は1899年、ロシア皇帝ニコライ二世の呼びかけでヨーロッパ以外だと日本、清、メキシコ、イラン、タイなど二十六ヵ国が参加した。二回目は1907年に、米大統領セオドア・ルーズベルトの提唱で四十四ヵ国が参加。
 8年の間隔があるのは、この間に日清戦争があったからで。その間に主催者が皇帝から共和国大統領に代わったのも、時の流れをよく示しているといえるだろう。周知のように1917年にはロマノフ王朝自体が消滅してしまっていた。
 また、第一回から第二回間の、参加国の一・七倍増は、各国の民族・国家意識の急激な高まりを示している。それがまた、7年後の、第一次世界大戦の遠因になったのだが。
 会議そのものの成果としては、ハーグ陸戦条約と呼ばれているものが最も有名。開戦と休戦の規定、捕虜を含めた非戦闘員の保護、非人道的な兵器の使用禁止、などなど、戦争に関する全般的なルール作りである。言い換えれば、「戦争だからと言って何をしてもいいってもんじゃないよ」を、傷病者以外にまで広げた試みだった。
 その後前記ジュネーブ条約などとの摺り合わせによって何度か改定されたが、ここで引かれた基本線は今も失われていない。まして20世紀前半では、戦争に関する最高の権威だった。

 最後に、1928年のパリ不戦条約に触れないわけにはいかないだろう。正式には「戦争抛棄に関する条約」で、成立の中心になって働いた米国務長官ケロッグと、仏外相ブリアン名を取って「ケロッグ=ブリアン条約」とも呼ばれ、米仏独に日本など、最終的には七十八カ国が参加した。その第一条に曰く、

締約国は国際紛争解決の為戦争に訴ふることを非とし且其の相互関係に於て国家の政策の手段としての戦争を抛棄することを其の各自の人民の名に於て厳粛に宣言す(カタカナをひらがなに改めた)

 どこかで見たような気がするだろう。そう、この文言は日本国憲法第九条第一項に取り入れられている。「国際紛争解決」の手段としての戦争を放棄したのは日本だけではなく、他に少なくとも七十七カ国ある、ということだ。
 しかし、誰でも知っているように、これで国際社会の現実がどうにかなったわけではない。条約上の問題に限っても、これは自衛のための戦争まで禁じているわけではない、と理解されている。何よりの証拠には、条約原文を作成した米国が、以下のような公開公文を関係各国に送っている。

 不戦条約の米国案は、いかなる形においても自衛権を制限しまたは棄損する何ものも含むものではない。この権利は各主権国家に固有のものであり、すべての条約に暗黙に含まれている。各国は、いかなる場合にも、また条約の規定に関係なく、自国の領土を攻撃または侵入から守る自由をもち、また事態が自衛のための戦争に訴えることを必要とするか否かを独自に決定する権限をもつ。(有斐閣刊『国際条約集』から引用)

 主権国家は、自国防衛のために戦争に訴える権利があり、またどういう事態が防衛戦争を必要とするかも、独自に判断できる。と、すれば、結局なんでもできる、ということではないか? と思えるだろう。実際、この11年後には第二次世界大戦が起きている。この「主権」が多少とも制限されるようになったのは、さらにその後のことになる。

 繰り返すことになるが、私は、どうにもならなかったし、なりそうにもなかった現実があるからと言って、これら平和を求める努力を無駄だと言っているのでない。
 理想を忘れない、というだけではなく、実際問題としても。マズローの「欲望の三段階」などを持ち出すまでもなく、人間は、まず自己の安全を、次には利益を、最後には名誉を求める者だ。国家を統べる立場にある者は、これに従わざるを得ない。自国の利益を犠牲にしてまで、まして安全を犠牲にしてまで、エエカッコしいをすることは国民が許さないが、その国民もまた、前者二つがまずまずなら、「自分たちは正しい」と思いたがる者だ。
 その正しさの基準となる条文があり(そう認めたから署名したんでしょ?)、国際連盟(これは前回述べた米国大統領ウィルソンの理念を土台としている。1919年設立)という国の行動の正否を話し合う場もできた。裏を返せば、他国を非難する基準と場ができた、ということであり、それがまた新たな対立抗争を招くのも事実ではあるのだが、それを差し引いても、あったほうがいい。

