Witenagemot, scene in the Illustrated Old English Hexateuch (11th century)
小柄で紙のように白い顔の老人は、小さな部屋の壁際に置かれた机の前にちょこんと座っていた。机にはパソコンが一つと、プリンター。反対側の壁際にはベッド。木の丸椅子が一つ。紙くずが下から半分ほど溜まった屑籠。その他に目立つ調度品は何もなかった。部屋は一応清潔だが、かすかに老人特有の饐えたような匂いがした。
入って来た二人を見ると、老人はマスクなしのむき出しの口をもぞもぞ動かして、話し出した。
「来たな。まあ、座るがいい。ベッドに腰をおろしてもいいぞ。雑誌記者か。ここまでたどり着いた眼力と根気は褒めてやろう。で、何が訊きたい? 今起きている本当のこと、か? コロナ禍という、現存する人間がほとんど経験したことのない事態のおかげで、世界中が混乱し、そのためにかえって、今まで隠されていた真実が顔を出したのではないか、とな。笑わせてくれるわ。そんなものが簡単にわかるわけはなかろう。わかるなら、それはつまり大したことのない話、という証拠なんで、それだけで、お前がたが知っているような、重要な話、とやらは、みんな作りごと、と思っていい。大抵の人間は、善悪がはっきりしている、単純な話が好きじゃからな。騙そうと思ったら簡単じゃ。むしろ、『俺はダマされたいんだ。どうかうまくダマしてくれ』と言っているのも同様、と儂からは見えるぞ。昔との違いと言えば、どんな他愛のないフィクションでも、インターネットの、SNSのおかげで、はるかに広い範囲に、瞬く間に広まるところじゃ。すると、この手の話にも影響力があるように見える、すると、本当に影響力を持ち出すんじゃ」
「目下のところ盛り上がっている話題は何かな? 例えば、ヒキ・ゲエルか。IT世界の最終的勝利者、世界で三番目か四番目の金持ち。企業経営の第一線を退いてからは、欧米ではよくある話じゃが、福祉事業を手がけておる。その慈善事業が、主に、開発途上国へのワクチン供給なもんじゃから、コロナのおかげで、ワクチンの存在感がかつてなく大きくなるにつれて、より多くの興味を惹くようになったんじゃな。すると、実は彼の真意は、ウィルスとワクチンの二つの手段で、人口削減、つまり人間を大量に殺し、かつ生き残った人間を支配することにあるのだ、などという話も出てくる。これについて解説しようか」
「この話の大本ははっきりしとる。10年ほど前の、ゲエルの講演じゃ。今でもネット上で見ることができる。この中で彼は、地球環境について論じ、その中の一つとして、人口増加問題にも触れている。今の世界の総人口は約六八億、同じ増加率が続けば、二〇五〇年には九〇億に達すると予想される。すると、食料や医薬品を含めた資源不足の危険は当然あるし、人間の呼気だけでも、CO2問題は解決不能になる、と言う者も居る。なんとかせねばならん、と。具体的には、現在人口爆発と言っていいほど増えているのは開発途上国なんじゃから、この状況を変えよう、ということになる。
ゲエルは、これらの国々にワクチンや適切な保健医療制度を行き渡らせれば、人口増加をいくらか抑制できる、と言った。一見、あれ? と思えるじゃろ。ワクチンを含めた医療とは、人命を助けるものであるはずじゃ。ちゃんとうまく働いたら、子どもを含めて、今までなら死んでいた者も助かるようになって、人口は増えるんじゃないかとな」
「この時は言葉足らずだったんじゃよ。彼の他の言説を閲すると、こう言いたかったんじゃ。開発途上国の人口爆発が止まらないのは、多産多死型社会だからじゃ。南アフリカあたりだと人々の平均寿命は短いし、幼児死亡率は先進国のおよそ倍だ。すると、社会防衛のための本能から、と考えられるが、自然にたくさん子どもを産むようになるのよ。とは言え、実際は九割以上の子どもが五歳以上生き延びるし、半分の人が五十歳以上生きるから、総体として人口は増える。昔は人類社会は全て、どこもそんなもんじゃった。保健医療の発達のおかげで、平均寿命が延び、幼児死亡率が下がれば、そんなに多くの子どもの必要は感じられなくなり、結果出産数は減り、少ない子どもにはより手厚いケアと、教育も施されることになる。すると、国が発展するから、ますます多産の必要はなくなる。現に、先進国では少産少死段階に達したから、人口増加率はゆるやかだし、日本なんぞは、減りすぎが問題になっているほどじゃろ?」
