薄暗い部屋の中にケイは胡座をかいて座っていた。二〇年ぶりぐらいで、お互いにずいぶん変わったろう。しかし思い返してみれば、私は彼の顔などほとんど忘れていたのだ。しかし、これはケイだ。それが証拠に、昔通り、いきなり妙なことを言い出した。
「それじゃ、意識について話そうか」
まあそんなようなことを、以前に彼の口から聞いたか、彼が書いたものを読んだような気がする。
「それはまず、自己意識のことだとしよう。いいかな?」
とりあえず、頷くしかない。
「君は今外からこの部屋へ入って、中にいる俺を見た。そして俺の話すのを聞いている。世界は君にとって、そういうものとして、ある。つまり、君の意識にとっては、ということだ。こういうこと以外に、君が世界を知ることはできない。それはそうだが、しかし、それは本当にそうだろうか。部屋があって、俺がいる。それは本当にあることか、それとも君がそう思っているだけか。確かめる手段はあるのかね」
またはじまった、と私は苦笑するしかなかった。しかし、彼の前にいるのだから、一応話は聴こうじゃないかと思って、腰を下ろした。その合図は伝わったものかどうか、ケイは昔のように、委細かまわず話し続けた。
「あらゆることも、ものも、疑うことができる。しかし、それだけは確かだとすれば、〈あらゆるものは疑える〉と疑っている自分がいなくてはならない。もしそれをも疑わしいと言うなら、〈あらゆるものは疑える〉こと自体が疑わしいことになるからだ。こうして〈自分〉は定立される」
面白いか、そんな言葉の堂々巡り? と思っていると、
「面白くないよな」ケイは言った。
「え?」本当に驚いた。あまりにもタイミングがよすぎたから。心を読まれたか、と本当に思ってしまった。
「わかってるよ。そんなの、なんの証明にもなってない、と言いたいのだろう?」
そんなこと、言いたくなかった。でも、本当にそうか? その時の思いを詰めてみると、そういうことになるのではないだろうか? はっきりとはわからない。
なんてこともまた、しばらくしてから思ったことだ。その時は少し呆然として、特に何かを考えてもいなかったと思う。その状態の頭の中に、ケイの言葉が流れ込んできて、流れ去った。
「〈自分〉つまり〈自分という意識〉の側から〈自分はあるかどうか〉と問えば、いわゆる自縄自縛で、堂々巡りを繰り返すに決まっている。それではどうするか。ひとつ、視点、というか、出発点を変えてみたらどうだろう」
「出発点?」
私はいわゆるオウム返しで言った。これでも対話のようになる。対話するコンピューターの得意技だ。つまり、意識のない相手とでも、ある程度なら対話をした、つもりにはなれるんだ。これも後で思いついた。
現にケイは大きく頷いた。
「うん。意識はどうして生じたか、その起源に遡ってみるんだ」
私は黙って彼の顔を見つめていた。これでも対話している気になれる。こればかりはまだコンピューターにはできない。生きている人間の得意技だ。
「今地球上に存在している生物は、まあ一日に何百種か絶滅しているという話があるが、種としては何千年かは生き延びているはずなんだから、それだけの特性を備えているはずなんだな。……そうだ」
私は相変わらずなんの反応もしなかったのだが、ケイの頭の中では私が「特性って?」とでも呟いた感じになったのだろう。この場をビデオにでも収めればそれはモノとして〈客観的に〉残るのだろうが、それとは相対的に独立して、ケイの主観は残る。まあ、忘れるまでは。
「敵から身を守るための甲羅とか、敵を倒すための牙とか爪とかだな。敵というのはこの場合、自分の生存を脅かすものだ。いや、これちょっと早すぎたかな」
ケイは今は私の頭の上の宙を眺めていた。自分の考えに没入して、私の存在は忘れたか? それとも、眼と、頭の片隅には残っていたか。わからない。忘れられたか片隅に追いやられたかした〈私〉とは何か。わからないまま、ケイの言葉だけは聞こえていた。