 第一回ハーグ平和会議の少し前から、日本は国際社会で大国として遇されていた。日清戦争(1894~95)に勝利したことで、実力が認められたのだ。
 明治35年(1902)には日英同盟が締結された。「名誉ある孤立」を保ち、前記三条約を初めどんな国際条約も結ばずに来た大英帝国が、よりにもよって極東の島国と同盟を組んだのだ。
 理由ははっきりしていて、ロシアの脅威だ。クリミア戦争でやっとのことで西側への進出を抑えたと思ったら、この北の帝国は、今度はアジア方面への野心をむき出しにし始めた。チャイナ(当時は清)には英国の利権はあるが、そこまではとても手が回らない。そこで日本に牽制を求めた。
 もっと意地悪く、英国は最初から、ロシアと日本を戦わせるつもりだったのだという見方は、当時からある。同盟のキモは、①チャイナと朝鮮における日英双方の権益は尊重する②一方の国が交戦する時は他方は中立を守る、そこへ第三国が参戦した場合には、援助のために参戦する、だった。②からすると、日露戦争で、例えばロシアと同盟関係にあるフランスが向こうの味方をした場合には、我々が引き受けよう、だから安心して、やって、と言っているように見えないこともない。
 この同盟は日露戦争講和会議中の1905年に第二回が締結され、そこではイギリスは、韓国での日本の大きな権益や、保護・指導の権利を認め、5年後の日韓併合の後押しをしているようなのは、いってみればご褒美だったろうか。しかしその結果、大陸での日本の存在感が大きくなることには、英国としては警戒心を抱かずにはいられなかった。このような微妙な、潜在的なものを含めた勢力争いは、この時代の国際関係では、いわば基調であった。

 そしてアメリカ。この新たな大国がアジアに本格的に姿を現すのは、1898年に米西戦争に勝ってフィリピンを領有し、同年ハワイを併合してからだった。
 1899年、チャイナ(当時は清)に対する門戸開放通牒を英独露仏伊日の六ヵ国に送り付け、1900年に義和団事件が起きると、今度は十一か国に向けて、「第二次門戸開放通牒」を出した。後者では、①清の領土的、行政的一体性の保全②条約および國際法によって友好的諸外国に保証されたすべての権利の保護③清のすべての地方との平等かつ公平な貿易原則の擁護、が要求されている。
 ①は領土保全、②は門戸開放、③は機会均等の原則、と呼ばれ、ほぼそのままワシントン会議の九ヵ国条約(1922年)にまで引き継がれた。しかし、チャイナ(清は1912年に滅んで、この時は中華民国)に関するこれらの原則は、例えば前記第二回日英同盟にも見え、米国が急に言い出したことではない。しかし、言葉は同じでも、状況によって具体的な意味が変わってくるのが外交文書というものだ。
 文字通り、清に対する人道的配慮から、なんてことがあるわけはない。広大なチャイナがマーケットとして魅力的であることは今と変わらないし、当時は、生産に関する技術革新も未熟で、大規模生産のために多くの労働力と広い土地の必要となる度合いは、現在よりはるかに高かった。ここまでは、レーニンの「帝国主義論」の分析がほぼそのまま当て嵌まる。
 しかし、その結果発展した「帝国」同士の植民地争奪戦になるかというと、もう明らさまに軍隊を出して、ということはやりづらくなっていた。チャイナは地球上で最後に残った、誰のものとも完全には定まっていない、魅力的な土地だった。現に各国がそれぞれ租借地や租界の形で多くの権益を得ており、そこを独占しようなんぞとすれば、よってたかって袋叩きにされるだろう。この後日本はそうなったように。
 それに第一、西欧諸国は、長年の経験から、植民地経営は軍事的なコストとリスクが高くつき過ぎて、そんなに得策ではないことも自覚し始めていた。と言って、戦争に負けたわけでもないのに、「自分のもの」である植民地をただ手放すなんてことできなかったのだが、チャイナに関しては、支那人の主権は一応認めた上で、経済的に支配したほうがいい、という現在中華人民共和国を含めた先進国が地球のあちこちでやっているやり口に代わりつつあった。ただ、20世紀初頭ではまだ、チャイナ限定の、新たな試みだった。
 例えば前出の米西戦争で、米国は、割合に古くからあるこんなやり口をしている。スペイン帝国黄金期のフィリペ二世から名付けられたフィリピンを奪う際に、現地の義勇軍に独立を約束してスペイン軍を背後から襲わせておいて、スペインを追い出すことに成功した後では、約束を反故にして、代りの支配者となった。その後の米比戦争は長く続き、民間人だけでも百万人からの犠牲者が出たと言われる。米国からすれば、アジア進出への橋頭堡として、フィリピン諸島は是非とも必要、と感じられたのだ。