「この見通しが正しいかどうかはわからん。ゲエルその人やワクチンに反発する人間の多くと、それよりもっと多くの、この世界の悪の元凶を見つけたい人々にとっては、往々にして、そんなことはどうでもいい。言葉の表面の矛盾に固着して、ワクチンは、少なくともゲエルが開発や普及に関与しているものは、むしろ殺人兵器だ、というお話のほうが、ショッキングでスリリングだから、すぐに広まる。あとは、ネット空間を主な住処としている創作家たちが、より分かり易くて面白い物語を作り上げるんじゃ。
もっとも、ゲエルについては、まださほど面白いストーリーはできていないようだがな。まあ、SNSの記事というのは、基本短いから、断片的になってしまう、ということはある。儂がまとめると、概ねこうなる」
「すべてはDS(ダーク・ステイツ、陰の政府)が仕掛けたことだ。彼らは以前から各国政府を裏で操っていたのだが、いよいよ支配を完璧にすべく動き出した。コウモリの体内にいたウィルスから、ヒトにも伝染るように改変したキメラウィルスを作って、撒く。何しろ人類がこれまでに出会ったことがない病気が広範囲に流行るのだから、全世界的なパニックとなる。ワクチンの開発が急がれ、事実それは驚嘆すべき早さで作られ、実用化される。少し怪しいな、と疑う気持ちもなんのその、自分が接種するだけではなく、他人に伝染されるのはまっぴらごめんと恐れる人々は、陰に陽に未接種者に圧力をかけるから、このワクチンもまた、瞬く間に広まる。この段階でDSに結びついた製薬会社等は大儲けできるわけだが、そんなのは序の口。ワクチン中には、微少なナノチップが仕込まれており、接種した者の位置情報がわかるだけではなく、いざとなれば爆破して血管を破壊し、その人間を殺すこともできる。こうして、誰もがDSに逆らうことはできなくなる。ゲエルが開発途上国へのワクチン普及に熱心なのも、つまりはそのためだったのだ、と。
……何か言いたげじゃな。できの悪いSF小説じゃないか、とでも? だから最初から言っておろう、たいして面白くはない、と。別に儂らが作った話ではない。しかし、今起きている本当のことを覆い隠すためには都合がよさそうだから、放っておくばかりなんじゃ」
「だいたいな、DSというか、ワイズメンでも、名前はどうでもいいんじゃが、儂らの捉え方が根本的にまちがっておるのよ。闇の組織の大物というと、どこか奥地の要塞とか、そうでなくても大豪邸に住む成金を思い浮かべる。これがまず、漫画並の想像力なんじゃ。儂らの仲間には、ゲエルがそうであるかどうかは言えんが、確かに金持ちもおる。それも、小さな国の年間予算並みの金を自由に出来るような。するとどうなるか、わかるかな? 金に対する興味が無くなるんじゃよ。金なんてものは、現金であれ預金通帳上の数値であれ、所詮はモノを交換して流通させる手段に過ぎない、それがはっきりわかるからな。その、モノにしてもじゃ、人の物欲には限りがない、などと言うが、個人単位でみれば、あるんじゃ。つまり、飽きるんじゃな。栄耀栄華、錦衣玉食、酒池肉林、などなど、やり尽くす前に、うんざりする。それでもやり続けようとする者も、まあいるが、哀れなもんじゃよ、これがなくなったら自分が消えてしまうとでもいうような執着心とは、むしろ、モノに必死で縋っているようなもんじゃないか。一番原始的な、生命への執着の現れかな。別に悪くもない。どんな者でも、寿命という限界はあるんで、それを越えて欲望が追求される、なんてことはないんじゃからな」
「権力にしても、だ。周りの人間が、なかなか自分の思う通りに動かん、いやかえって、こっちを好きなように動かそうとするのが不満じゃから、社会的な力が欲しいんじゃろうが。儂を好きなようにできる人間なぞおらんぞ。儂は儂の好きなように生きておる。孤独に耐えられる精神の強さがあるなら、そんなことはすぐに実現できるんじゃ。そうでなくても、お前がたに訊きたいんじゃが、地球のどこかにいて、まず一生会う見込みのない人間が、自分をどう思うかなんて、気になるかな? ふん、まあ、この問い自体が無意味じゃな。そういう人とは、お互いに全く知らないんじゃから、どうとも思いようがないからな。ヒキ・ゲエルのような、超有名人にしても、知らない者の方が絶対に、圧倒的に多い。で、それを踏まえるとじゃ、世界全体を支配する権力、とはいったい何かな? 全く知らない人間でも思うように動かしたいと? 動かすも何も、お互い、存在していないも同様なのに? そんな力こそ、さっきのSFと同様、それ自体が子どもっぽい空想でしかないんじゃよ。わかるかな?」