「ええと、生命の誕生は、究極的には謎なんだが、だいたいはこうだったかな。約三十五億年前、化学反応によって海中に、まあその元は隕石によって宇宙からもたらされたという話もあるけど、ともかくアミノ酸が産まれ、タンパク質を合成し、簡単に分解されないように細胞膜も作られた。その中で、自己複製能力があるRNAが形成されて、分裂によって増殖していった。これが最初の生命と考えてよい。
ところで、とても脆いものであっても、細胞膜ができたのなら、膜の〈中〉と〈外〉ができたと言うことだ。そして分裂するんだから元は一つだったとしても、それぞれが別の膜を持つRNAが複数できたということだ。そのそれぞれが〈内側〉を持つ。そのとき自・他の区別がすでにあった、ということになる。こうして〈自分〉はできた。あ、もちろん、〈自己意識〉はまだだろうが。
その後、より複雑で高度な分裂・再生ができる二重螺旋構造のDNAが生まれ、その他、生物を形成するのに必要なすべてを収納する〈核〉が生まれ、いくつかの細胞が結合して、生殖なら生殖、呼吸なら呼吸を担う部分部分を統合した大きな〈肉体〉と呼ばれるものになった。なんのためだ? 激変する地球環境の中で生き延びるためだ。とりあえず、海の中を、次には陸上を自由に移動できる能力は、その場の環境が悪化してもよそに行けるから、絶滅は免れる。そういう具合に」
「生物は遺伝子の乗り物、ってやつかい?」私はやっと言うことができた。
ケイはびっくりしたように私を見た。「まあ、そう、だ」
「悪いけど、そこで、意識、じゃなくて意志か、みたいなものを想定するのは順番が違うみたいだよ。遺伝子が、そうなろうと思って、そういう進化を遂げたんじゃない。さまざまな形態が生まれて、そのほとんどが死滅して、生き延びる能力を備えたものが生き延びた。そういう能力は何十億年もの時間の中で、奇蹟のような確率で生じたのかも知れないが、何しろ偶然だ。偶然をあとから振り返ったら、必然のように見えるんだ」
「と、そう思っているのは君だ。そうだろ?」ケイはしたり顔で言った。やはりそうきたか。
「そうだが、それでどうなるんだい? 今君が言っている意識というのは、遺伝子に〈生き延びようとする盲目の意思〉かな、それがあったとしても、そういうものとはまるで違うもののはずだ」
「そう急いじゃいかん。まず、君にそう言わせている〈意識〉だな。それがなんの役に立つのか、を考えようじゃないか」
「役に立つって、ええと、私の中にもある遺伝子が生き延びるために、かい?」
「そうだ」
「立ってるんじゃないかな。世界の人口は、一八〇〇年頃に一億人に達し、その後爆発的に増加して、近年八十億人に達したようだ。乗り物がたくさん増えるのは、まあいいことに違いないから。これは、一八世紀の産業革命からこっち、人間の生活が豊かになったからだ。すべての産業や、医療の発達は、人間の意識がなかったら考えられないものだ」
「そうだな。それは人間が、悪環境から逃げ出すだけじゃなく、自分たちを取り巻く自然環境を〈外部〉とみなして、それを人間の存在にとって有利なものに変えるということだ。もちろん小規模なら他の動物もやる。鳥が巣を作ったり、ビーバーが川の流れを一部堰き止めたり。しかし人間が道具を使ってやることは比較を絶して大規模で、徹底している。それはまちがいなく、意識の中でも知性と呼ばれるものの働きだ。それだけなら、〈生き延びる〉という遺伝子の目的、ああ、少なくとも後からはそう見えるもの、に適合していると言える。しかし、そうではない働きも意識はする」
「そりゃそうだ。遺伝子が生き延びるために生活し、活動しようなんて思っている人はいない。個々人が幸福になりたくてやるんだ。自分一個の都合で子どもを作らないで死ぬ場合もある」
「自殺したり、それどころか、自分勝手な理由で他の個体を殺して、つまり他の個体が子孫を残すことを妨げたりするな。みんな自己意識の働きだ。こういう話の大本になっている感じの〈利己的な遺伝子〉から考えて、不合理極まりない。それはどうしてだ?」