 義和団事件の時には、米比戦争は継続中だった。その米国が清の領土保全を各国に呼び掛けている。
 この時は、チャイナの歴史上よくある宗教団体の反乱を、清当局が利用して、チャイナから列強の勢力を追い出そうと画策した。清は現に宣戦布告しているのだから、立派な戦争である。列強側は、八カ国連合軍を出してこれを鎮圧。そうなればチャイナの分割統治にまで至るのは、当時としてはむしろ自然な流れだったが、米国としてはそれはあまり面白くなかった。
 当時フィリピンには大規模な米軍が駐留していて、だから対支八カ国連合軍にも迅速に参加できたのだが、日本やロシアに比較して大兵力を裂くまでの余裕はなかった。それにまた、この地の権益をめぐる権力ゲームに新たに参加した米国には、既得権益もあまりなかった。チャイナを分割しても、それほど大きな取り分は期待できなかったのである。
 そこで、清の主権は一応保存、と言っても、多額の賠償金を請求され、各地に外国軍隊の駐留まで認めさせられたのだから、半植民地状態ではあったが、特定の宗主国はない。そのうえで、貿易や租借地(一定地域を好きなように使い、そこからの儲けはほとんど自分のものにできる)、などの経済侵略は、あまり過去には囚われず、各国平等にやっていこう。平たく言うと、「美味しいところは独り占めしないで、みんなで分け合っていただきましょうよ」と、提案ではなく、一方的に通告したのだった。
 八カ国中どの国も、表だってこれに反対することはなかった。しかしロシア軍は、しばらく満州でぐずぐずしていて、あまつさえ清と独自条約を結ぼうとした。ロシアに満州を実質的に支配されたら、次は朝鮮が狙われると恐れた日本ガ必死で抗議したが、埒が明かず、英米がハーグ陸戦条約から見て問題であると非難して、翌年ようやく引き上げた。
 こういうところから英国もロシアに警戒感を強め、前述したように日英同盟の締結に至る。この時期には日本はまだ、「帝国主義クラブ」に入りたての初々しい新人で、英国の要請に応じて義和団平定のために最大の軍を出して尽力し、それでいて賠償金では少ない取り分で満足していた。しかし、どのような高邁な理想が掲げられようと、国際社会とは所詮は力が最終決定を下す場だということは学ばざるを得なかったろう。ただ、それでもなお理想には無視できない力があることまで十分に学んだかどうか、後からの上目線で恐縮ですが、些か疑問ではあります。

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2 コメント

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日本が大陸進出をした背景 (T.K.)
2021-08-01 18:05:23
20世紀初頭に日本が大陸進出をした背景に、ロシアの脅威があったことは間違いないところでしょう。
このロシアの動きをよくみると、
・1858愛琿条約でアムール側左岸奪い、1860年火事場泥棒のように沿海州手に入れ、アムール左岸の領有を確定。そこに住んでいた清国人を大虐殺
・1896露清密約で清国内に鉄道建設できるようになり、1903年シベリア鉄道の東端チタ~東清鉄道本線のつながりができた。
・1900年の義和団事件の時(この時英国はボーア戦争に忙殺)、日本の柴五郎中佐の活躍がめざましく、北京籠城組の指導者が英公使であったこともあり、ここで日本が国際的に信頼され、2年後の日英同盟に繋がった要因と思われる。
・その同盟の直後、ロシアは満州還付条約を結ぶも、変節して居座る。
その背景は、穏健派のウィッテ、ラムスドルフ、クロパトキンに代り、強硬派が政権を握ったこと、またトルコに関心を寄せていたドイツ皇帝ヴィルヘルム2世がロシアの目を極東に向けさせるため、黄禍論をとなえてけしかけた、という説もある。
こうした中で日本では七博士建白事件などもあり、開戦には慎重だった伊藤博文も開戦やむなしとの判断 → 1904年日露戦争
この時のロシア皇帝ニコライ2世は、皇太子時代にあの大津事件で襲撃を受けている。ニコライ2世が日本人を蔑視していなければ日露戦争は起こらなかったと述懐しているロジア人もいたそうだが、感情的側面がどう働いたかはよくわからない。
この日本の勝利で鉄道の権利を獲て、その鉄道を守るという名目で軍隊を駐留(関東軍)。
やがてこれが張作霖爆殺(1911)、対華21か条要求(1915)、満州事変(1931)、満州国建国(1932)へとつながる。
世界恐慌の影響もあって、「満蒙は日本の生命線」という論調に。
国を守るため、という意識がいつしか、他国の権益を犯すことになっても仕方ない、という意識に変わっていますね。
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T.K.様へ (由紀草一)
2021-08-01 22:25:11
 懇切なコメント、どうもありがとうございました。
 歴史はすべてそうでしょうが、特に近代史になると、範囲も規模も大きくなるので、幾筋もの糸が絡み合って、一貫した筋を見出すのは難しいですね。黄禍論も、ロシアの脅威も、大きい要素には違いないですが、単独では20世紀日本の歴史を描くことはできない。これらにちゃんと目配せして、適当に按配して、物語=歴史にまとめあげるのは大歴史家の仕事です。私は、まあ、一介の素人に過ぎませんので、「平和への長い曲がりくねった道」と、「遅れてきた帝国日本の悲劇」を二つの柱として、この貧弱な頭に残ったお話しを語ろうと思います。それだって、充分大きすぎるテーマで、どこまでできますやら、不安ですが、楽しみのほうが大きいです。
 今後ともご教導を宜しくお願いします。
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