「つまり、金儲けに狂奔する奴、それに、権力闘争に血道をあげる奴というのは、あらゆる意味で、中途半端な分限者としか言えんのじゃよ。儂らの仲間は、とっくにそういう段階を越えた者から成っておる。だから、こういう狭い部屋に逼塞しているように見えても、一向に平気なんじゃ。そしてそういう者だけが、自分一個を超えて、この世界と人類について、真面目に考えることができる。それこそ自分たち選ばれた者に課された義務だとわかるからな。だって、そうじゃろ、君たち庶民は、自分の生活で精一杯なんじゃから。それでいい、ではなくて、いいも悪いもありゃあせん、どの時代でも、大部分の人間はそうしたもんだというだけじゃ。それだけに、個々人としてあたりまえにやっていることが、総体としてはどえらい結果を招くとしても、気づくことはできん。目の前に突きつけられても、およそ現実感のない、夢物語としか思いようがない。だから、いろいろ埒もない夢物語が流行るんじゃ」
「さてそこで、今起きていることの正体、というより、意味じゃがな、お前がたにどの程度理解出来るか、心許ないが、せっかく来たんじゃから、一番の根源だけ話そうかの。それは、個々人やら、個々の国家や、民族ではない、人類全体の不幸に関することじゃ。なくなったわけではない。人類がある限り、永久になくなりはしないが、今それが、かつてなく見えづらくなっておる。不幸、という言葉は相応しくなかったかな、常に身近にあって、こちらの生存を脅かす危険のことじゃ。飢えとか、疫病とか、戦争とか。人類は今まで、そういう危険を完全に逃れることはできなかったのは、わかるな? 無論、人類だけではない、あらゆる生物が、厳しい生存競争をくぐり、ある種は滅び、他の種は子孫を残す。それが、生きる、ということの常態なんじゃ。人類は、他の生物との競争に打ち勝ち、全く例外的な安全で安穏な生き方ができるようになった。ここに、最大の罠があるんじゃ。さっきの話にも出てきた、地球環境がどうとかではないぞ。人為による環境の変化など、地球の誕生からこっち、この星が経てきた数々の変動から見たら、取るに足らぬ。ただその変化の中に、人間にとって都合が悪いことがありそうなんで、騒いでおるだけで、人間中心主義は少しも変わっておらん。それも当然、しかし、当然としか思えないとしたら、生物としてのまっとうなあり方から外れる。正道にもどるためには、目に見える形で、大きな危険を呼び戻さねばならん。昔はそれは、神罰を下すという、神の仕事だったのだが、宗教心が衰えた今は、神も無力になったのか、それもできんようじゃ。それなら、最も神に近い儂らがやるしかない。手段としては、物質でもなく、生物でもなく、その中間のものを使うのが適当じゃ。だから」
老人は突然言葉を切り、がっくりとうなだれた。二人の雑誌記者は驚いて、しばらく様子を見たが、やがてかなり大きな鼾が聞こえてきた。老人は眠っていたのだ。
「ああ驚いた。マスクなしなんでコロナにやられたか、それとも、余計なことを言い過ぎたから、ナノチップを爆発されちまったのかと思いましたよ」と、若い方の男が言った。
「そんな大したことは言わなかったじゃないか」
先輩記者は老人に近寄って少し顔を眺めてから、室内のインターホンを押して、この老人ホームの職員を呼び出した。
「それで、どうです? 記事にはなりそうですか?」
「無理だな。令和の葦原将軍を期待したんだが、そんな痛快な爺さんじゃなかった。妙に理屈っぽいだけで。政治家や有名人をこきおろすでもなく、宗教的なところも中途半端、壮大な予言もなし。つまらない暇つぶしだったな」
こうして、現在最も貴重な真理は、片鱗も世に出ることなく、葬られたのだった。
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