私は一応反論になりそうなことを頭の中から掘り出した。
「それほど大事じゃないさ。確かに個々の生物という乗り物がたくさんあるのはいいことだとさっき言ったが、ここまで増えたら、個々のモノの重要性は相対的に下がるだろう。だいたい、君を形成して、今も君の中にある遺伝子とは、君のオリジナルじゃない。そうだったら、〈遺伝子の乗り物〉なんて発想も出てこない。個々のRNAにまで分解したら、それは生命誕生の時点まで遡ることができるかも知れない。それにしても、自分をコピーし、様々に結合したり変異したりを繰り返して、多くの人の中にばら撒かれている。人口が半分ぐらいにでもなれば、それは遺伝子にとっても一大事かも知れないが、君一人が子孫を残さないとしても、どうってことはない。
それにね、遺伝子が我々のすべてというわけじゃない。もうずいぶん前から研究されているみたいじゃないか。一卵性双生児は遺伝子情報は同一だ。しかし、成長の過程で、けっこう違いが出てきて、親なら確実に見分けられるようになる。まあだいたいは、せいぜい六〇パーセントぐらいが生得的に決まっていて、あとは生後に、固有の環境によって得られる特徴になるようだ。だから、指紋は別になる。それより何より、遺伝子は同じでも、双子の兄弟同士はやっぱり別の人間で、それぞれ別の自己意識を持っている。遺伝子は人間の体を作り出す材料と、設計図を提供するかも知れないが、できあがる生物そのものではないんだよ」
ケイは声を上げて笑った。
「遺伝子から見たら、勝手に行動できる動物は、特に人間なんてのは、発達しすぎて制御しきれない乗り物、ということになるのかな。しかし、今はその人間が、遺伝子を組み換えて、新しい生物を作ろうとしている。もちろん、それは神の領域に手を出すことだ、なんて反対する声もある。それも無理はない。人間が作った乗り物の扱いをまちがって、暴走して、事故が起きる、なんてのはよくある話だけど、人間の意識そのものは、生命の存続から見て、あまりに逸脱し過ぎているようだからな」
「それも、そう思い込んでいるだけかも知れないんだ。私がさっき言った知識は、ごく浅い、いい加減なものだが、最先端でも、自然についてごく一部を単純化したモデルを作って、それですべてを理解したつもりになっているだけかも知れないんだ。極端な話、すべてが幻だということだってあり得る」
「それにしてもだ、自分のルーツを求めて、観察して、実験して、考えて、それについての、たとえモデルでも、イメージでも、作ってしまうのはすごいことだ。例えば自動車は、将来完全な自動運転ができるようになったしても、〈運転する自分とは何か〉なんて決して考えないだろう」
「〈考える葦〉か。しかしこの葦は、まず自分の弱さ、不完全さを見つめ、考えるもんだよ」
「それもまた幻ではない、とどうして言える?」
幻。その言葉が頭の中で鳴り響くような気がした。最初に自分がそう言ったのだ。が、本当にそうか?
「知ってるかい、分かる、という言葉の語源は〈分ける〉なんだそうだ。上と下、前と後、明と暗、内と外、有と無、知と無知、という具合に世界を分けていって、ついには〈分かること〉と〈分からないこと〉も区分してしまった。意識の、知の方向として、それしかなかったようだ。しかしそれは、遺伝子というのか、〈生命そのもの〉から見て正しい方向だったのかどうか。むしろ、最大の迷妄だったのじゃないか。今の知の範囲だと、生命なるものもまた、極めて稀な、例外的な現象だとしても、惑星の運行と同じような、特に意味のない事態に過ぎない。でも、実際はこうじゃないか。この宇宙に意味を作り出す、それが生命の本当の目的で、我々は今、その前で、子供のようにただ恐れて、途方に暮れて佇んでいるんだ」
そろそろ目を覚ますべき時だ。内部の何かが呟くと同時に、ケイの姿は消えて、いつもの自分の部屋のいつもの景色が見えてきた。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます